SS1「紫陽花の咲く庭で、また」


揺蕩う酸味に、芳ばしい豆の香りが混じり合い、部屋の趣に深みを持たせていた。
扉の前に立ち尽くした私の足下で、ぽたり、と傘から雫が垂れる。スラックスの裾を濡らし、滲みゆくその間に、彼は現れた。

「いらっしゃいませ」

まず病弱を疑い、次に色素欠乏症を疑う外見をした彼は、骨張った指先に茶色のティーカップを載せている。

「まずはお一つ。うちのオススメでも如何でしょうか」

カウンター越しに映える紫陽花が、降りゆく雨を静かに受け止め、咲き誇っていた。
店長は名を紫苑と言った。
カウンター席に座った私のちょうど真正面に、よいせ、と腰を下ろし、湯気越しにこちらを見透かす。

「この店はね、私と弟と妹の3人で経営しているんです」

語る言葉を探す間も無く、紫苑が口を開く。青白い手に頬杖をついて、彼は横目にくつくつと鳴く薬缶を見た。

「手隙になるから、この時期はいつも私で店番を」
「はあ……」

下の2人は仕事が忙しいのだと仄めかし、言い訳をする彼に、私は何て事のない生返事をした。予約をしていたわけでもない。ただ、通りがけに寄っただけだ。そんな私に、彼は親密な態度で応じる。

「ところで。私には奇妙にも人の情報が集まりやすくてね。貴方のことも、実は少し聞いていました」

指を立てて、じわりじわりと私の心に侵食する。

「ヴァイオリニストの、本堂豊さん」
「……失礼する」

立ち上がる私に、彼は微笑みを浮かべて口を閉ざす。この反応を知っていたような態度が癇に障って、私は無言で傘を取り扉を開けた。
私はそこで、言葉を失った。
あれだけ騒がしかった雨は止み、紫陽花の葉に乗った雫が虹色に輝いている。
瑞々しい空気に溶けた土の匂いと淀みを残した静謐の香りが、鼻腔を通り過ぎ肺を満たす。
一瞬で冷めた思考に後悔がもたげて、せめて珈琲の礼だけでも残してやろうかと背後を振り返る。
しかし。
そこに広がるのは紫陽花が咲き誇る庭のみで、店も家も、何一つ、跡形もなくなくなっていた。

これが、紫陽花の喫茶店と私の出会いであった。

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