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「君が泣いた夜。」

君の悲しみを全部背負ってあげられたらいいのに、と過呼吸になりながら呻くように泣き続ける早希の背中をさすりながら考えていた。深夜2時を過ぎ、少し開いた窓からは夏にしては少し冷たい夜風が入り込んできた。狭い4畳ほどの寝室を埋め尽くすようにダブルベッドが置かれており、その上で早希が膝の間に顔を埋めて顔を隠すように体育座りをしている。なぜ早希がそれほどまでに激しく泣いているのか、僕にはまだよく分かっていない。だって、まだ知り合って2週間しか経っていないのだから、分かるはずがないのだ。

窓の外は、ビルの灯りが青みがかった都会の夜空をより一層明るく照らしていた。早希と出会うまでの1年間、僕は毎晩眠れずにこの部屋で窓の外を眺めていた。雪が降る夜も、雷雨の夜も、満月の夜も、いつもベッドで横になりながら、じっとこの空を見上げていた。皆が寝静まった静かな夜の街で、誰にも邪魔されることなく一人物思いに耽っていた。窓越しに見える夜空は、どこまでも続いているかのように果てしなく広がっていた。永遠にさえ感じるそんな夜の時間に、僕は孤独な気持ちを抱えながら、いつか出会う愛する人を想っていた。その人は今どこで何を想っているのだろう…。その人も今この空を見上げているのだろうか…。まだ見ぬ運命の人のことを考えながら、来る日も来る日も夜になるといつも窓越しに夜空を見上げていた。

そんな日々を思い出しながら、今目の前で泣く早希を後ろからそっと抱きしめてみた。彼女の背中に顔をうずめながら、この部屋でずっと"君"のことを考えていたんだよ、と静かに呟いた。早希はこれまできっと沢山の傷を抱えて生きてきたのだろう。僕の知らない場所で、傷ついて耐えて生きてきたのだろう。そんな過去のワンシーンに、僕がこうしてやれたらいいのになと思ってみたが、そもそも僕がいたら彼女はこんなにも傷つくことはなかっただろう。それはそうだ。早希はまだこの世界のことを何一つとして知らない10代前半の年齢から、汚い大人にまみれた芸能界で必死にもがいて生きてきたのだから。普通の人が一生知らずに済むような人間の裏表を見なければいけないし、成功と転落が日常の風景の中で当然のように繰り返され、そこから振り落とされないように努力を重ねなくちゃならない。それに、性と金といった欲望の標的になって、大人たちの嫌な視線に耐えて生きてきたのだ。そりゃあ、身体も心は壊れていくはずだ。光が当たる場所には、その明るさ比例した大きな影ができる。人気であればあるほど、容姿が良ければ良いほど、お金があればあるほど、持たざる者には知り得ぬ苦しみがあるのだ。

「なあ、こっち見て」

泣き顔を見せない早希に思わずこう言った。

「嫌だ…」

「いいから。」

いいから、なんて何の理由にもなっていないが、引き下がらない僕のお願いに、恐る恐る顔を上げてこっちに顔を向けた。人気モデルの早希は、無邪気な可愛い笑顔で周りを和ませるテレビの中の姿が嘘のように、深い傷の痛みに耐えきれず、歪んだ表情をしていた。苦しみに満ちたその顔は、もう彼女の傷が取り返しがつかないほど深いところまで達していることを物語っていた。一度汚れた水は、もう澄んだ頃のようには戻らない。彼女の純白な美しい心は、もう手の施しようがないほどに汚されてしまっていた。

窓から差し込む都会のネオンが彼女の涙を白く照らした。大きな瞳から溢れ出る涙に、僕はそっと近づいて口付けた。やめて、と僕を振り解こうとする腕をかわして、

「いいから。」

と彼女をたしなめた。また、だ。僕は彼女の涙を喰むのに必死で、ろくな理由も言えなかった。こんなにも美しい早希の涙がベッドのシーツに吸い込まれるなんて、許せない。相手がたとえモノだとしても、僕は嫉妬してしまうのだ。

「しょっぱい。」

そうやって舌を出して、わざとらしく苦い表情をして見せると、さっきまで泣いていた彼女が、バカね、といった風に吹き出した。作戦成功。あとは、悲しみに浸る間もないくらいに、さっきよりも勢いよく早希の右目と左目の目尻を交互にパクパクと涙を食べた。

「やめてよ」

と泣きながら笑う彼女を尻目に、僕もいたずらに笑った。さっきまで肩を震わせながら咽び泣いていた彼女の悲しみは、こんな小手先の道化じゃ何一つ拭えないことは分かっているのだ。ベッドの上で小さくなって涙を流す彼女の悲しみを拭い去ることなんて、どれだけ僕が自惚れていたとしても不可能だとわかっている。君のこれまで抱えてきた傷を、全部僕のものにできればいいのだけれど、それは叶いそうにない。だから、僕は馬鹿になって彼女を笑わせて、一瞬でも忘れさせてあげるのだ。僕が神様なら君のかさぶたを一つ一つ丁寧に取り除いてあげるのだけれど、もし全て消し去って純白になった君の前に果たして僕はいるのだろうか。この普通じゃない世界で、普通じゃない君だから、普通じゃない僕と出会ったのだ。

早希が泣き始める前と、泣き止んだ後で窓の外は何も変わっていない。強いて言えば、ストロベリームーンの位置が少し高くなったくらいだ。都会の小さな4畳の部屋で、小さく重なる二人の影。作業のように毎日繰り返される夜の一コマで、静かに育まれる愛が、見えない糸になって二人を強く結んだ。何一つ本当のことを教えてくれないこの世界で、何もわからないまま惹かれあって、いつか終わる二つの物語。明日の行方は、また明日解き明かされるはずだから、君が泣いた夜を過去に置き去りにして、今夜はそっと夢を見よう。唇に残った君の涙が乾く前に。


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