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それさえあれば。

「突然の叔母さまの旅立ちのこと、驚きました。でも、なんかお別れの前ってそんなふうで、お別れの後にたくさんのありがとうが溢れる事が、仕事の上でも多かった気がします。
それならそうと言ってよ〜って言いながら、思いながら、その人の事をみんなで精一杯感じて考えて過ごせた事に、ありがとうがいっぱい込み上げて。さぁ、これからの人生、生き切りなさいよ〜!ってエンジンをかけてもらったような。
いろいろと思い出しました。
○○さんの心と身体、大変お疲れ様でした。」


遠方に住む叔母さまの終の住処をと、あれこれ動きだそうとした矢先の出来事だったと、それから少し時が経過した、淡く空気が漂う穏やかな文章が知人から届いた。
そのお返事をした。

人は必ずこの叔母さまが向かった場所に辿り着く。
必ずだ。

だから、過ぎた事を、今感じていることを、全てをきれいなものに置き換えることをせずに、あるがままに、出て来た感情を頭のてっぺんから足の先の先までもいっぱいに感じて、味わって、しっかり自分を満たして行くのがいいって思う。


感じたことをそのままに。
不具合と思うこともあってもいい。
違和感に蓋をしない。

寂しさを放り投げたりしないで。
なるべく、自分という存在に嘘はつかないこと。大丈夫って言ったのなら、後から答え合わせすること。

本当に、きみは今、大丈夫?と。

先日、違う友人達と話した。
なんとなく、テーマが[大切な人がいない寂しさ]について、に、なった。
友人達の大切な人というのは、父親やパートナー。
それぞれに、父親、パートナーを見送っている。

彼女達だけに伝わる向こうからのエネルギーの熱は、時に寂しさというものに変えてやって来る。
寂しさの強さ=受け取った愛の深さだと、彼女達を見ていると相当にわかる。
だから、寂しさだって相当だということ。
こんなにも愛されて来たのかと、身震いする程に、彼女達の誤魔化しがきかない感情を見せてもらって来た。

暗いトンネルの中を歩き続けているのなら、私は出口の光の先にでも腰掛けて待つ。お布団の中から出たくないのなら、たまにその部屋の窓を開けて風を変えておく。
自分から光の方へ進んだのなら、その先で、自分からお布団を剥ぐのなら、少しでも気持ちいい深呼吸ができるように窓のそばで、待ってる。
待つことの意味を、死と真っ向から向き合う姿に教わっている。

自らの感情を知り、悲しみの中で苦しみもがき、それでも誰かの手にしがみつきながら、どうにか自ら立ち上がり、生きる覚悟を、彼女達に見せてもらっている。
本当によくここまで生きて来た。

お父さんやダーリンは、きっとその姿にまた惚れ直していると思うよ。

上から横から後ろから、おぉ、やってるね〜!いいね!って、その心に届くように熱く熱くエールを送ってるよ。
私ならきっとそう。
いーねーー!って海老反りしながら、「ラブストーリーは突然に」のCDジャケットの小田さんみたいに、めちゃめちゃかっこいい海老反りかまして、隣りで親指立てて何回でも言うわ。

いつか来るその時を想像したら、今この世界で味わいたい事がむくむくとこぼれて来て、掬えないでいる。
有限なんだと頭で理解しても、掬い切れない思い、感情。これまいったね。生きるってたいへんお忙しいことね。


そうそう、叔母さまの旅立ちを見送った知人と、その後もやり取りは続いて。

「私も叔母を見送りながら「ありがとう」がいっぱい溢れてきて涙もいっぱい。叔母と過ごした時間は少しだったのに不思議です。そんな出会いができたこと、そういう叔母であったことに感謝だな」

って。

「暮らしていた施設では楽しそうにしていたみたいで、よかった。自分らしく生きる人生を見せてくれた。」

って。

その人の人生の一面だけを、ほんの少し覗けただけかもしれないけれど、
よかったって着地できたこと。
よかった、を、見つけられたことは、この宇宙からの壮大なギフトのひとつだと思う。だって、もはや私の想像を超える愛を受け取っているんだもの。人の想像なんて遥かに超えた世界だ。
そう締めたい。


一緒にいた時間の長さじゃない。

交わした言葉の数でもない。

死に方じゃない。


どれだけ自分がその人から温もりっていう愛を感じ取ったのか、なんじゃないのかな。

多分、それだ。
間違いないよ。

それさえあれば、大丈夫。


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