シン・原理研究 第1回『総序』編
はじめに
本稿では『原理講論』の『総序』についての研究を行っていく。我々(といっても、構成員は今のところ筆者ひとりだが)「シン・原理研究会」の結成宣言については以下のnoteをご覧いただきたい。なお、シン・原理研究会は研究における門戸開放を重んじている。様々な立場(現役信者、元信者、それ以外の一般の方)からの意見や合同研究員を募集しているので、お気軽にご連絡いただきたい。特に、現役信者による筆者の解釈への反論や間違いの指摘、一般の方からの『原理講論』に関する質問などは大いに歓迎したい。また、『原理講論』については『世界平和統一家庭連合 教会員ポータルサイト』で無料公開されている。本稿と合わせて、適宜参照していただきたい。
「総序」について―内容の要約
「総序」は、原理講論の中でも一番初めの章である。原理講論は「総序」「前編(第1章~第7章)」「後編(緒論、第1章~第6章)」に分かれているが、「総序」は「原理講論」の全体の背景や目的を語る部分である。その内容を要約すると以下の通りだ。
人間は誰しも、不幸を退け幸福を追い求めている。幸福は自身の欲望が達成されたときに感じるものであるが、欲望には「本心」から生じる善の欲望と「邪心」から生じる悪の欲望がある。この2種類の欲望が1人の人間の中で闘うさまは、まさに矛盾した破滅状態であり、キリスト教でいう「堕落」である。
「堕落」とは、知的な面からみれば「無知」である。さらにこの無知には、心に相当する内的な無知と体に相当する外的な無知がある。この無知を克服するべく探求してきたのがそれぞれ宗教、科学である。この2つは、ときに衝突してきたが、人間が内的及び外的の無知を完全に克服するためには、宗教と科学とを統一された一つの課題として解決することのできる、新しい「真理」が現れなければならない。
その真理は、「神の救いの摂理」をなすために、唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導くものでなければならない。同時に、この真理は、有史以来のすべての主義や思想、あらゆる宗教までも、完全に統一し得る真理でなければならない。また、新しい真理は、堕落した人間が、それ以前の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰の途上にある堕落人間の究極目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。
そして、その真理は、神の啓示をもって我々の前に現れなければならない。神は既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人の人間を遣わした。それが、文鮮明氏である。(要約以上)
逐次的解説と批判 ―さらなる理解のために
ここでは、総序について、その文章ひとつひとつを取り上げて逐次的に解説し、また批判を行っていきたいと思う。なお、ここにおける「par.」とは「paragraph(パラグラフ)」、つまり段落のことである。先に挙げたリンクから、適宜、原理講論の原典を参照してほしい。
par.1-3 人間の幸福と欲望、そして矛盾
par.1では、人間は誰しも幸福を求めている、という主張をしている。確かに、自分から不幸にならんとし、不幸を追求する人間はそうそういないように思える。また、実際に、日本国憲法第13条にも「幸福追求権」が規定されているように、世界の様々な国や地域でその権利が保障されている。
ところで、幸福や不幸の定義とはなんだろうか。それは、par.2において、「自分の欲望が満たされたときに感じる」ものだとされている。逆に言うと、不幸とは「自分の欲望が満たされない」ことなのだろう。しかしながら、同じpar.2の中で、「欲望が満たされた」ときに「不幸に陥る」こともあると示唆されている。これはどういうことか。
par.2およびpar.3によると、人間には「本心」(文脈的に良心とも言うべきもの)と「邪心」があり、人間は、邪心から生じる悪の欲望を退け、本心から生じる善の欲望に従い、本心から生じる幸福を得ようと努力しているのである。また、人間は悪の欲望に従った時、「良心」の呵責を受けて苦悶する。悪の欲望に従った時でも、少なくとも一時的には、あるいは一定期間は幸福が得られるのではないか?と思うのだが、おそらく、この呵責と苦悶により、最終的には欲望が満たされないといえる(あるいはより世俗的な話をするなら、悪の欲望に従った結果、その行為の咎で国家権力等による拘束や刑罰を受け、欲望を達成できない状態となる)ので、人間は悪の欲望により不幸に陥るといえるのだろう。
そしてpar.3によると、このように一人の人間の中では本心と邪心との闘争があり、これはまさに矛盾であり、「いかなる存在も、内部に矛盾性を持つものは破壊されざるを得ない。したがって、人間は破滅状態に陥っている。」と主張している。そして、「このような矛盾性が、人間が地上に誕生したものからあったとは、到底考えられない。いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。…したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。」とのことである。
