見出し画像

2023年は学術活動10周年~10年間を振り返る 2013年編~

2023年最初の記事です。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
・・・もう、1月最後の日ですけど。

ちょっとした自己紹介

以前の記事にも書きましたが、私は遅咲き(「咲く」といってよいか不明)の大学教員です。
2014年4月に、当時40代前半で、博士前期課程進学と同時に大学の助手として勤務し始めました。
おそらく、看護以外の学問分野では考えられない(博士号所持が前提であると思うので)処遇かと。
でも、今はそのようなパターンは、ほぼ皆無ではないかと思います。

その前は、看護専門学校の教員として働いておりました。

2023年は、私にとって学術活動10周年です。
2013年に日本看護教育学会学術集会で、学会発表したのが始まりでした。
当時は、看護専門学校の教員であり、教育実践の発表を行ったのがスタートです。

厳密に言うと、ライセンスを取り、大学病院に就職して1年目と2年目にも学会発表しているのですけど、その後は途絶えていたので、2013年を私の学術活動元年とします。

日本看護学教育学会第23回学術集会(2013年8月7-8日)

10年前につき、残念ですが、学術集会のHPは既に閉鎖されております。

2011年8月、震災後に宮城で開催されることが決まったようです。
当時の学会の紹介ページはありました。

参加を決めた理由

私は、宮城県仙台市の出身です。
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。
その当時、私は仙台にはおらず、東京の専門学校で仕事をしていました。
地元で起こった大きな地震に愕然とし、映像で見る変わり果てた故郷の姿に涙が止まりませんでした。

しかし、誰よりも大変な思いをしていたのは、地元にいた友人たち。
私は、しばらく何も出来ない無力感に襲われていました。

2011年8月。震災直後でしたが、仙台七夕が開催されることになり、
私は仙台へ足を運びました。
ヘッダーの写真は、2011年8月7日の七夕祭りの写真です。

何も出来ない無力感は、相変わらずでしたが、
地元の親友が、こう言ってくれました。
「地元に足を運んでくれるのが、何よりの復興支援なんだよ」と。

その後、私は、地元へ頻繁に行くようになりました。
その度に、友人たちは「会うと元気になる」ととても喜んでくれたのです。

日本看護学教育学会は、震災後初の地元での看護系の学会開催だったように記憶しています。
しかも七夕開催ということで、突き動かされるように学会発表するための準備を開催しました。
この学会で発表しなければならない、と何か直感的に思ったからです。

私はこのとき、自分のライフワークにもしている「ペリネイタルロスを経験した女性と家族への支援」に関する授業実践を発表したいと思い、準備をはじめました。

震災も大きな喪失体験であり、私の発表テーマも、ペリネイタルロス(流死産や新生児死)を経験した方々の喪失体験だからです。

私には、震災直後に、流産を経験した地元の友人がおります。
その友人の話も、思いを込めて講義で話しておりました。
震災でも日常が失われ、お腹に授かった大切な命を失った友人の辛さや悲しみを、学生たちにも話しておりました。

講義の際は、私だけでは無く、講義の中で話している当事者の気持ちも一緒にのせて学生たちに伝えています。
そのため、学会発表することは、当事者の皆さんや講義に真剣に参加してくれている学生たちの思いも一緒に伝えることになります。

抄録が採択された時の気持ちを、今でも鮮明に覚えています。
私にとって地元で開催される学会で発表できることは、大きな意味があったのです。

学会に参加して突きつけられた現実

その当時の私にとって、自分の実践をまとめて発表することは難しいことではなかったのですが、自分の実力が全然至らないことを痛感しました。

まず、講義をつくることとは、全然違うからです。

講義は、1コマ90分です。
充分説明する時間があります。

しかし、学会発表は、わずか10分ほど。
当時の発表時間を覚えていないのですが、10分あったかなかったか、だったかと思います。

そのわずかな時間で、リスナーに自分が行ってきた実践をわかりやすく伝えなければなりません。

・背景
・目的
・方法(倫理的配慮含む)
・結果
・考察
・結論

今でも覚えているのですけど、自分の言っている話に一貫性が無かったように思います。
特に考察。何故その文献を用いて考察したのか、話しながら多少の違和感を感じていたのですが、当時の私はそれを使うしか無かったのです。

聴衆の皆様も、首をかしげながら聴いていた様子を今でも良く覚えています。
私は、教員経験がそこそこあるため、学会発表でも聴いている方々の顔を見る余裕があったのです。それは今でも同じです。学会発表でも、相手の顔を見て話すのは、大切なことであると思っています。
そこは、(ほぼ)初めての学会発表の割には、良かった点でしたが。

講義も含めて全てのプレゼンにおいてそうなのですが、
自分が話していて、「ん?」と思う、突っかかるような箇所は、スルーしてはいけない箇所。
すぐにスムーズに言えるように、納得いくまで直しています。

当時は、違和感を感じていても、うまく修正出来ませんでした。
使用していた文献は、今振り返っても適切なものだったと思います。
しかし、何をどう説明したら、聞き手がスムーズに受けとめられる発表が出来たのか、当時はわかりませんでした。

この頃の私は、大学院博士前期課程の受験準備も行っていた頃です。
その前年から、大学院進学に気持ちを向けており、研究への意欲を高めていました。それもあり、学会発表としては最良のタイミングだったと思っています。
大学院へ行き、しっかりと研究を学ばなければ!と痛感した学会発表となりました。

この学術集会には、厚生労働省看護研修研究センター時代の同期2人の友人が、同席してくれました。帰りの新幹線に乗る前に、駅ナカで一緒に食べた気仙沼のあさひ鮨が美味しかったですね。

追伸:当時の様子がわかる、医学書院発行の「週刊医学界新聞」がありましたので、当時の記事のリンクを貼ります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?