良い匂いのする仕事着を着ている学生を見かけると泣きたくなる。何故ならば、ちゃんと洗濯をしてもらえるという有難い家庭環境という憶測が浮かぶからである。


「親に愛されない子供なんていない」と世間と現実等に向き合えない大人達は口々に云う。

それは、彼、或いは彼女が一般世間で言う、仕合せな家庭環境だから言える事なのだと感じる。
さて、其れがどうでしょか?
私のような家庭環境でも、同じ事は言えるのでしょうか?↓
https://note.com/snnanjknj/n/n861600ede1b7

きっと、言えないと思う。 

私自身、自分がそうだと認めたくないので、あれなのですが。 

私の親にあたる人間の口から「所詮出来た子供」「殺す気だった」と言われた。その時、この生きた心地のしない時間が終わるならいっそう殺してほしい、と感じた。
私は、私が生きている意味が解らない。
親の害となる私が生きる意味が。
恵まれた環境、人間として真面に生きて行ける場所というものがわからない、或いは私の周りには存在していなかった故の悩みなのかもしれない。

一般世間の方々が云う「生きている意味がわからない」という位では無いのです。そんな笑って言っていられる事ではなかったのです。
家というものの中に居て、家族という人達と暮らしていたのにも関わらず、私は何時死ぬのか、と、怯えていたばかりでした。

明日は来るとは限らない。今日が最後かもしれない。もしかしたら、今、すらも幻影なのかもしれない。 
私がよく「来る確証も無い明日の為に生きるのは馬鹿馬鹿しいので、今確実に見えている今日の為に生きている。今が楽しければ良い。」と言っていますけれど、それなんです。全部過去を引きずっているんです。過去とは、人の影のようにずっと、後ろを、ぴたりと、くっ付いて来まして。離れないんですよ。それが段々身体を蝕んできて、いよいよ顔に張り付いて、薄っぺらい笑顔が離れなくなる。

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