なるほど、par.2までは常識的に納得し得る主張である。だが、par.3についてはどうだろうか。注意深く読むと、「内部に矛盾性を持つものは破壊されざるを得ない」「矛盾性を内包したものは生まれてくることすらできない」という主張の根拠は、この文章の中には見当たらない。また、現実の人間社会においても、個人同士のささいな諍いから、国家同士の戦争まで、「破壊」「破滅」的現象は存在するが、大抵の人間は、確かに悪なる欲望を時には抱きながらも、善良な精神でもって、日々の生活を営んでいるものだ。(逆に悪なる行為を喜んで憚らない、悪の欲望を貫くような人間もいるだろう。)それに、矛盾性そのものが批判されるべきものである、という前提に立って主張が展開されているが、その前提は一つの価値観であり、矛盾性を孕むからこそ人間は興味深い、面白いと、肯定的に捉えることもできるのではないか。
ところで、人間が内部にこのような矛盾性を孕む状態を「キリスト教では堕落と呼ぶ」とあるが、キリスト教では本当にそのような教義なのだろうか?『オックスフォード キリスト教辞典』から引用すると、堕落の定義は以下だ。
ともかく、par.1-3では、本心があり邪心があるという人間の内面の矛盾性が、原理講論の言う「堕落」である、それは後天的なものである、という主張がなされている。その前提に立って、par.4以降について考察したい。
par.4-5 無知の克服①―堕落と無知
par.4によると、「人間は先述の矛盾性を除去しようと努力しているが、そもそも善と悪がいかなるものなのか、本心と邪心がなにから生じるのか、その矛盾の根本原因さえも分からない」という。なるほど、確かに日常生活に当てはめてみると、善かれと思った行為が悪の結果を及ぼしてしまうことはあるものだ。(丁度、統一教会の信者が「神のため」「善のため」と信じて行った献金や2世教育が、それとは真逆の結果を残したのと同じように。)そうなってしまうのは、善と悪が真に分からないからだと、確かに考えられる。
原理講論は、「悪の欲望を抑え… 善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。」と説く。さらに、先ほどの「人間に善と悪の欲望がある矛盾状態、堕落」という後天的な現象は、善悪を知ることによって克服できるのである。聖書の創世記によると、人は「善悪を知る木の実」を取って食べて、これをもって堕落したとされるが、その堕落を「善悪を知ること」によって克服できるというのは、なかなか興味深い話である。一度芽生えてしまった悪の欲望を克服するには、何が悪であるかを知らなければならないという事か。
ところで、「悪の欲望は存在するが、それを抑えながら真なる善の欲望にのみ生きる」のと、「そもそも悪の欲望が最初から存在しない、矛盾のない先天的状態」では、外面的には同じであるようで、その内実には大きな隔たりがある。前者はいわば後天的な全知で、後者は先天的な全知である。無知を克服しても、真に先天的状態に戻ることはできないという事だろうか。それとも、無知を克服すれば悪なる欲望は霧散し消滅するのだろうか。「悪の欲望を抑えながら」ということは、存在自体はしているという事になるが、この疑問を抱えながら原理講論を読み進めることにしたい。
par.5では、par.4とそれ以前の内容をもって、「人間が堕落したことは、人間が無知に陥ったことである」と主張している。つまり、堕落=善と悪が分からない状態=無知状態、といった論理である。問題は、その次である。
par.5によると、「ところで、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。」「内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。」とある。これは一見、その通りに思えるが、よくよく考えると狡猾な論理展開ではないだろうか。
というのは、今までの総序における無知とはつまり堕落の事であり、堕落とは「一人の人間の内面に、本心と邪心が存在して熾烈な闘争を展開しているという、矛盾性が生じている状態」のことだった。つまり、最初から人間の内面、心、精神といったものだけの話をしているのであって、ここでいう「外的な無知」の話は含まれていなかったはずである。にもかかわらず、「無知」には人間の肉身や自然界に対する無知も含まれると、ここで前提としてきた言葉の意味を拡張するのは、論理としてどうなのか。外的な世界に善と悪があるということは、善の動植物と悪の動植物がいるという事なのか。(確かに、アサやケシは麻薬になるので、悪の植物と言えるかもしれないが。)
仮に、堕落による外的な無知があるとしよう。とすれば、堕落する前の人類始祖アダムとエバは、自らの肉体の仕組みを生まれながらに全て把握していて、堕落した途端に、まるで頭でも打ったかのように、その知識を失ったという事になるのか。創世記に書かれているのは、アダムとエバがその身の裸であることを知ることのみだ。原理講論の堕落論に答えがあるのだろうか。
