東南東の魔女が死んだ
2月、祖母が亡くなった。94歳の大往生だった。
大好きな祖母なのに、私はここ10年会うことができず、危篤になったときも手違いで見舞いに行けず、ついぞ生きている間に再会することができなかった。悲しみよりも少し大きい後ろめたさを引きずりながら、車で3時間の祖母の家に向かった。
祖母の家に着いたのは、通夜がちょうどはじまるときで、久しぶりに顔を合わせた数人の親族と私の両親と、祖母の家の目と鼻の先にあるお寺の住職がいた。昔から祖母と仲が良く、私のことを知っている住職は「久しぶりだね〜まさか〇〇ちゃん(私のこと)がそんな遠いところに嫁に行っちゃうなんて思わなかったよハハハ」などとおよそ通夜とは思えぬテンションで話しかけてくる。再会が十数年ぶりの住職と親族に、どういう距離感で話したらいいかがつかめないまま、そしてどのタイミングで手土産を渡したらいいかわからないまま曖昧に微笑んでいた。
住職の話によると祖母は、今の家に嫁いできて、姑や小姑などの大所帯の家族の中で家の仕事を一生懸命していたそうだ。また、家計を助けるために自ら外に勤めにでて働いていて、その働きぶりは勤め先でも一目を置かれていた。その証拠に、夫の親の介護のために勤め先を辞めざるを得なくなったとき、上司から強く引き止められたらしい。
確かに子どもの頃、祖母に会いに行くと、祖母はいつも自分が働き者であること誇りに思っている印象だった。70代でいつもテキパキとご飯を作って掃除や家事や日曜大工をこなし、昼間はホテルの仕事をし、家庭菜園もしていて採れたての野菜をいつも食べさせてくれる。大抵のことは自分でなんでもできて、器用で愛情深くて働き者。そんな彼女の孫であることが誇らしかった。
通夜の最中、幼い頃の祖母の記憶を思い出す。よく遊びに行っていた公園。二人で海岸線まで歩いて見に行った初日の出。4キロ先の親族の家に行って田植えをしたこと。別の日、その親族の家から歩いて帰ると私が駄々をこねて歩いて帰り、翌日私が熱を出したこと。スーパーで大量のアイスを買い、1日2個も食べさせてくれたこと。散歩の途中で食べたあんぱんとえんどうまめのスナック菓子。電車を乗り継いでいった水族館。
それらの記憶は、私が小学生の頃のことで、中学生になると部活が忙しくなり、遊びに行くことはめっきりなくなった。高校の時に震災が起きて、原発事故の影響で祖母は避難を余儀なくされ、故郷を離れた。私は祖母との思い出の地がなくなっていくことを静かに悲しむことしかできなかった。10年近く立って帰還困難区域が解除され、もとの家に帰ることができたのだが、家庭菜園の畑も大事に育てた庭の草花も除染のために全て撤去され、一面灰色の砂利で覆われていた。私は社会人になり、祖母に会える機会が完全になくなった。やがて祖母は認知症を発症し、歩くことができなくなって施設に入所し、そこで寿命を迎えたのだった。
原発事故や、自分の進路の影響で会う機会がなくなってしまったのもあるが、今思えば、会おうと思えばいつだって会えたのになという後悔の念が強い。自分が仕事の合間にもっと時間を作れれば、実家に帰ったときにちょっと祖母の家まで行ければ、たとえ砂利だらけの家でも認知症で私のことを忘れていても、手を握って声をかけて、会えなかった数年間を埋めることはいくらだってできたのに。
住職の念仏を聞きながら、唯一の孫としてやるべきことをしなかった自分を責めたい気持ちがこみ上げた。しかし、通夜が終わり、祖母の棺の中の顔を見たときにそんな気持ちは消え去った。祖母は広角を上げて自分の人生に心の底から満足したような顔をしていたのだ。少しでも悲壮感や寂しさがあるのではないか、と思っていたが、祖母は小学生の頃のままの祖母で、むしろその頃よりも若く少女のようにも見えた。まるでいつでも起きてきてテキパキとご飯を作り出しそうな、働き者の自分に誇りを持っている、私が大好きで尊敬するいつもの祖母の姿だった。
そして住職の話によると、祖母は認知症になる前、家の仕事の合間で度々旅行に出ていたらしい。お座敷列車のカラオケで歌うことが好きで、時には海外旅行までしていたようだ。ちゃんと仕事をしつつ遊ぶときは全力で遊ぶ。私はしっかり働いたぞ、そしてしっかり遊んだぞ。祖母の顔は私にそう言ってくれているようだった。
その姿を見て私も彼女のように自分に誇りを持てるような生き方をしたい、と心の底から思った。そのために、今やるべきことを全力で取り組み、周りの人たちを大切にし、愛情深く接していきたいと思った。祖母は私と出会ってから終わりまで、自分の人生を持って私に生き方を教えてくれた。彼女の孫として祖母に巡り会えて本当に良かった。
身内だけで小さく済ませたお葬式は終始和やかだった。有名人でもない、人とのつながりがたくさんあるわけでもない。とある90代の女性がひっそりと生涯を終えた、というだけである。だけど私は、祖母の生き様を感じられたあの時間を、ずっと忘れることはないだろう。
いつか、自分を誇れる人間になれるだろうか。いや、きっとその血を引いているから大丈夫。まだまだ道のりは遠いだろうけど。そしていつか祖母と再会したとき、よくやったねと言われたらいいな。そしたらお座敷列車で一緒に歌いたい。それまでもうしばらく、東南東の魔女の孫として、頑張って、楽しんで生きていきたい。
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