写生はリアリズム足り得るのか――写生の逆子性について――

① はじめに
俳句という詩形がリアリズムを受容したのは、子規の時代であるというのが定説であろう。西洋から渡ってきたリアリズムは、月並俳諧からの革新を掲げた子規が目を付け、写生という方法を伴って詩形に現出させられた。以後子規の死後も、虚子の巧みな舵取りにより、俳句が写生、あるいはそれに対するアンチテーゼというかたちで主な動きを見せ、虚子以後の多様化の流れにおいても写生/写生でないという対立の意味で表現のベースに広義の写生があったことは多くの人が肯うところだと思われる。
だが、写生という方法――その見通しの悪さについて僕たちはどれだけ自覚的であろうか。すなわち、いま、写生という釣り糸の先にリアリズムは、本当にぶら下がっているのだろうか。いまや僕たちが竿を引き上げたときに感じるその確かな手ごたえは、写生という空虚な方法論それ自体の重みでしかないのではないか。
さらに言うならば、写生というメソッドは、僕たちに簡単に魚影を見せてくれる。食いついた魚の大きさを何寸であろうかと心待ちに出来るやすけさも与えてくれる。それは、足元が揺らぐ・不安定であるといった危うさとは全く質を異にする。それどころか写生を信ずるということは現代において、ひとまず歴史性に足元を十二分に保証され、ともすれば安寧のうちに詩を為すということである。
写生自体を否定しようというつもりは毛頭もない。そこにはある期間継続された語り方が身にまとうある種の権威が確かに温存されている。ただ、写生の安定感を自明のものとして引き受ける態度には違和を抱くことの表明であり、そのような態度への不信の表明である。
いわばこの試みは写生を立ち止まることであり、立ち止まることは、つまり選ぶことを留保するということは、書くことにおける最も基本的な態度でもある。伝統に連なる意識に必要なものは妄信ではなく、伝統を一番後ろから見晴るかすことだ。

② 「モノ」の仮構性と転倒性
写生は、リアリティに結び付けられながら俳句という詩形において我が物顔で振る舞ってきた。しかし、ぼくたちはもっと写生についての判断を慎重にならなければならない。つまりどのように写生という方法が成立しているのか、という点である。写生という方法が成立するうえで最も原理的に基本的なものは二つ、すなわち「語る機能」と「語られるモノ」であろう。
A・ジッドが小説の固有性を話者に求めて『贋金造り』を書いたように、前者の「語る機能」(ジッドのいう話者)に関しては、散文韻文問わず文芸というジャンルそのものに固有のものに思われる。書かれたものには「語る機能」が存在する。たとえ書かれたものが意味を為さないただひとつの音素のようなものだったしても、文芸的に書かれたものという意識化におかれたそれは書き手の統制下にあるように思われるから、意味がとりにくいという意味の起点にさえなる。そういった意味で「語る機能」はどういった枠組みのどういった語られる内容に対しても立ち現れてしまうから、ひとまず信頼できるといってよいだろう。こういったあたりが福田若之の第一句集『自生地』(東京四季出版、2017)のメタ的な在りように繋がっていると思うのだが、このあたりはまた別の機会に考察したい。
しかしながら後者の「書かれるモノ」のはどうであろうか。「書かれるモノ」はあたかも自明で昔からそこにあったもののような顔をしてはいまいか。それどころか、写生においての「書かれるモノ」というのは、ただの書かれ得る対象、オブジェクトを意味してはいないだろう。それは信仰対象であり、崇拝対象だ。
であるから、現実がテクストの中に於いて再び現れること――すなわち「再現」を第一原理とする書き手にとっては、それゆえに、そのまま書くことがテクストの絶対性に繋がる。現実をあたかもそのまま言葉の中に持ち込まれたように直叙する彼らにとって、言葉は透明であればあるほど良い。その奥にある「モノ」を見せるためには言葉の透明性が不可欠なのである。その理論的な現れ方が素十の〈引つ張れる糸まつすぐや甲虫〉〈探梅や枝の先なる梅の花〉などに見られる客観写生であり、秋櫻子が虚子と袂を分かつことになった主観表現の排除なのだ。主観は、書き手の存在の知的操作としての表れであると捉えられ、言葉=「モノ」という等式のあいだに書き手の存在を差しはさみ、等式の絶対性を揺らがせてしまう。それは窓が透明であることによってその任を果たすのと同じ原理であり、窓に色付き硝子は要らないのである。
