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ジャーナル・1日目 「日記」

長い間、日記をつけるということを習慣にしてこなかった。

親しい友人の一人から「あなたは日記をつけた方が心が落ち着くのではないか」と言われたことがある。そうかもしれないと思ったものの、そのときは忙しさにかまけて長続きしなかった。

どうも紙に何かを書くということ自体が億劫になってしまった。
文字を打つ方が圧倒的に編集が平易なのだ。
紙に字を書くよりも、ツイッターの方が書くには気楽だと思ってしまう。
別の友人にそう話したところ、「なら、iPhoneのメモ帳はどうだろう、ひとりツイッターと称してiPhoneのメモ帳にひたすら独り言を呟いているひともいるのだから」と言われたのだけれど。

結局のところ、私は誰か、人の目がないと落ち着かないらしい。
誰かが見てくれているという安心感でものを書いている。
(かといって、そこに配慮があるのかと言えば、自分では努力をしているつもりだが、まだまだ足りない部分もあるのだけれど)

おそらく、何かを伝えたいから、そのためにものを書いているのだろうと思っている。それなのに、難解な言葉遣いにしたり、わざと推測をさせたりするような文章にしているのは、自分に起こった物事をそのまま、あけっぴろげに書いてしまうのは品がないと思ってしまう私の、私に対する感性と、受け取り手が各々思い浮かべるものとを組み合わせて世界を作って欲しいという気持ち。それから、時にそのまま物を書いてしまうと誰かを直接攻撃するような文章になりかねないということと。

あとは、単純に、嬉しかったことをそのまま書くのが恥ずかしいからだ。
恥ずかしいのに、書いてしまうのは、自分がその時感じたことを、あとから、瑞々しいまま綺麗に思い出したいというのと、誰かに伝えたいからだ。 だから、私の詩や曲はつまるところ日記の代わりなのかもしれない。

***

日記で有名な人物といえば、アンネ・フランクというひとが挙げられる。
第二次世界大戦の戦時下、ユダヤ人だった彼女はナチスから身を隠しながら、「キティ」という架空の友達に向けて日記を書いていた。
やはり孤独な中で、自分の心のうちを曝け出す文章を書くとなると、自分だけが読むという前提よりも、読んでくれる誰か、他者がいると思った方が、心が安らぐのかもしれない。
世の中では、そういう気持ちを含めて、承認欲求と呼ぶのだろうけれど、私は、孤独を耐え忍ぶなかで、大切な感情にかわりない気がしている。

いまのSNSは、いろんなひとの公開日記であり、交換日記なのではないかと思うことが時折ある。 ブログを皮切りにして、自分の日記を不特定多数の人が読めるようになった。 反対に、読ませることも可能になった。
その分、書けることも限られてくる場合はあるのかもしれないが、匿名にしてしまえば、その幅はぐっと広がる。

少し前に、ひとりぼっち惑星というアプリが流行ったけれど、SNSのタイムラインというのは宇宙通信のようにいろんなひとのいろんな今が、心情が流れてくる。鮮やかな色の洪水のようだ。時に心がそれで色めき立つこともあれば、疲れてしまうこともある。免疫がなければ、尚のこと。

なので、私も、久しぶりに日記をつけてみることにした。
いまの私なら友人から言われたその時よりも、飽きずに長い文章がかける。
だから、日記をつけることでまた新しい自分が発見できるような気がした。

この機能は、どうやら、通知をしてくれるようだから、きっと忘れることはない(と思う)。 ということで、ジャーナル1日目は日記について話した。
明日からはもっと短くなるか、単なる読書歴になるかもしれない。
とにかく、頭を空っぽにして、文章を書くことそれ自体を楽しもうと思う。

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