伝えたいから書いている

創作で文章を書き始めてもう10年以上経っている。

はじめは漫画だったものが、ブログの流行りに伴い文に変わり、絵のうまい友人を得てからは絵も上手くなりたいと描くようになり、気付けば絵も描く文も書くがふつうのことになっていた。


書くことをやめる、事を考えたことはあまりない。ただ流石に学生だったのでこのままだと受験に響くかなあと考えたことはあり(私は中高一貫だったので残すところは大学受験しかなかった)、ふと自分の行動を観察しながら過ごしたことがある。

結果、ああこれは無理だろうなと判断した。

見たもの感じたものあらゆるインプットを言語化せずにはいられない。おそらくそれは、途方も無いほど昔から話し相手が限定され、身近な存在にすら「何を言ってるかわからない」と言われたことが要因なのかなと思う。


伝えるための言葉をずっと探していた。


幸運にも中高の段階で私は会話のできる友人に恵まれ、単身赴任をしていた父と話をする時間が増え、
「わからない」と言われていた理由をようやく理解していまここにいる。
背景知識や文脈がないと、そもそも伝えたいことが伝わらない話をしていたらしい。なんてこった。

だから、前提を明らかにする。
話し始めを共有する。そこでくじかれると話を聞いてもらえないので諦めない。聞く、話す、繰り返す。

けれど基本的に私の話は長いようで、付き合ってくれる人は一人か二人程度だった。議論となると一人くらいだった。もちろんこれは、学生の頃の話だ。
今はもう少しだけ増えている、と思う。ありがたいことに。(議論は議題によりけりなので、人によったら話ができることはたくさんある)

ただ、まあ、相手に求めるのは違うかなと思うので、
話したくなったらなるべく話しやすいように、私はいつでも聞く耳を持って話を聞こうと思ってる。
聞いて欲しいけど、聞いてもらえない悲しみを知っているから、まず聞こうと思う。
私の話はそれからでも遅くない。

遅くないけど、忘れないうちに伝えたいから、書いておこう。

読んだ本に対して、私がいろいろ考えて意見を覚えるように
いつかどこかで出会える誰かが、
私の書いた内容を読んで、意見してくれるかもしれないから、書いておこう。


生きている間に書いたものを読んでもらえる幸運に恵まれたことは、この上ない至福だなあと思う。
明日には死ぬんじゃないかな、と何か話してもらうたびに思うけど、死なないように、もう少しだけ書いて、読んで、誰かと話をしていたいな。

話をしてくれてありがとう
お話を読んでくれてありがとう
言葉をかけてくれてありがとう
話を聞いてくれて、ありがとう

いつもそんなふうに思っている
いつもありがとうございます。
ちょっと考え過ぎなのかもしれないけど、感謝の気持ちは忘れずにいるつもりだ。

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