しかしながら、テクストに於いては、そのような透明な言葉そのものが、奥にある「モノ」という仮構を作り出している、という言い方が正確であることに気付かなければならない。つまり、窓が先行していることにより、外界が偽装されているであり、「モノ」と呼ばれている意味性を窓に吹き付けているのは当然のことながら言葉、もっと言えば、そのまま書くと呼ばれてきた語り方そのものなのだ。ここにおいて、現実世界の「モノ」は参照物として以外は何ら関与しない。
すなわち写生という語り方は、真実であるという信用を設定するひとつの文体のことなのであり、もっと言ってしまえば、本当であるという嘘を本当らしく語る、明示された虚偽性のことである。それは『エクリチュールの零度』(森本和夫・林好雄訳注、ちくま学芸文庫、1999)においてロラン・バルトが、フランス語に於いて歴史や神話を語る際に用いられる特徴的な時制である単純過去を「創造的なものの形式的な保証を与えるけれども、この標章に、真実らしいと同時に偽物でもある二重の客体の両義性を残す」と喝破するところと、非常に類似しているだろう。それは自然主義を評して「この上なく近いところで〈自然〉を描写すると称したこのエクリチュール以上に人為的なエクリチュールは、まったく存在しない」「写実主義的なエクリチュールは、中性的であるどころか、それとは反対に、捏造のこの上なく見世物的な諸標章を背負い込んでいる」と述べるところと繋がる。いわばこれは写実主義が構造上背負ってしまうジレンマであり、そして殊に写生は、このジレンマを最大限に膨れ上がったかたちで抱え込んでいる。
それゆえに、今述べたような、語り方としての写生の在りようを示せば写生はその秘密にされていたところのほとんどが明るみに出たことになるのであろうが、ひとまず、その窓から見えるように思われていた外界の価値、すなわち「モノ」の権威(写生を信仰するほとんどの俳人は語り方よりも「モノ」、つまり語られる客体に写生の有効性を依拠しているだろうから)を考えてみることにする。柄谷行人が『近代日本文学の起源』(原本、講談社文芸文庫、1999)の中で指摘しているところを引用しよう。
「『山水画』において、画家は『もの』をみるのでなく、ある先験的な概念をみるのである。同じようにいえば、実朝も芭蕉もけっして『風景』をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学にほかならなかった」
柄谷のまなざしはやや極端であるとしても、これが示唆するところは興味深い。子規以前の俳人の網膜に映っていたのは、「モノ」ではないのである。様々なコノテーションや情緒や文学、それこそがもっとも自然に知覚されるものだったというのである。石橋秀野に〈荻咲くやかしこの山も歌まくら〉という句があるが、「モノ」以前の外界はまさにこの句のように、様々なコノテーションや情緒や文学と「モノ」の二重写しが、今よりももっと、二重写しと認識されない形で行われていたのではないか。
「モノ」と対応しない枕詞や序詞のようなものが和歌に於いてふんだんに使われていたことなども、子規以前のパラダイムを共有する書き手が「モノ」を見ていなかったことを示す一材料になるだろう。柿本人麻呂の〈あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ〉を思うとき、その歌のほとんどが「モノ」に還元されない言葉であることの示唆性に気付かねばならない。ここに満ちているのはもちろん「モノ」ではなく、情緒や文学といったイメージがその言葉自体に厚みとして充足しているのである。
つまりここで指摘したいのは、「モノ」は決して伝統的な短詩に於いて固有なものではなく、むしろ「モノ」以前の短詩を成り立たせていたのは、情緒や文学といったイメージの厚みだったいうことである。であるから、山口誓子がモンタージュに学び二物衝撃を確立した手柄は革新性というよりもむしろ、子規以前のイメージの優位性の回復といえるかもしれない。
話を戻す。「モノ」は近代に日本に持ち込まれた一つの見え方に過ぎず、伝統的な価値ではない。だが「モノ」はいったん輸入されるとその書かれ方が――主客論争的なホトトギス内での議論がその好例だろう――問題とされた。書かれる「モノ」が存在しなければ「モノ」の書かれ方など問題にはならない。逆説的な換言をすれば、書かれ方を問題にすることで「モノ」は「モノ」自身の起源を隠蔽し、「モノ」があたかも古来よりずっと存在していた見え方のように振る舞ったのである。
