【ナナシス】アイドルの夢、社会という現実――「ノッキン・オン・セブンス・ドア」
ナナシスのエピソードには「社会の実相を描いている」という特徴がある。
ここで言う「社会」とは、すべてのモノやサービスが商品化する/してしまう「むきだしの資本主義」=「新自由主義的な資本主義社会」であり、そこに参加するプレイヤーも、自らの市場価値を高めるための闘いを強いられる「競争社会」のことだ。そしてそれは、私たちが生きている現代社会の本質でもある。
現在更新されている「EPISODE.2053」は、そんな商業主義/競争社会が先鋭化した世界の物語だ。2053年のTokyo-07(Tokyo-7th)では、多数のアイドルがしのぎを削っており、人気を集め、スターダムにのし上がるために日々過酷な競争を余儀なくされている。
その結果、アイドル間の人気格差が拡大しており、人気を集められなかった者、競争の過程で心が折れてしまった者、競争に嫌気がさした者は、アイドルとして活動するという夢を諦め、業界を去っていく。経済で喩えるなら「市場からの撤退」だ。
このように、EPISODE.2053では過酷な環境に身を置くアイドルの様子が描かれている。が、これは何も今に始まった話ではない。「社会に対峙する個人」という構図は、「EPISODE. 2034」、もっと言えばナナシスという作品全体に埋め込まれているのだ。
そしてその萌芽は、ナナシスの“ハジマリ”の物語――「ノッキン・オン・セブンス・ドア」に見ることができる。
「社会」に押しつぶされる「夢」
所属アイドルがおらず、閑古鳥が鳴くハコスタ「ナナスタ」に1人の少女が現れる。名前は春日部ハル。高校1年生の彼女は清掃員アルバイトの募集チラシをみて、ナナスタを訪ねたのだという。
そんな彼女を、支配人と“ジャーマネ”ことマネージャーの六咲コニーはアイドルとしてスカウトするが、ハルは頑なに固辞。それどころか「アイドルなんて大嫌い」と吐き捨てる始末。なぜ、ハルは2人のオファーをけんもほろろに突き放すのか。その理由は、かつてアイドルとして活動し、結果挫折してしまったというハル自身の過去にあった。
ハルの挫折の原因。それはハルが過去に身を置いていた環境にあった。ハルがかつて所属していた芸能事務所の人間は、商業主義にどっぷり浸かった者ばかり。彼らは「代わりなんて腐るほどいる」「理想を掲げる暇があるなら稼いでこい」といった理不尽な言葉をハルに浴びせるのだが、その口ぶりからうかがえるのは、アイドルを「人」ではなく「商品」と捉える姿勢だ。
これは資本主義社会の一つの側面である。ヒト・モノ・カネ・情報という経営資源を投下して利潤を得る。このサイクルを絶えず回すことで、付加価値(儲け)を生み出し続ける。これが資本主義社会の特徴だ。
特に先鋭化した資本主義社会――新自由主義的資本主義社会では、ありとあらゆるモノが「商品」に置き換わる。「ノッキン・オン・セブンス・ドア」で描かれているのは、ハルの誇りであり大好きだった「歌」はもとより、春日部ハルという存在さえも、交換可能な消費財と化してしまうという現実である。
第3話「逃げ出した記憶」(前編)で、ステージに上がるよう急かすマネージャーに対し、ハルが「あの……私の歌って……」と消え入るような声で尋ねるが、このやりとりから垣間見えるのは「私の歌は商品なのか」、もっと言えば「私(春日部ハル)という存在は利潤を得るための道具なのか」を確認したいという切実な心境だ。
また、現代社会では“効率よく”おカネを稼ぐことが重視する風潮が根強い。したがって、利益に直接結びつかない要素、利益獲得を目指すうえで非効率な要素は、いとも簡単に切り捨てられてしまうのだ。
このエピソードにおいてバッサリと切って捨てられたのが、ハルの「夢」である。弟の薦めで参加したオーディションに合格し、アイドルとしてデビューするべく厳しいレッスンを積み重ねたが、ハルに舞い込むのは歌・ダンスとは関係のない仕事ばかり。アイドル仕事よりもグラビア仕事の方が、効率よくおカネを稼げるのだろう。
ちなみに、この辺りの事情は、EPISODE.2034の特徴でもある「アイドル氷河期」という社会環境も、大きくかかわっているように思う。つまるところ、アイドルは「稼げない」という現実だ。
こうしたミクロとマクロの環境に翻弄された結果、自信を喪失したハルは念願のデビューライブでしくじりを犯し、アイドル活動に終止符を打つ。ハルの「夢」、そして誇りだった「歌」、そして何より「春日部ハル」という存在そのものが、新自由主義的資本主義という社会の重圧に、無惨にも押しつぶされてしまったのである。
「夢」の回復
こうした事情から頑なにアイドルの道に戻ることを固辞するハル。一方で、アイドルへの憧れを捨てられずにいたのもまた事実だ。
そんなハルに、アイドルとして復帰する道を指し示したのがほかでもない、コニーであり、支配人である。2人はハルがかつて所属していた事務所の人間とは対照的に、ハルのパフォーマンスを称賛する。それは、2人がハルの歌を儲けを得るための道具としてではなく、歌そのものに価値を見出したからにほかならない。かつての事務所と対比させるなら、ハルを「商品」としてではなく、「人」として見つめ、その存在を肯定したのだ。
アイドルしての可能性を優しく、時には粘り強く説いたことで、ハルの気持ちもやがて翻意。「誰かを笑顔にする」を胸に、アイドルとしてのリ・スタートを切ることとなった。かくして、現実に押しつぶされたハルの「夢」は、ゆっくりと、そして確実に元の形を取り戻していったのである。
このように、本エピソードで描かれたのは、新自由主義的資本主義という社会の重圧と、それに対峙する個人という構図である。そしてそれは、ナナシスのエピソードを通じて、繰り返し描かれていくことになる。
ハルが叩いた「アイドルへの扉」。その先には、ハルと同じように夢を追う少女たちとの出会い、そしてアイドル活動を通じて心身の成長を遂げていく未来がある。もちろん、その過程ではさまざまな障害が待ち構えているわけだが、ハルはその障害から逃げることなく真摯に向き合いながら前進していく。
そんなハルのたくましさの源泉が、「ノッキン・オン・セブンス・ドア」――ナナシスの“ハジマリ”のエピソードですでに描かれているのである。