山形の旅(6)伝国の杜 米沢市上杉博物館 常設展 上杉神社
※茂吉記念館前から山形線(奥羽本線)の普通列車に乗って、米沢へ。市民バスで10分余りの米沢市上杉博物館と上杉神社(旧米沢城跡)を見学した。
★伝国の杜 米沢市上杉博物館
場所:山形県米沢市丸の内一丁目2番1号
「「米沢市上杉博物館」には、数千に及ぶ上杉氏ゆかりの貴重な品々や国宝が収蔵されています。展示室は「常設展示室」と「企画展示室」に分かれていて、常設展示室では上杉の歴史と文化を中心とした「江戸時代の置賜・米沢」を主軸に構成されています。
企画展示室では、置賜の歴史、上杉文化など歴史や美術に関する企画展や、郷土ゆかりの作家や作品を取上げた展示を行います。」(official site から引用)
◎国宝「上杉本洛中洛外図屏風」(レプリカ)
「天正2年(1574)3月、織田信長が上杉謙信に贈った国宝上杉本洛中洛外図屏風は、当館収蔵品の中でも 極めて人気の高い作品です。現存する数少ない狩野永徳の真筆作品の一つでもあり、洛中洛外図の白眉といわれます。」(official site から引用)
★上杉神社
場所:山形県米沢市丸の内1丁目4−13
「天正6年(1578)、3月13日、戦国の名将上杉謙信公は越後の春日山城にて49歳で急逝した。その遺骸は城中不識庵に仏式を以て鎮祭された。景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当たり、御堂を米沢城内に移して仏祭を厳修した。明治の世を迎え御堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、1876年(明治9)には新たに神殿が成り、遷座祭を行った。1902年(明治35)、往時の勤皇の功により別格官幣社に列せられた。(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)
先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る。
1919年(大正8)米沢市大火の際本殿以下ことごとく類焼し、1923年(大正12)米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士(文化勲章受章者)の設計により現在の神殿を始め一切を竣成した。境内は旧米沢城址本丸跡でその6割を占め、およそ6300坪、境域をめぐる堤上の桜花はお堀に映じ陽春4月の例祭には一段に美観を呈する。例祭は4月29日(歿年3月13日を太陽暦に換算)。
上杉神社再建に当たり、家祖謙信公、米沢藩初代藩主景勝公、重臣直江兼続、9代藩主鷹山公の遺品・遺墨等を中心に収蔵、展示する稽照殿が創設された。」(official site から引用)
◎上杉鷹山歌碑
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
※上杉治憲(うえすぎはるのり)
「1751.7.20~1822.3.12 江戸中期の大名。出羽国米沢藩主。弾正大弼。号は鷹山(ようざん)。父は日向国高鍋藩主秋月種美。1760年(宝暦10)米沢藩主上杉重定の養子となり,67年(明和4)家督相続。世子時代に師事した折衷学派の細井平洲(へいしゅう)を文学師範とした。69年米沢に入国。73年(安永2)藩政を牛耳っていた重臣を処罰。藩校興譲館を創設し,細井平洲を招いて藩政改革に着手。倹約を勧め,改革派の竹俣当綱(たけのまたまさつな)らに離散農民の帰村,新田開発の奨励,用水路の開削,漆・養蚕等の特産品の奨励などの農村復興政策を行わせ,一定の成果を収めた。85年(天明5)隠居して重定の四男治広に家督を譲るが,後見として藩政をみた。」(山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版より引用)
★上杉神社の稽照殿(宝物殿)と上杉博物館の常設展で、上杉鷹山公のことを改めてお勉強できた。上杉氏は関ヶ原の際には徳川と敵対したが、取り潰されずに生き残ったが、苦しい財政状況が続く苦難の道が始まった。元禄の頃には世継ぎの問題もあって、危機的な状況になるが、保科正之のとりなしで吉良家から世継ぎを迎えて、知行地を半減させて生き残った。しかし、直後には赤穂事件に巻き込まれるなど、次々とたいへんなことが起きる。そして、1800年頃には財政破綻の危機に陥る。鷹山公は倹約と同時に産業振興への投資を行って、何とか次の代に藩を引き継いだ。そして、幕末には最後の危機が。奥羽列藩同盟に与した米沢藩は、新政府軍と戦い敗戦。
上杉神社でマンガ本の「上杉鷹山物語 世界に誇るふるさとの名君」(監修:横山昭男、作画:小川あつむ、発行:米沢御堀端史蹟保存会)を購入して、帰宅後も勉強中。