すると、古来より自然に存在していた「モノ」が、写生という方法によって、俳句での価値を得たというような従来の説明は様相を変える。つまり「モノ」という知覚の在りようを作り出したのが、俳句に於いては写生という方法を伴ったリアリズムそのものなのであり、パラダイム形成という面で同時代の絵画や演劇、散文などとは共犯関係にあったのである。これが「モノ」の転倒性である。「写生」が西洋画の手法を取り入れた外来のものであることは文学史的に知られているが、「モノ」も作り出された見え方であり価値であることを自覚してはいないだろう。
もちろん、そのようなものであるからといって「モノ」の価値が失効するわけではない。が、少なくともそれが和歌などに源泉が求められる季語や音数などとは異なり、ある種の伝統的な権威は纏っていないことを確認したい。季語や音数、切れなど他の俳句的な要素と比べ、それは新しく、外来的である。
そうすると、しばしば古いものの中に新しいものが入ってくるときに見受けられる拒否反応――他人の臓器を移植されると自分の身体が拒絶反応を起こすように――「モノ」と、俳句における他の諸要素、その間に起こっていた拒絶反応の様子が、だんだんと見えてくるのである。俳句性と「モノ」は対立していた。(以後写生において「モノ」を書こうとするリアリズムを「モノ」リアリズムとよぶ)このことを考察していきたい。

③ 「モノ」リアリズムと俳句性との対立
まず季語の実際的な働きと「モノ」の関わり合いについて論じてゆきたい。季語の本質的な役割として季節感の担保が言われることがあるが、それは季語が持つたくさんの働きの中のひとつに過ぎず、季語というのは様々なコノテーションの塊である。季節感はそこから演繹されるものに過ぎない。そのコノテーションは季語体系の中での他の季語との差異によって、季節感であるとか、情緒であるとかが支えられている。現実、つまり「モノ」に還元できない厚みがあると言ってもよいだろう。
藤という季語を例にしてみる。これを「モノ」に還元してしまえば、マメ科の蔓性の落葉低木で紫色の蝶形の花が垂れ下がって咲く、というだけである。しかし、モノに還元されない厚みに目を向けてみれば、なんと豊潤な情緒を纏っていることか。ゲーテの『ファウスト』に於いて、コロスが〈どんな出来事でも、みんな/いまの世に起こることは/悲しい余韻なのよ/ご先祖様の輝かしい時代のね〉という台詞があるが、まさに季語は、輝かしい先達の文学の余韻、そのものである。
藤は万葉集の時代から読み継がれてきた。殊に平安時代において藤は藤原氏の比喩となるから、繁栄を願う祝意を込め読み込まれてきたし、源氏物語の藤壺などもまた思われるだろう。藤を季語として読み込むことは、こういった過去の文学を一句の中へ断片的に(かつ同時に全てを)引き込むことなのである。
そう考えると、季語の本質的なところは「モノ」と別のところにあるどころか、「モノ」と真逆のベクトルを持ちやしまいか。「モノ」リアリズムが、目の前にあるただ一つの「それ」を書くことを志向しているとするならば、季語というのは、過去に茫漠と広がる多様な文学諸作品「それら」の断片でありながら「それら」の全体なのである。一と多、これらは明確に対立する二者であろう。「モノ」が極点に至ろうとするとき、季語はそれを阻害するものであるのだ。『現代俳句の海図』(角川学芸出版、2008)において、岸本尚毅の〈青大将実梅を分けてゆきにけり〉のような季重なりの句を、小川軽舟が、季題としての情緒が打ち消され、句が物本来の質感のみを現すと評し得るのは、季語にこのような性質があるからこそであろう。季語が死ぬとき、初めて「モノ」が現れる。
そのように考えると、写生を推し進めてきたホトトギス系の俳人が、「モノ」リアリズムという観点で本来は決別すべき季語と癒着してきたことには逆説的な説明をしなければいけなくなる。
つまり、それ以前の伝統的な短詩は季語的な情緒の厚みによって成り立っていた。であるから、厚みを薄れさせる「モノ」を輸入したホトトギス系の俳人の無自覚的な危惧として、伝統的な短詩という枠組みが揺らいでしまうことがあったに違いない。一を志向しつつ、多の枠組みを支えなければならない――それゆえに、厚みを担保する季語を手放さなかった、否、手放すことが出来なかったのであろう。一と多という矛盾を内包する妥協から写生は出発しているのである。
