【雑記】2022/06/11

最近は、とかく何もしていない。哲学も、あきらめた。私の思考、つまり現実性の思考(志向)は、実際性の思考(志向)の飛翔についていけない。科学とは実際性の先鋒であろう。ならば哲学は、これもやはり実際性のそれなのである。哲学とは懐疑を得意とするために、まるでその場にまごまごととどまり続けているかのように見えるが、そのことは方法的なもので、大体の目星で水底を見つけると、そこから急速に跳ね上がってしまい、ついには北極星にさえ届く研ぎ澄まされた寸鉄と化す。語り得ぬものについては、沈黙しなければならないとはいうが、「語りうるもの」について語りつくすのも、存外に神秘的である。
私は、ただ分からないものをわからないという。それは私というものを語りうるすべてと同一視したレトリカルな表現ではなしに、ただ、私が私として、わからぬものがわからないと言っている。「わからない」ということは奇妙で、そのこと自体は分かっていなければ用いることができない言辞だが、わからないということだけがわかる、と言えてしまっても、やはりそれはただわかっていないことと同じことになってしまう。不可解ということ自体は明確であり、不可解ではない訳だが、その表現が不可解さを明瞭にすることはないのである。
このことは、どこか私の考える存在に似ている。存在とは、何らかの属性としてしか二次的、副次的に湧き上がらないものであるにもかかわらず、私たちは存在を直接に「̪知っている」。しかし、そのことを知っているからといって、それが明瞭になるわけではない。むしろ、その撞着的な不可解に、より一層不快であることを表さざるを得ないのみである。
だが、私たちは意外にもそうした存在への驚愕、タウマゼインには無頓着に、日常を過ごしている。即ち、私たちは、世界を換喩的に監視していることの方が多い。換喩とは、例えば神社のことを「鳥居」と表現するようにして行われる隠喩であるが、このとき、その言辞が隠喩であるという縹渺たる繋がりのために、鳥居という内容物が、神社という構造物が指示している、という構造をあいまいにしている。そして、そのことが逆説的に、神社と鳥居の繋がりを決定的にしているのである。そのことは、たとえば、どんなに高精細に区切られた写真であっても、モザイクをかけてしまえば、すべての色合いが混然一体となり、不確かだが決定的な関係性へと溶出することに似ている。そのモザイクの作用を、私たちは普段使いとし、そのことが存在の上をぬめぬめと這いずることで、曖昧にかつ明晰になった諸事象を喜んでいるのである。
ここから更に「わからない」というところに戻るなら、この換喩的技法は、不可解ということをは「理解している」、ということを強調し、現実をメタ化するのである。この理解とは、あくまでも隠喩的であることを強調することで、明晰に曖昧なメタファーであるはずのものだったが、物事を換喩的に捉えるということは、諸事象を「曖昧に明晰な」メタ・メタファーと捉えることにほかならないのだ。
そのこと自体は、良いも悪いも、善いも悪いもないものであるはずだが、私にはその飛躍が不能であった。ただそれだけのことである。

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