変則マジック 春02

※2016.01.24公開


たった一人でいいから、誰かを救うことができればいいなと思っていた。
日曜の朝にテレビでやっている戦隊モノのことをいっているわけではなくて、不思議生物に出会って魔法の力できらきら輝きたいわけでもなく、ましてや学校の花壇に人知れずそっと水遣りにいくような、そういうものでもない。
階段でこけそうになった人に手を差し伸べて助けるような、そんなことでもなくて、とにかく、誰かを救うことができればいいなと、井坂海斗という「ぼく」は思っていた。
平々凡々か特殊か、どちらかの一直線の人生を送ることができていたなら、また少し世界は違っていたのかも、と思うことはあったけれど、では平々凡々とはなんだろうと思って、特異とはなんだろうと思い始めて、考えるのをやめてしまった。
『よわむし、なきむし、ばかいとだー!』
無邪気な子供の声が、時々耳の奥で響く。
誰かにいじめられて、詰られて、泣いて帰れば優しい家族が温かく迎えてくれて。
小・中学生の頃のいじめは、高校生にもなると減っていき、友人と呼べるほどのつながりも得られるようになって、
不自由なんて、どこにもなかった。
だから、これでいいのだと、ぼくは納得することにした。
思い込むことに、したのだった。


   春半ば 02


桜も花が散り、道路からもその色が消えて無くなる頃にもなると、社会は初夏に向けて生き生きとしていた。
通りを過ぎる車が穏やかな音を立てて風を切り、アスファルトの上に溢れた小石を潰していく。
青信号になったところでグリップを回す。入学祝いと免許取得祝いにもらったクルーザーはそこそこ良いもので、これまでの人生を振り返るに、2年もこうして運転し続けられていることが不思議だった。大抵、こういう値の張るものは、盗まれるものだと思っていた。
一時停止線で止まり、左右確認。角を曲がって裏門から駐輪場まで走らせる。
一学年で三千人近く抱える私立大学の割に、人気は少ない。真面目に学校に通う若者が、そもそもとして少ないのかもしれない。海斗にはわからない何かが、彼らの目を惹き付けているのだろうと最近は思うようになった。
空いているバイク置き場にクルーザーを止めて、ハンドルロック。鍵を外し、ナップサックから取り出したアームロックをかけて、ようやくヘルメットを取った。
小学生の頃から変わらない黒髪が、ぺたりと首筋に張り付く。
(……だいぶ、暑くなってきた、な)
講義用の眼鏡に掛け直すついでに、ハンドタオルで汗を拭いた。
キーンコーンカーンコーン、と録音された鐘の音が鳴り響く。
「あ、あ、……い、い、いかなきゃ」
19年付き合ってきた吃音は、独り言も逃さない。呟く前に動けばよかったと思いながらも、海斗は小走りで校舎に向かった。

勉強は、嫌いではなかった。
公式は一つの道具で、それが成り立つ意味さえ理解していれば、自由に使うことができる。
理科は誰かが考えた世界の上に様々な方式や発見が付け足されて葉を増やしていく若木のようだったし、国語はありもしない空想に思いを馳せる教授の熱意が面白い。
社会は水のように流動的で、けれどそれを作ってきたのが人間だということが、不思議で興味深い。
大学のレポートは大抵がワード式のメール式で、誰かがまとめて提出したり先生に各自で提出したりする必要もなく、しゃべる必要のない環境が楽だった。
「はい」
「あ、あ、あり、ありが」
「次に回して」
前列に座っていた女の子からカードリーダーを回されて、お礼を言い終える前に後頭部を向けられる。
学生証を取り出して、ピ、と音を鳴らす。「はい」という前に横から伸びてきた手がカードリーダーを奪っていった。
乱暴な動作に見えるかもしれないけれど、彼は真面目な学生だ。顔立ちは強面そのもので、いつも海斗の掌くらい分厚いヘッドホンをしている。頭頂部だけモヒカンみたく髪を天に向かって跳ねさせ、周囲はワックスかなにかで乱雑に後頭部のほうへ流す髪型と、耳に空いたピアスが不良っぽいだけで、ノートにはぎっしりと先生の話した内容が書き込まれている。
「……なに?」
海斗はもうTシャツにパーカーで十分なのに、彼はまだダウンベストを着ている。
暑くないのかなあ、と思ったところで話しかけられたのだと耳が理解した。
「え、あ、ええ、と」
「井坂って、字綺麗に書くな」
ヘッドホンをしまま、彼は言葉を続ける。騒ぎながら講義室を出て行く学生たちの背中から、隣の彼に視線を向けた。
テキパキとリュックに教科書とルーズリーフを片付けている彼の横顔を、凝視した。いつの間に、サングラスをかけたのだろう。
「え……?」
彼が立ち上がると、ガタンと音を立てて椅子が畳まれる。旧式の講義机はギイギイ音を立てるけれど、現役で若者たちの尻を支えてくれていた。
最後列の席は講義中も寝れるからと人気で、人の集まりが早い分、講義が終わると一番に空になる。
「俺の名前、永瀬尊だから」
ざわめきが遠のいた一瞬に、名乗られる。
同じように名乗ろうとして、先ほど名前を呼ばれていたことを思い出した。
「な、なが、なが、せ……永瀬、くん」
「俺さ、来週からバイトが入りそうで。たまにノート見せて欲しいんだけど、いい?」
「あ、う、う、うん」
「さんきゅ。じゃあな」
眼鏡の向こうで、無表情に尊が手を振る。頷いてから彼の背中に手を振ると、コロンと持っていた鉛筆が床に落ちた。
慌てて拾おうとして、机に額をぶつける。痛みに悶えながらも鉛筆を拾い上げたところで、入り口前に立っていた尊と目があった。
「あとこれ、ヘッドホンじゃねえから。聞こえてる」
じっと見ていたことに気付かれていたのだと、顔にさっと熱が集まった。
ごめん、と言おうとして立ち上がった時には、もう尊は廊下を歩き出している。
追いかけようとした手をおとなしく身体の横に戻して、海斗は安い筆箱をぐしゃりと握りつぶした。

