解剖学的知見と外科手術との関係について

解剖学的知見と外科手術との関係について、これまでの認識は(明確に言語化されていたかは不明だが)、解剖学で明らかにされた人体の構造の「地図」があり、その「地図」には「道」と「道ではない所」が記述されており、外科医はその解剖学的「地図」を把握することで、術中に適切な「道」を選択しながら進むことで目的(腫瘍の切除や、構造の修復・再建など)を達成する、といったものだったかもしれません。

しかし、最近、ちょっと違うのかな、と思っています。
というのも、人体の構造の中で特に結合組織(主に疎性なもの)は、物理的な刺激に応じて急激に形を変えます。
確固たる不動な「人体の構造」(解剖学書に記載された人体の基本構造)があるというよりは、可変で動的な構造があり、その異なるphaseを我々は見ていると考えるべきかもしれません。(解剖学書に記述されているのは人体の構造のうちのひとつのphaseであるということになる)
(言われてみれば当たり前かもしれませんが、時に忘れがち、もしくは言語化が不十分)

外科手術の観点から人体の構造の異なるphaseをシンプルに提示するならば、
①Intact phase: 何も手が加えられていない、物理的な刺激を受けていない状態
②Manipulated phase: 牽引、剥離、切断などの手術操作が加わった状態(まさに操作が加わっている状態、または加わった後の状態)
の2つが考えられます。
まずはこの2つを明確に区別して、構造を記述していくべきだと思います。

その上で、①Intact phaseの人体の構造には、必ずしも「道」が明確にあるわけではないと思うのです。そこにあるのは「道」と「道ではない所」と「道になりうる所(なりやすい所と、なりにくいけどなりうる所)」であり、術中の外科医は人体内部の「道」を選択して進んでいるというよりは、「道なき道」の中に「道」を切り拓きながら進んでいるように思います。「道」の選択者というより、開拓者であるように思います。(開拓と言っても、その開拓の技術は標準化されうるし、教育・継承が可能)

現存する解剖学書や外科手術書に記述された人体の構造は、①Intact phaseの構造のみを記述したものもあれば、②Manipulated phaseの構造を踏まえて①+②の統合されたモデルとして記述されたものもあるように思います。しかし、①と②が明確に区別されていない現状では、「①と②の統合モデル」もあたかも「①Intact phaseの人体構造ですよ」といった風を装って記述されます。そのため、時に混乱が生じうるし、理解が難しい。

そのため、まずは人体の構造は可変であることを前提に置き、形が異なる2つのphase(①Intact phaseと②Manipulated phase)を明確に区別して構造を記述していくべきだと考えます。

①Intact phaseの人体の構造を観察するためには、何も手を加えない状態で、内部を観察するしかありません。何も手を加えない状態で固めて断面像を得る、(連続)組織切片やマイクロCTなどが手法として考えられます。

②Manipulated phaseの人体の構造の観察は、外科医が日々の手術で(直視下または鏡視下で)おこなっているものに他なりません。これはまごうことなき「生きた人体」の構造です(ただし、Manipulated phaseの構造を見ていることを認識する必要がある。Intact phaseの構造とは異なる可能性がある)。もしろん手術では必要以上に手術操作を加えることはしませんし、視野も限定されるので、構造の広がりや周囲の構造物との関係を知りたい場合は、肉眼解剖学的解析(解剖体標本を用いて、解剖操作を加えて観察)が補完的な情報を与えるかもしれません。

上記のような手法で、①Intact phaseの構造と、②Manipulated phaseの構造をそれぞれ記述していくことが必要だと思いますし、前者は解剖学者の仕事、後者は外科医の仕事(もちろん肉眼解剖学的解析は解剖学者の仕事ですが)かなと思います。
そして最も困難なのが、これら2つのphaseを結びつけ、可変で動的な人体の構造の詳細を明らかにすることです。それには解剖学者と外科医の協働が欠かせません。

さらに言えば、このような研究は外科手術への応用に留まるものではないと思うのです(もちろん手術応用は大事です)。
3次元の構造の記述を基本とする解剖学は、そこに個体差(変異)や、機能や、成長・加齢など様々な因子を組み込むことで、人体の形を多次元的に理解しようと努めてきました(東邦大学の川島先生が「多次元形態情報」と表現しています)。
Manipulated phaseの人体構造は、Intactな3次元構造に、牽引、剥離、切断などの物理的操作という因子が加わったものであり、ある種、多次元構造といえます。
基礎の解剖学と外科解剖(外科学における解剖)が有機的に結びつくことは、可変で動的な人体の構造の何たるかを明らかにし、学問としての解剖学の地平を広げることになると思います。

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