それに、科学と宗教とを二項対立的に扱う論理構造でここからの話が進んでいくが、果たして本当にそのように扱っていいものなのだろうか?全ての科学の祖、「知を愛する営み」として始まり、現代でもれっきとした科学のいち分野であるといえる哲学は、人間の内面についての考察を多分に含むが、実際のところ宗教との区別は曖昧なのではないか。自然科学と宗教を対立させるならまだ理解できるが、このように現実の世界を過度に単純化することで、逆に混乱を招くという結果になってはいまいか。それとも、混乱しているのは筆者だけなのか。
par.6-13 無知の克服②―科学と宗教、そして新しい真理
par.6から12では、大まかには次のような主張がなされている。つまり、科学によっては外的な現象の世界を全て解き明かしても、内的な原因の世界を解明することはできないので、「科学、すなわち外的な真理も、その究極的な目的を達成することはできない」。また既存の哲学や宗教によっては、現実の社会をなんら救うことはできなかった(例:資本主義に支配されたキリスト教社会と共産主義社会の対立)し、修道者たちは肉身的な幸福への欲望を捨てきれず破滅していった。さらに、高度に発達した科学社会では、宗教の教理にも科学的論証が求められる。これまでの宗教もこれまでの科学もすべて説明できるような一つの新しい真理が必要であるという。
宗教と科学とを二項対立的に扱えるものなのだろうかという疑問は引き続きあるが、その2つを説明できるような真理があるのだとすれば、確かに聞いてみたいと思わされる。ただ、人間の内面の世界を科学によって解明しようとする営み、すなわち心理学や精神医学、脳科学といった科学は現在も進んでいることに留意したい。
par.14-15 真理の使命①―真理による統一
今まで総序では、おおむね以下のようなことを論じてきた。「人間は善と悪を知らない無知状態、つまり堕落状態のために本心の喜ぶ幸福を得られない。この無知状態を克服するために宗教と科学があるが、それぞれが別々に知を求めるだけでは不十分である。なので、宗教と科学とを統一された一つの課題として解決できる新しい真理が必要である。とくに内面の無知を克服することで、善悪両面への指向性をもっている人間の矛盾性を、克服できるようなものでなければならない。」
では、その真理は何をもたらすのか。par.14によると、「神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、…彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるもの」である。つまり、①宗教における神が実在するという事を(科学的に)証明する、②そのうえで、神の心情を説明する、というものである。宗教における神が、人間を救おうとしてきたというのは総序の中では初めて出てくるが、例えば聖書にそのようなことが書いてあるという事か。
そしてpar.15によると、人類の闘争の歴史は終わり、一つの世界が作られつつある。しかし、民主主義と共産主義の戦いが残っている。しかし、民主主義は共産主義を屈服させることができない。ゆえに、「神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。」という。
申し遅れたが、原理講論は1966年に書かれた書物だ。当時といえば、東西冷戦の真っただ中である。「民主主義と共産主義の戦い」は、言うまでもなくこのことである。しかし留意したい、民主主義と共産主義は基本的には相容れない概念ではあるが、厳密にいえば、民主主義の対義語は共産主義ではない。それに、いまは2023年だが、1991年にソ連が崩壊して東西冷戦が終結してから30年以上経っている。共産主義国家が世界地図から完全に消え去ったわけではないとはいえ、2023年現在では少々古くなったメッセージと言わざるを得ない。
そして、「あらゆる宗教を一つに統一する」というのは、高邁な理想であることは確かだが、それは「諸君、この統一原理こそがすべての宗教を超える真理であるぞ」と押し付けるものではなく、各々の宗教の教徒が自然と信じ屈服するようなものでなければならない。布教の名目で、様々な戦争や侵略が過去に起きたことを忘れてはならない。
par.16-19 真理の使命②―神と人間の目的
par.16-19の主張は以下である。「人々は真理により神を知るとき、一つの道を通じて、一つの目的地に歩み、一つの大家族を形成していく。その目的とは善の成就である。善のもとに築かれた世界は地上天国と呼ばれる。」「神の救いの摂理の目的は地上天国の建設である。」「真理の使命は、堕落した人間が堕落以前の状態へ帰れるように、神がこの世界を創造した目的や人間の究極的な目的は何なのか、人間が堕落した理由やなぜ神がそれを予見し止めることができなかったのか、神はどのような過程で人間を救おうとしてきたのか、といった問題の答えを知らしめるものである。」
「真理」のもとに、地上天国と呼ばれる理想世界が建設され、先述したような数々の問題が解明されるなら大いに歓迎したいところである。そのような世界ができれば誰もが幸福になれるだろうし、今までの哲学者や宗教者、科学者の不断の努力も報われるというものだ。
