6/1 お味噌汁はカレーなのではないか

お味噌汁はカレーなんじゃないかと思い始めている。

自宅生活のなかで毎日昼と夜に自炊をしていく中で、「献立を考えるのがしんどい」という主婦の悩みがよくわかるようになってきた。調理は好きだが何を作るべきかを考えるのはたしかに時として面倒くさい。家にいる人に「今日何食べたい?」と聞きたくはなるが、そう聞くことが問題を解決してくれることはない。人生の意味と同じで、他者に答えを聞くことに意味がないという類の問題がこの世界にはあるのだ。この問題に光明を投じてくれるのは言わずと知れた土井善晴先生である。なにやら「ええんですわ」と言っている料理の先生という雑な認識で過ごしていたが、著書『一汁一菜でよいという提案』を読んだことで彼が何をええんですわと言っているのかがわかった。

一言でまとめると、「お味噌汁に野菜でも肉でもあるもん何でも入れて毎日それと白ご飯だけ食べとったらええんですわ」と言っているのである。俺に言わせれば彼はお味噌汁原理主義過激派だ。

俺は服を毎日選ぶのが苦痛でしょうがないのでここ数年全く同じシャツとズボンをいくつか買って毎日同じものを着続けている。靴も毎日同じものを履いている。別に服が嫌いなわけではない。ただ自分が日々何を着るかについて考えないといけない状態が本当に嫌なだけだ。自分が着るものについて無限の可能性が開かれていて、どこに行って何をするにしても「何を着る?」という選択肢を挟まないといけない状態が大変な苦痛なのだ。(このことについてはいつかちゃんと考えないといけないと思っている)だからとにかく丈夫で特に何の感想も湧かない無印のオックスフォードシャツを着ている。汚れたり破れたりしたら新しいやつを補充している。

そういう自分にとって「献立考えるのがしんどかったら毎日ご飯と味噌汁でええんですわ」という思想はとてもすんなりと受け入れられるものだった。そしてこのスタイルは自分にとって、いまのところかなりフィットしている。

俺は正直、味噌汁のことを舐めている節があった。はいはい、味噌汁ね。あのしょっぱいやつね。何か人参とか大根とかちっこい豆腐の…まぁあったら飲みますけど?別に自分で作ってまで飲もうとは思いませんがね。日本の心? はぁ。それはご苦労なことで… といった具合だ。中学校の家庭科の授業で味噌汁を作ったが、いりこか何かからダシを取って(ダシって何だ?)材料を丁寧に切って…と工程を踏んで出来上がった味噌汁を飲みながら「こんな面倒くさいもん二度と作らんな…」と思っていた。うまさのコスパが悪いのだ。こんな面倒くさいならもっと飛び上がるほどうまくあってほしい。

しかし土井善晴先生の味噌汁は違う。そもそもダシを取らない。ほんだしみたいなやつも使わない。ただ少ないお湯で野菜を茹でたものに味噌を入れて終わりだ。しまいにはお椀に味噌と鰹節を入れたやつにポットのお湯を注いでお味噌汁にしてええんですわということもある。基本お湯に味噌が入ってればもうお味噌汁なのだ。お味噌汁の定義が異様に広い。それでいてまぁうまい。正確には「労力に対して納得できるうまさ」だ。物足りなければ卵を割って入れればいい。他にもキノコでもピーマンでもトマト缶でも入れてやれば大概うまいし、この間は家で飲んだときのおつまみの残りの鶏の唐揚げを入れたがやはりうまかった。「茹でて味噌をといたもの」という一定の制約がある一方で、思いのほか懐が広く状況に応じて冒険できる余地がある。工夫に対してそれなりのアウトプットが見込める。毎日食べるものとしてそのバランスが絶妙なのだ。それに気付いてから俺のお味噌汁を見る目は変わった。

そして毎日お味噌汁をやってるうちに、ふと「これはカレーなのではないか」と思い始めた。日本人にとってのカレーではない。インド人にとってのカレーだ。俺の認識だとインド人は毎日カレーを食う。そのカレーは野菜のカレーだったり肉のカレーだったり魚のカレーだったりするが、総じてカレーだ。インド人はきっとカレーのことを一括りにカレーとは呼ばず、なんかそれぞれに別の名前が付いているが、やっていることはいろんなものをスパイスと煮込む、それだけだ。この制約と自由度のバランス、人をして似たような食事を繰り返させるこの特殊な魅力において、毎日いろんなもの入れるお味噌汁とインド人のカレーは相似形なのではないか。

そう考えながら今日もお味噌汁をやったが今日のお味噌汁はしめじを入れすぎたのか味がぱっとしなくてイマイチだった。この本によればそういう場合は「うまくなくてもええんですわ」ということになる。インド人もびっくりである。

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