淀む
あなたの言葉で、全てを思い出す。
それでも。ゴクリと唾を飲み込んで、笑顔を作ると私は、間違いへの扉を開けた。
始まりは思い付いたからだった。楽しい楽しい遊び。
パート先の店長は私に気がある事は分かっていたし、毎日は詰まらなかった。
空いた時間にスマホいじって、お昼ご飯を食べながら夜ご飯を考える。家族が散らかした物を決められた場所に戻して、掃除機をかけて、洗濯を畳んで。中学生の娘達からは『いつも美味しいご飯をありがとう』くらいしか言われない。それでも男の子のママ友からはマシだと笑い話にされる。
主婦は大変なんだ、と声に出して言うつもりなんてない。私も主婦は楽だと思ってたから。
実際、家事はとても簡単な仕事で手抜きだってたくさん出来る。でも主婦は大変だった。
主婦の最大の仕事は人間関係を作る事。単純に面倒くさいだけだと思ってた自治会やPTAは複雑に面倒くさいものだった。
気ままな独身の頃は気が付かなかった。学生の頃は想像も出来なかった。自分の評価がそのまま家族への評価になる事の恐怖と息苦しさ。
私にも息抜きが欲しかった。
スマホを手に取りパート先の店長と『業務連絡』をする。
【急ですが、22時から入れますか?】
【明日が早番なので、無理です】
すみませんと付け足して時計を見る。今は7時半で娘達と夜ご飯を食べている。主人が帰ってくるのが9時頃かしら。主人のご飯を温めて、食べ終わった食器を片付けて、それから……。うん、時間は大丈夫そう。
「お母さん最近よくスマホ見るね」
「そう? まぁお仕事だからね。あなた達は見たらダメよ」
「え〜ズルい〜」
「早く食べればいいじゃないの」
娘達の学校での話を聞きながら、くだらないなと思う。女は何歳になっても同じ様な話しかしない。私も同じだろうかと思うとうんざりする。
適当に娘の友達の名前を間違えない程度に覚えて、相槌をうつ。
ソワソワと浮かれる心を抑えつけて、娘を部屋へ追い立てる。
入れ違う様に帰って来た主人に愛想良くお疲れ様を言う。気分はパート先と変わらない。
主人がお風呂に入った頃、毎週やっているドラマをつける。流行りのアイドルみたいな顔の男の子とベテランの女優が出ている事しか覚えていない。それでもTVをつけているのは会話に集中しすぎない為。
【待った?】
【ううん♡時間ピッタリだね♡】
愛しい彼とスマホのゲームの中で話をする。
『業務連絡』は履歴の残るメール等での会話。内容は何でもいい。不自然にならないよう断りを入れてもいい。必要なのは日時だけ。
あとはこうやってゲームの中で甘い言葉を囁きあう。デートの約束だってこの中でしてしまう。鍵付きのルームに入れば、浮かぶ吹き出しはすぐに消え、どこにも履歴は残らないのだから。
これが、私の思い付いた遊び。
バレたら終わりのゲーム。
娘達が成長してきて、一息ついた私に出てきた欲はとても意外な物だった。
『愛したい』
誰かをドロドロに愛したかった。それこそ無責任に。
子育てなら心を鬼にして叱らなければならない時がある。我が子だからこそムカついて仕方ない時もある。犬猫だって躾は必要だし、主人にもしっかりしてもらわないといけない時だってある。
だから、不倫にハマった。
ただただ好き勝手に愛を吐き出せば、お姫様のように甘やかされる。綺麗な面だけ見ていられる。小さな子に読み聞かせる絵本の様な世界にどっぷりと浸かって、私は、満たされてしまった。
「最近ずっとスマホ見てるね。なにしてんの?」
「ゲームよ。キャラの服が可愛いの」
お風呂から出てきた主人に話しかけられ、顔を上げる。
キッチンで半裸のまま麦茶を飲む姿に嫌気が差す。
【もうお風呂から出てきた〜(泣)】
【まぁまぁ。まだいいでしょ?】
「ふーん。ほんとだ、お前が好きそうな絵だな」
画面の吹き出しは流れて消え、会話が止まる。
主人が後ろからスマホを覗き込み、そんな事を呟いた。まだパジャマは着てないし、麦茶の入れ物は出しっぱなしだ。溜め息を喉の奥に落とし込む。
【どうしたの?ダメそう?】
【うん、今日はもう終わるね】
画面の中の可愛い女の子達がバイバイと手を振る。私はハートのエフェクトを振りまいてからルームを出た。
念を入れたつもりは無かったけど、彼に女の子のアバターを作ってもらって良かった。
なんだか、物足りないからゲームを続けてレベルを上げる事にした。
「ハマるのは良いけど、課金すんなよ」
「大丈夫よ」
そんな事にはハマってないから。
ある日曜日。運命の日。
なるべくパートと誤魔化せるよう夜には彼と会わないようにしていたけど、その日は初めて夜に会う約束をした。
ウキウキを抑えるつもりは無い。今は娘達と主人がくれた『主婦の休日というプレゼントに浮かれるお母さん』なのだから。
「随分念入りに化粧するんだな」
主人の声に顔を上げる。いつものように、自動で動く玩具のように。
でも、主人の顔を見て、私は察した。
「そんなに会えるのが楽しみか?」
あなたの言葉で、私は全てを思い出す。
ああ、私達は夫婦だったわね。愛し合って結婚したんだった。
「心配しないで。いつものメンバーで飲みに行くだけだから」
あなたの目に映る希望が絶望に変わるのを見てとる。
私が、それを分かった上で誤魔化そうとしているのをあなたが見てとる。