しかし、真理によって宗教の主張する神の実在性を証明する(つまり、真理を語るまで神が存在するかしないかは証明されない)はずが、いつの間にか「神の実在を前提とした真理」を語る、という語り口になっている点には注意したい。神の存在が証明できず、人々に納得させることができなければ、その後に続く神の存在を前提とした証明(神の目的や救いの摂理の歴史)も破綻するからだ。前節の繰り返しになるが、par.14によると、新しい真理とは「①宗教における神が実在するという事を(科学的に)証明する、そのうえで、②神の心情(人間や世界を創造した心情、堕落した人間を救ってこようとした心情)を説明する」というものである。
par.20-21 真理の使命③―キリスト教と聖書の解明
par.20-21によると、「またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。」という。つまり、真理の使命、その3である。
キリスト教における様々な問題は、確かに多くの神学者を悩ませてきただろう。例えば、「神はなぜ人類を救うために、ひとり子のイエスを十字架につけなければならなかったのか」「イエス・キリストの再臨はいつ、どのようにして行われるのか」といった問題である。聖書そのものの信ぴょう性はさておき、聖書を、あるいはキリスト教を信じる人々にとって、これは重大な問題であろう。
par.20-21において、わたしが留意したい点が1つある。それは、「聖書は数多くの事柄が象徴や比喩によって記録されている」と読み取れる部分である。原理講論を読むと、「聖書に記されている○○は、××の比喩である」といった主張が多くある。しかし、聖書の解釈は、それが比喩表現であるのかといった地点からして様々であろうことは想像に難くない。
また、本当は、「今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教」という点にも少々異議を唱えたい気持ちもある。しかしながら、世界史をけん引した国家はそのほとんどがキリスト教国家であるという側面も否定しがたい。なので今回は、西洋中心主義、キリスト教中心主義的な思想であることに留意するべきという指摘にとどめておく。
par.22-24 新しい真理と文鮮明氏
ここでは、総序のまとめとして、新しい真理がすでに文鮮明氏よって解明されていると主張している。par.22はぜひ読んでいただきたい。
読んでいただいて分かる通り、ここまでくると圧倒的にファンタジックな記述となっているので、何か疑問を挟むべくもない。ファンタジー作品として感想を述べるなら、神から遣わされたという文鮮明氏の存在が十分な布石もなく明かされて困惑したといったところだろうか。
まとめ、感想
ここまで、総序を読みながら、その主張と論理展開について検討してきたつもりである。重箱の隅を突くような検討までしたかもしれない。しかしこの世を照らす真理を記したものは完璧でなくてはならないのではないかと思い、あえてそうした面もある。(とはいえpar.23に「ここに発表するみ言はその真理の一部分」「一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望む」とある通り、原理講論という書物自体は完璧でないことは著者自ら半ば認めているのかもしれないが。)
総序の主張は、次の一点に集約される。すなわち、宗教と科学とを統一された一つの課題として解決することのできる、新しい「真理」が現れなければならない、ということである。この主張を支えるための背景や根拠を並べているのである。
総序の論理展開については、読む限りでいくつか問題だと感じる点が挙げられた。①ひとつの価値観を絶対とした主張を展開している、②用語の意味や論点を部分的にすり替えている、③これから証明するはずの神の存在を証明された前提で利用している、といった点である。
ここからは筆者の感想である。この総序を改めて読んでみて、私は(原理講論で言う)破滅状態に陥いる寸前だったのである。それはとりもなおさず、「神の存在や原理のいう事を信じてみたい」という志向性の心と「この原理講論という書物はよく読むとおかしいのではないか」という志向性の心が熾烈な闘争を展開するという矛盾性を私の中に発見したという事である。とはいえ、この矛盾性の内包こそが人間の愛すべき特徴であるという考えは変わらない。
さらに恐ろしいことには、原理講論は600ページ以上ある書物であり、いまだその1割にも到達していないのだ。わたしの本業を侵さないよう、気長に(2023年10月に出された解散命令請求の審理のように)やるつもりだが、果たして完走出来るだろうか。
暗い道をさまよい歩くことになるだろう私が、本当にこの真理の光を浴び、蘇生していくことができるのだろうかと考えると不安の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、私の中に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。
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