それを書くこと——樫本由貴「緑陰」を読んで——

 第537号の『週刊俳句』、樫本由貴の特別作品「緑陰」30句を読んだ。

 作者が2017年の広島で句を書いているということ、そして今日が8月6日であるということ、これらの担保なしにこの作品を読むことにどれだけの意味があるのかを、一晩考えた。

 むろんこの連作が、それらの担保を必要としないことは、例えば、

かつて爆心いまは入道雲のうら
白シャツやふくらんで風その匂ひ

といった、句それ自体の抜群の質や、この二句が隣りあうことによる〈白〉を媒介とした二句のテマティックな接近を、はるけく見越すといった、連作としての意識にも保証されている。
 それでも、新批評めいたスタンスをとるときに邪魔になる作者や時代の情報を、やはり導入したいと思うのもまた、これら作品からの要請である、というのは我儘だろうか。
 この作品に於いては、テキストに正直な読みをすることそれ自体が、読者による、作者の書こうとしたものへの想像のみならず、作者が背負っているであろうものそれ自体に触れることへの、半ば道徳的なちからによる促しを含むと思うのだ。
 であるから、句に対するひとりの読者として、彼女が背負うているであろう、1945年8月6日以降の広島——原爆以後——を、2017年8月6日に発表した樫本由貴という作家のことを考えつつ、テキストを読み解いていくことは、このテキストに対するひとりの読者の反応として、少し変な言い方になるけれども、自然なものであると思う。一句が持つ普遍性を評に求めることの他にも、彼女が、今、この詩形で、広島を書くということの持つ意味を、少しでも分かろうと努めること、それが、この作者が選んだ広島という句材に対する、ひとりの読者としての責任であると思う。

捨猫や桐の花ふる生垣に

この、日常との繋がりを多分に感じることのできる句から、連作「緑陰」は始まる。連作の一句目に置くという行為は、殊にそれ自体が意味を孕む。この句のスターターとしての意味は、樫本のスタンスの宣言である。それは「日常と地続きのものとして連作は書かれる」ということであり、つまり、ぼくたちが過ごす1945年8月6日以後と、樫本が提示する1945年8月6日以後の不可分性であり、その同時性なのである。この句を日常性という文脈で回収したが最後、ぼくたちはこの連作を「引き受ける」ことを余儀なくされる。

 樫本のこのスタンスは随所に見られる。

原爆ドームに楽止まぬ日や蚊に刺され
原爆はほんたう花水木の陰る
冷房の展示室冴ゆ二人来て
炎天に唾甘うして合掌す
萩を描かず原爆ドームのスケッチよ

 1句目、5句目の〈原爆ドーム〉といった句材や、2句目の〈原爆はほんたう〉といった措辞からも明らかなように、この連作における時制は明らかに現在である。原爆の投下から72年が経ったぼくたちの生活を基礎として句が読まれるように書かれている。このことも先ほど述べたようにぼくたちが地続きで「引き受け」易くしているのである。(と書くと読者が負うべき責任が減るように見えるので、ぼくたちという原爆投下から72年経った今を生きる世代が持つ小さな針穴を通すために、糸を出来るだけ細く尖らせているいう比喩の方が適切かもしれない)

 そしてまた、樫本自身も日常と地続きというスタンスを取らざるを得なかったであろうこと、それが広島を句にする様々な方法のなかでもっとも樫本が妥当であると考えたほぼ唯一のものであろうことも、想像がつく。あくまでも今この広島にいる樫本が、かつてのあの凄惨な広島を句に呼び込む、引き込むためには、ある絶対の踏み込まない距離が必要なのだ。その距離の目測を誤ったとき、書き手は「倫理観」を失う。そのデリケートさを持つのが広島という、樫本の選んだ句材なのである。そして樫本はもちろん「広島忌」という危うい季語を使わないし、その他の表現を取っても、「あの広島」との距離間に関しては極めて敏感である。
 俳句は倫理的でなくて良いということをいう指摘もあろうが、このような句材はかなり特殊、特例と言って良い。3.11を句材とした震災詠で長谷川櫂が受けた批判や、当事者性などの議論が起こったことを思う時、このような句材に対しての読者の倫理観という観点の沸点の低さは通常と異なるというべきだろう。

 そういった困難性を凌いでまで樫本が広島を書くことに拘る理由は一体何だったのだろうか。それを語るすべは読者には与えられていないが、その書きぶりから、なんらかの義務感のような切実さを感じるのである。さきほどの倫理観という観点から考えると、樫本は時代的には当事者性は皆無ながら、地理的には当事者性を帯びている。その、極めて微妙な立ち位置の難しさを明確に自覚した上で、腰を据えた30句を揃え並べる気概、覚悟のようなもの、それらの孕む貴さに、まず、ぼくはこの連作の成しているものを思うのである。

 また、

黙礼やみな立葵見てきしが
爆心のその明るみの夏柳

といった、比較的意味のとりやすい句の合間に

のど仏うすく苔生す樹なりけり

という句が挟まっていて、この句の不気味さはなんとも形容しがたいと感じる。上五と中七下五のあいまの切れが作る〈のど仏〉と〈うすく苔生す樹〉両者の関係の不透明性が、苔がむしている樹に、あたかものど仏がある、浮き現れているような、そんな景を為す。それはまるでその原爆で亡くなった男のメタファーであるかのようにも思え、男性性がシンボリックなもの一点に凝縮されながらも景としてどこか不鮮明なそれは、原爆が落ちた直後は書けない、つまり原爆から72年が経った今しか書けない広島詠であるように思えるのである。

原爆以後この緑陰に人の棲む

表題となっているこの句も、そのコンテキストを汲むのではないか。〈緑陰に棲む人〉に不気味さを感じるのはぼくだけだろうか。作中主体の目の前にある、うっすらと冷えた、濃いその緑陰。そこに作中主体は、棲みなす人を見るわけであるが、その人を感ずることができるのはおそらく、樫本のような72年前の8月6日以後にとりわけ感度を高くしているものだけだろう。見えているものがたとえこの世のものでないとしても、人であると断定せざるを得ないほどのものを広島は負っているのだ。

どの碑にも蟻ゐるそれも大きな蟻
扇風機いつも傾ぎてをりにけり

原爆以前と原爆以後を隔てるものは言葉にならないほど大きい。目につくのは不思議なほど大きな蟻、いつも傾いている扇風機。

100万人の飢えた子にとっての文学の無力さを提起したのはサルトルであるが、この連作は、少なくとも、今日の午前8時15分に短くとも黙祷をしようと、1人の大学生に思わせるには十分すぎるものだった。読めてよかった。


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