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体重の増加に歯止めがかからない恋々です。去年買ったズボンが入りませんしワイドパンツだと思って手に取った服がスキニーになります。腹回りが重すぎて行動に支障が出るのでまじめにダイエットを決意したいと思いますがこれは一体何回目のダイエットへの決意なのでしょう。わからないなあ。それでもお酒が辞められません。ウヒ


先日論文提出まで一か月を切りまして、いよいよ作業詰めの日々です。自分の言語化能力のリソースを執筆にあてがっているのでnoteの更新が滞ってしまっていることについてはお詫び申し上げます。提出さえしてしまえば他に言語化する余裕は出来ると思いますのでしばし待たれよ…自分の研究分野が日本国内でもかなり限定的な為、直結する内容の学術本なりのトークをすると発見されてしまう恐れがあるので、ひとまずそちらも自分が所属団体から離脱するまでは秘匿させていただきます。いつかこんな面白い話があるんだよ~と言えれば良いのですが。

年も暮れてきてしまって、一年の速度に目眩がする思いです。今年はクリスマスも年末年始も休んだり楽しんだりする余裕はなさそうなので、先日もつ鍋を食べることで忘年会を済ませました。美味しかったです。

あとこないだ生まれてはじめてポケモンをプレイして、とてもとても楽しめました。そんな話をするのも年が明けてからになることでしょう。ウムム。ユキハミちゃんがかわいい。言語化能力には一定の自負があったのですが、それにしても難産の極みであります。はやくこの論文を終わらせて同人誌が作りたいです。

有料部は論文書きながら考えてることなど。


なんでこんなに論文書くの辛いんだろうなあと考えていて思ったのは、ひとつにこれが頒布するものではないこと。これは同人屋の性みたいなものでしょう。本媒体が好きなので論集が作られない限りは歴史に埋もれてしまう論文を憐れんでいます。もうひとつは、直結の理由かどうかはわかりませんが作者=論文であるからでしょうか。

私はロラン・バルトの作者の死(物語の作者は、その物語の最高権威者ではない)というのにわりと同調していて、自分自身の思想がキャラクターの思想を歪ませることへの抵抗感はあれど、自分が一度産み落としてしまったそのものの作品は自分の手から放たれて大いなる人々によって解釈されていくものであると(半ばあきらめのように)思っています。これは責任を手放しているということではなく、また、自分の思いがけない解釈や受け止められ方に対し新鮮な驚きを見出すということでもあります。まあだからといって反社会的・差別的なものが許されるという訳ではありませんが…。

しかし論文と著者は絶対的に紐付けられるものだと感じています。書き出される論はすべてその著者が考えていることであり、頭からつま先まで100%の責任があり、批判に対しては常に打ち返さなければならない。常に用意された舞台の上で誠実であることが論文と学者の役目だと感じます。

そもそも学問そのものが、常に批判・批評を求めるものであり、思考停止ないし「結論」が出た瞬間に学問は学問ではなくなると言えます。常に探究し、常に批評され続け、常に求められ続けるのが学問であり、また一代で大成されることはなく、多くの学者と長い歴史の積み重ねを必要とする。古代から学問とはそうしてきたわけです。そしてその大きな流れの中の一部に自分も組み込まれている訳ですが、そうなると論文=著者の密接な関係はそのままずばり「批判が自分の人格をも貫く」という恐ろしさにもなってしまうわけです。

ごくごく感情的に言えば、批判されることはとても怖い。これは出したもん勝ち~と投げれる小説とはまったく異なった恐ろしさです。学者は全員マゾだと思うのはこういうところです。多くの人の手によってひとつの精巧な細工が生まれるように、論文もまた、叩かれれば叩かれる程完成されていく。審問が怖い。学会が怖い。そんな日々を経て、「ああ自分あんま学者に向いてね~な~」となりました。まあ自分の意見を自分で主張できるのはめちゃくちゃ気持ち良いんですけどね。

批判を恐れず突き進むには学者に対する社会のあたりの厳しさや、研究だけで食ってくことができない現状を鑑みるとやっぱり無理だなあと感じます。そんな理由で更に上の学位に進むのはひとまず諦めましたが、知の探究そのものは愛しておりますから、この先は無所属の研究者で在り続け、よくわからんエセ歴史をnoteやTwitterで書きちらす迷惑な存在にはならないように気をつけたいです。

まあともあれ、現状手を付けている論文に対しては、きちんと責任を持って書き上げたいと思っています。うわーん。

日々のごはん代や生きていく上での糧になります