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様態動詞の三脚巴

「一人で死ね」は自分に返る「『死刑になりたくて…』」著者が感じた希死念慮の行方」という記事を読んだ。備忘のため思ったことを記す。

 「死刑になりたい」という言表には「意志」(volere)が表明されている。そしてこの記事の少女は、死刑になることが「できる」(potere)ように行動した。そうなるように「しなければならない」(dovere)と思ったからだ。

 ここに見られる3つの様態動詞(volere, potere, dovere)の三脚巴の最も哲学的なヴァージョンは、あのカントの定言命法(kategorischer Imperativ / imperativo categorico)「〜できるようにしたいと思わなければならない」(Man muß wollen können. / Devi volere potere)というもの。この言表にはしかし、なぜそれが「できるようにしたいと思わなければならないか」という根拠がない。その根拠はただ、「意志 volere 」と「力 potere 」と「義務 dovere 」の三脚巴の回転によって生み出される効果なのだ。

 にもかかわらず、人はこの三脚巴のうずに巻き込まれ、なにかを意志し、それを実現する力を求め、そうすることが義務とばかる動き出す。実のところ、この様態動詞には中身がない。「〜できるようにしたいと思わなければならない」の「〜」には何を入れても構わない。そこは空虚なのだ。ところがぼくらは、この様態動詞の三脚巴に唆されて動き出す。この「唆し」こそが、人類学的な「命令」(アルケー)としての「起源」(アルケー)なのかもしれない(@アガンベン「命令とは何か」『創造とアナーキー』月曜社、2022年)。

 そんな様態動詞の三脚巴に巻き込まれず、そこから距離を取ることはできるのだろうか。戦略はある。たとえば、「やりたくないのですか? You will not?」などと「意思 will / volere」を問われたとき、「できればやらないでおきたいのですが I would prefere not to 」と応じ続けること。あの三脚巴は、どこかでかならずこちらの意志(will / volere) を確かめにくる。それは「実現の意志」(volere potere)にからみとられ、ついには「実現の意志の義務」(dovere volere potere)つかまってしまう。だから初動が大事だ。さいしょの「意志」の確認に対して、そいつを条件法の意志(would / vorrei )へとずらし、その空虚な「〜」_をすかさず否定(not to )へと解体してしまえばよい。それが戦略だ(@代書人バートルビー)。

 ぼくらが学ぶべきは、そんな戦略、あるいはそんな言語的な作法なのかもしれない。なにしろ相手は、3つの様態動詞の三脚巴を回転させながら、あのカント的な定言命法の呪術を駆使して、ぼくたちをとんでもない行為へとそそのかす言語機械である。しかも、ぼくらはもはやその存在なしに生きてはゆけない。それがホモ・ロクエンス(言語を持った人)としての宿命だ。

 そもそもぼくらは、ホモ・ロクエンスとして都市に定住し、都市において定住する作法(civiltà)を発達させてきた。それを文明化(civilizzazione)という。おかげで電気で灯りをともし、世界規模での交易と交流のネットワークのなか、欲望への意志を駆り立てられ、その力があると唆され、そうするのが当然だとプレッシャーのなかに生きている。その長い歴史のなか、ぼくらはこの作法を、さまざまな呪術、宗教、そしてイデオロギーとともに発達させてきた。そしていま、ぼくらがそのただなかにいる作法を司るものの名前を呼ぶとすれば、そいつは「資本主義宗教」(la religione capitalistica)という名前が適切なのかもしれない(@アガンベン)。

 この宗教は、3つの様態動詞の三脚巴を駆使して、その運動に巻き込みながら祈りをささげ、ぼくらがなすべきことを示し(アルケー)、ぼくらの起源(アルケー)となろうとしている。ところがそれがときにぼくらに「殺したいから殺すことができなければならない」という呪文をつきつけくるのである。

 その命令をいなし、切り返し、空転させてしまう反呪術の作法。そいつを学ばなければ、ぼくらはいつまでたっても、「殺したいから殺すことができなければならない」という呪文の恐怖にさらされ続けることになる。