強さと内的世界、決して傷つかない鉱物について

 久しぶりに開いた。わたしを取り巻くあらゆる状況が変化した。昔の日記を開いて読もうという気には(今は)全くなれないし、過去の自分と決別することをずっと考えている。

 わたしは中学生のときがいちばん強かった。誰にも傷つけられない、この世でいちばん固いものとして自分があった。世界の中心は自分だった。
 このときの強さについて、最近考えている。これは根源的な他者への絶望と、うっすらとした見下しを基盤にした強さだったように思う。このころの自分は、他者というものを自分に傷をつけることができない、軽く小さいものとして捉えていたのではないだろうか。

 高校生になって、世界の中心は自分ではなくなった。相変わらず、他者のことをやわらかく見下しながら、それでも他者からの承認を自分の生存条件だと認識していた。人と関わるときは、ずっと怯えていた。いつ嫌われるかわからない、いつ離れられるかわからない。そうなったら死ぬ、という妄想。

 大学生になって、世界の中心に自分が据わることのないまま、他者への愛と信頼を得た。自分よりかしこく、つよく、うつくしいひとびと。彼らからの承認をみずからの生存条件と見做しながら、それを得るために生きるという、承認と生存の無限の円環。その中にあり、それを再生産するものとして自己があった。

 わたしは弱くなった。新しく獲得した他者への愛と信頼のうえに、自我が据わらないままにぐらついている。他者と比較して自分を低める回路ばかりが増強され、それによって、自分を低める理由ばかりを探している。

 わたしは世界の中心に自分を据えようと思う。昔の自分がそうだったような、絶望と見下しによって支えられる中心としてではなく、愛と信頼の上に築かれる中心としてである。

 昔のわたしは、他者を「自分を傷つけるに値しない、軽くて小さいもの」と見ていた。今のわたしは自分を「大きく重い他者に傷つけられて然るべき、軽くて小さいもの」と見ている。過去のすべてから脱却して、「大きく重い他者と、それより大きく重い自分」からなる世界を構築しようと思う。

 内的世界を作り上げるというのは難しい試みである。おそらく自分はもっと本を読むべきだし、もっと日記を書くべきだ。もっと映画を観るべきかもしれないしもっと音楽を聴くべきかもしれない。とにかくこれまで作ってきたものをすべて破壊し、建て直し、完成する必要がある。これからは日記をしばらく書いてみます。

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