次に、音数という観点から俳句性と「モノ」リアリズムの対立を見てみたい。先の季語の観点で、「『モノ』リアリズムが、目の前にあるただ一つの『それ』を書くことを志向している」と述べた。しかしながらこれは散文で試みられていたリアリズムの典型であるといってよいだろう。散文は描写を重ねることが出来、ふつう細部を書き込めば書き込むほど、コノテーションを多分に引き受ける一般的な言葉から、現実的な、ある一つの姿として微分された極私的な「モノ」に近づく。
対して、「モノ」と対立する要素としての季語を含みつつ発展せざるを得なかった俳句には、ある意味では季語以上の困難性を持つ要素があった――それが音数である。これが意味するところは明白で、ようするに、描写を重ねることが出来ないという、リアリズムにおける最大の難点があった。
小林秀雄は「文学とは絵空事か」のなかで(『小林秀雄初期文芸論集』より、岩波文庫、1980)「写実は正確になればなるほど、一般人に現実の姿からますます離れて行った」と指摘した。やや逆説的ではあるがロブ・グリエなどを考えてみれば肯えるだろう。徹底的な描写は、作者が意図するイメージを無理やりに読者に強制しようという負荷のことであり、読者が最も想定しやすいイージーな現実のありようを否定することである。であるから、一般人に現実の姿から乖離する――すなわち多から一になることこそが、リアリズムの命題といえよう。
このことを考えてみると、俳句に於ける写生は構造的に、音数の問題として、一般の姿から乖離するほどの描写の量を持ち得なかったとは言えまいか。一般の姿を離れようという緊張の中でも説得力のある姿を保ちつつリアリズムが展開されるとき、そこには一定量の語りがある。というよりも、ある語りに対して乖離の一定量が決まっているのである。そして起伏を伴いながらも、語りの量に比例して、乖離の限界総量は増える。
よって、語りの総量に音数という限界性が設定されている俳句は、写生という方法をとる以上、ある一定の乖離しか許されていないと言える。つまり地球の重力に捉えられた月さながらに、一般的な抽象観念とのあいだに不可視の鎖で繋がれながら書かざるを得ないのである。ここに「モノ」リアリズムが音数からもたらされる困難性が確認できる。

④ 写生の逆子性
以上のように、季語と音数という俳句的なものと「モノ」リアリズムは対立していた。つまり、俳句という詩形が可能にした写生というリアリズムの在り方は、必然的に意地が悪くあって、俳句的なものとの勝ち目のない対立を余儀なくさせるものであった。多を是とする詩形の中に産み落とされた「モノ」リアリズムは、それでも一を目指さなければならなかった。そういう意味で、写生は、向かうべき目的と逆を向かざるを得ないまま詩形に産み落とされ、そしてなお今もそのままである、いわば永遠の逆子なのである。
であるから、少なくとも「モノ」リアリズムは、この逆子性の自覚の上から再構築されねばならない。すなわち写生は少なくとも〈モノ〉の極点に至ることはない、という悲劇性において、ぼくたちは書き始めなければならない。
バルトがいう写実主義の、真実であるという標章の持つ偽性、このジレンマに対する返答は、ここからでしかあり得ない。これは何も、真実であるという標章を放棄し異化に徹しようとせんシュルレアリスムへの道を歩もうとの宣言ではない。
波多野爽波の〈チューリップ花びら外れかけてをり〉が、写生という制度の内部で、一般的で抽象的な〈チューリップ〉を、外れかけるという質感のみを頼りに、ただただ改めて十七音で語りなおすその語る時間によって抗っていたのは、何を隠そう季語や音数などの俳句性に対してであり、そしてリアリティを阻害するものに抗っているというその一点に於いてこそ、リアリズムに対しての誠実さを示し、俳句に於けるリアリズムがその微々たるすがたを顕在化出来ているということを、確認したかったのである。バルトが言うジレンマは克服されない。この詩形にこだわる限り、写生は永遠に「モノ」を書けないであろう。しかし、リアルを志向する意識そして抗いをリアリズムというならば、俳句というものと俳句の内部で勝ち目のない戦いを挑むことをリアリズムというのならば、ぼくは喜んで写生をリアリズムと呼ぶし、その悲劇性を甘んじて受け入れる。逆説が許されるならば、リアリズムの前においては「モノ」が書けないというのは些末な問題でしかないはずだ。

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