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20240828 悲しみの蕎麦

とても悲しいことがあり、久しく禁じているラーメンの中でもかなり独特な「青唐ネギラーメン」の辛さ5倍増しと半ライスを食べてしまった。お店は、毎日食べられるラーメンでお馴染み喜多方ラーメンの坂内さんである。

久しぶりにいただく坂内さんの優しいラーメンは、久しぶりだからこそ脳が爆発するかのごとくの美味さと食感で、味覚も満腹感も大満足。一方で、ラーメンを食べてしまったという相対的な罪悪感がとどまることを知らず、脳と心と腹がアンビバレントに引き裂かれ、欲望とは何か、食べるとは何か、生きるとは何かと思考しながら咀嚼して大いにくたびれた。

追い青唐辛子が過剰な青春みたいで最高だった。

悲しいこととは、残念なお蕎麦屋さんとの邂逅である。お蕎麦の食べ歩きが大好きな当方は8月某日、老舗とはまた趣が異なる種のモダン蕎麦店にて、蕎麦焼酎の蕎麦湯割り、蕎麦前3種をいただいた。とてもアグレッシブで面白く、美味しかった。

せいろを頼んだら、おそらく機械切りだったのだろう、太めの蕎麦の盛りの中に、切れ目だけが5筋入った状態で端は完全に繋がっている板ガムのようなものが紛れ込んでいた。機械切りでも手切りでも、誰にでもミスはある。が、手切りなら必ず気づく存在感である。というか、ほとんど板なのだから「まだ切っていない」状態に近く、手切りなら発生し得ないミスである。茹でる時にも悪目立ちするだろうし、水でしめる際にも、盛り付けのときも、明らかに手触りに違和が生じる存在感なのだから、いくらなんでも気付くはずだ。

ところがこの蕎麦未満の板は、手付かずのまま私の目前に現れた。ということは、もしかしたらこのお蕎麦は、提供されるまでの過程において、人間の目や手、然るべき工程を介さずして運ばれてきたのではないか。本来、美味しいお蕎麦は大将や職人さんの丁寧な仕事や洗練された技術によって紡ぎ出される。だからこそ滋味深く、ありがたいきもちで頂戴するのだが、この子は丁寧に扱われず、提供する側に関心をもたれず、手間も暇もかけられず、愛を知らぬまま、ここに来た。そう想像したらやり切れなくなってしまい、他の無事なお蕎麦も含めて美味しくいただくことがどうしてもできなかった。

心地よいすすり心地も、鼻を抜けていくさわやかな香りも、滋味深い喉越しも関係のない世界に登場させられた蕎麦の味わいは悲しみに満ちていた。

あまりの悲しさに、お蕎麦の食べ歩きをやめようと思った。無論、このお店も毎回板を混入しているわけではないだろうし、他店にいたっては全く関係がないので引き続き美味いお店を探訪すれば良い。が、悲しすぎて、しばらくお蕎麦とは距離をおきたいと思ってしまった。それくらい悲しく、ショックを受けた出来事だった。

だからその翌日、禁断のラーメンを食べたのだ。米もオーダーして。十割蕎麦以外の炭水化物全抜きダイエットを敢行していた頃の名残りで、今でもなるべく小麦と米を控えている。その頃からだ、十割蕎麦の食べ歩きを始めたのは。お蕎麦と距離を置くとするならば、小麦と油と米を一気に食らう行為がそのファンファーレとなる。

食べるのだ、小麦を。米を。悲しみにさよなら。

そして罪悪感でいっぱいの現在、悲しみと罪悪感、心に満ちるのはどちらの方がマシかと考える一方で、思い出す。その先週、余裕で塩ラーメンを食べていたことを。なんといい加減な人間だろうか。適当という意味でのいい加減ではなく、適切な良い加減はどこだ。

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