それでも。ゴクリと唾を飲み込んで、笑顔を作ると私は、間違いへの扉を開けた。
「そうか。いってらっしゃい」
「いってきます」
玄関が閉まると急いで彼にメールをする。
【今日は中止で。主人が疑ってるようです。】
【え、大丈夫なの?それ】
【分かりません】
【いや、分かりませんじゃなくてさ】
【ここは仕事用メールですよ】
彼からの返信が止まる。私はそのうちに急いで履歴を消した。彼も多分そうしているだろう。
【何かあればご連絡いたします。】
もしかしたら先に主人からくるかもね。と自分自身をも嘲笑して早足で歩く。
【今から会えない?】
次に幼馴染みにメールをする。『いつものメンバー』ではないが、未だ独身で会いたいと言えばすぐに会える彼女はこんな時頼りになった。
【どしたん? 1時間待って〜】
昔から変わらないのんびりした口調。これでもメールの方がまだしっかりとしている。
彼女は漫画を描いていて、ずっと自宅にいる。私は外に出て恋愛をするでもない彼女を見下し、小学生の時からの夢を叶えた彼女を尊敬している。
【そっちの近くまで行くね】
1時間。何をしていようか。
考えなければいけない事は沢山ある気がするのに、どうしようもないじゃないと、もう一人の私が諦めようとする。
財産分与、慰謝料、養育費、母子手当、高校の授業料。ネットで集めた偏った知識で私は自分の末路を計算した。でも、怒った主人の行動の予想がつかなくて、それが不安でしかなかった。
「なにそれ。サイテー」
珍しく彼女が怒った口調で言う。
「分かってるよ」
「ふーん? アンタがそう言うならもう何も言わんよ。ぜーんぶ分かってるんでしょ。アンタは昔から言い訳けとか愚痴とか言わ無いからね。それは凄いなと思ってたけどさー。ぜーんぶ分かった上でしてたんなら、全然凄いと思わない」
居酒屋で彼女がビールの中ジョッキをあおる。左手でドンと音を立ててテーブルに置くとそのままの勢いでおかわりを頼んだ。
彼女は右利きだが、普段右手を使わない。商売道具のその手は、もう重い物を持つのに適していない。
黙っている私に、彼女はボソリと言った。
「罪には罰を、だよ」
ああ、彼女にも捨てられた。
出掛けてから3時間後、私は自宅の扉を開けた。お酒を飲んだのに全然酔っていない。いつもならアルコールを入れた身体はポカポカと温かいのに、指先が冷たくて仕方ない。足元が奇妙に柔らかいのもお酒のせいなんかじゃない。
ドアを閉め、玄関に入って私はその違和感にちゃんと気が付いた。
家の中が静かだ。
「おかえり。早かったな。手紙だけ置いておくつもりだったのに」
がらんとしたリビングの中央で、主人は言った。
「……子供達は?」
「テレビも棚もない、広い部屋を見て最初の一言がそれか。立派な母親だな!」
主人は私を殴る代わりに手に持っていた手紙を床に叩き付けた。
糊付けされていないA4の茶封筒から写真が数枚、滑り出てくる。
芸能雑誌で見るような、彼とのツーショット。
「皆には伝えた。娘達にも、勿論ご両親にも」
主人の声に顔を上げる。
「親権は俺がもらう。娘達は顔も見たくないとさ」
「待って。え? 待ってよ」
つらつらと罪状が読み上げられる。頭に入ってこないそれらの言葉は、多分茶封筒の中に同じ事が書いてあるのだろう。
「違うの」
「違うって何が? その証拠は一部だよ」
「愛してるのは貴方だけなの」
「それ、信用できると思うの?」
「話し合いましょうよ」
「いいよ。裁判所でなら」
取り付く島も無い返答になぜか私は銀行のATMを思い出していた。
「ねぇ、待ってよ」
『カードを入れて下さい』
「お願い。誤解なの」
『暗証番号を入力してください』
「本当に、愛してるのは貴方と娘達だけなの」
『ご利用ありがとうございました』
私の脳はおかしくなってしまったんだ。そう理解して、もう何も言えなくなった。
それから、本当に娘達と会うことはなく、自分にいくらの借金があるのかを把握しないまま両親に会いに行った。ケジメをつける為に。
父に思い切り殴られ、母はただ泣いていた。
罪には罰を。
これで気が晴れることは無いだろうが、誠心誠意謝って実家を出た。18年前、祝福されて出た筈の家を今度は罵倒されて出た。
産まなければ良かったと思われただろうかと思うと、流石にしゃがみ込みそうだった。
罪には罰を。
悲しくて倒れそうな時、死にたくなった時、この言葉は逆に私を支えてくれた。
償わなければ。きちんと罰を受けなくては。そう思うと踏ん張れた。
これは彼女の優しさだったんだ。本当に彼女は私を理解してくれている。
「ちょっといい?」
これで、ここも終わりか。これで3度目になるかな。
「あなた、不倫して離婚されてたって噂になってるわよ。ホントなの?」
「はい、本当です」
パート先の主任に言葉の外で辞めろと言われる。慣れてしまった私は本当にどこかおかしいのだろう。
どこからこの噂が流れてくるのか。私は知っている。ただの予感だけど、確信している。
ここを引っ越ししても、きっとまた主人は探偵を使って私を追いかけてくるんだろう。
愛されてるなぁと、私は笑った。
ぐちゃぐちゃに濡れた顔で、小さく丸まり、嗚咽を漏らしていても。
確かに私は、笑ってたんだ。
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