気分が、変わっていた。
いつもは下宿に真っ直ぐ帰るところを、安売りをしているスーパーに行くでもなく、喫茶店にも本屋に行くでもなく、ゲームセンターのある通りを歩こうと思った。
いじめられ体質だったから、ほとんどよりつくことのないゲームセンター。ボウリングのピンが目印の大きなゲームセンターを中心に、その通りには薄暗い店舗が幾つか並んでいる。
そのうちの手前から三番目の店と四番目の店の間に、エクセルの結合忘れのような小さな路地裏が一本、直線で通っている。海斗が通る散歩路は決まってそこで、ゲームセンターのある通りに出る前にUターンをする。
特に意味はない。入学式の日、桜並木を散歩していたら猫が教えてくれた路だった。その先には興味もなく、踏み入れる勇気もなく、T字路の交差点まであと十数歩のところで眺めているだけだ。
クルーザーは大学に停めたままで、ヘルメットだけ手に持っている。
途中にある小さくて狭い十字路にはぶち猫が巣を作っていて、海斗はお土産の猫缶を添えて眺めていた。
(永瀬くん、かあ……)
大学に入って二年、やっと知ったクラスメイトの名前だった。
去年仲良くしてくれた知人たちは皆、サークルや部活動の交流を優先して大学に来なくなっていた。だから、久しぶりに名前で呼べる知人ができたのだと、海斗は今になってようやく嬉しさを感じた。
「へへ……」
ぶち猫の子供がミーミーと泣きながら猫缶を貪る。身体は小さいが、すっかり大きくなったトラ猫はぶち猫の産んだこどもたちの唯一の生き残りだ。
手にすり寄ってくる猫を指先で相手にしながら、顎を上向ける。
くっきりと十字架の形に切り取られた空は、絵の具のように真っ青だ。
「おい、そこジャマ」
声をかけられたことに、気付いてなかった。どん、と肩を押されてなすがままに横に転ぶ。
「……うわっ、わっ?!」
座り込んでいたものだから、受身も取れずに頬がコンクリートで擦れた。
ずっずっと音を立てて、踵の踏み潰された運動靴が後頭部の真後ろを通り抜けていく。
「な、な、あ……?」
なんだ、とすら言えない。横目でぶつかってきた相手を見上げると、ぽたりと何かが頬に落ちてきた。
長い黒髪が尻尾のようにぴょんと跳ねる。青白い肌とスポーツメーカーのジャージとそれが、海斗が見えた相手の特徴だった。
起き上がり、ヘルメットを抱えていた手で頬に触れると、鮮血色の液体が指先に付いた。
「っうわ!」
気づいたら、相手の手首を掴んでいた。
「なんっ……て、お前かよ」
振りかざされた拳はすんでのところで止められて、相手が肩の力を抜いたのがわかった。
思ったより、背が小さい。海斗は183センチだから、大抵の男子はみんな背が小さい。
ジャージの彼も、顔一つ分程度低いだけで、普通の男子だった。
赤いヘアピンで前髪を留めて、ゲームセンターのある通りからジャージ姿で来たところを考えて、中学生か高校生かなと考える。
呆と見つめている間にもこめかみから流れ出る血に、言おうとしたことを思い出した。
「あ、あ、あ、あの、ち、ち……」
「あ?お前、眼鏡の井坂だ」
眼鏡は今もかけているから間違ってはいない。いないけど、その呼び方は変だと思った。
力を緩めたつもりもない手の拘束を解いて、彼は軽い口調で悪い悪いと片手を上げて歩き去ろうとする。
名前を知っているということは同じ大学の学生で、同じ学科の、つまり同じクラスメイトで。混乱して同じという言葉ばかりを繰り替えす頭が、彼に伝えるべき言葉を忘れていく。
「んなとこで座り込んでんじゃねーよ!じゃーな」
手をぶんぶんと振る姿はまさしく中学生のそれで、血を垂らしているのにニッカと笑う顔は太陽みたいで、彼が緑色の桜並木の向こうに消えても、海斗はじっと動けないでいた。
足元に転がったヘルメットを、子猫がカリカリとひっかく。
「血が…………」
彼の血で染まった指先が、春の風で乾いていく。
追いかけられなかった足元を、ころころとヘルメットが転がっていった。

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