短編「ドッペルゲンガ―の夢」

※過去作


 真冬の、それも雪が降り積もる、冷たい朝の出来事でした。

「……すみません、あの」

 見た目は中学、高校生ぐらいでしょうか。セミロングの長い黒髪と、それに不釣合いな薄茶色の目をした、少し平坦な表情の少女が、彼女の家を訪ねてきました。

「あら、いらっしゃい」

 突然の来訪者に、彼女は鷹揚にお辞儀をして出迎えます。さらりと肩から零れる艶やかな黒髪に見惚れて、少女は呆然と立ち尽くしてしまいました。可愛らしい反応に、ふふ、と柔らかに笑って、彼女は少女の手を拾います。

「この冬初めてのお客様ね。貴方はどうしてここへ?」

彼女の真っ直ぐな視線を受け止めて、彼女の歌うような声に誘われて、少女は僅かに身を固めます。

「……あの、私、好きなひとがいるの」

 平坦な少女に隠されていたのは、深く、ガラスのように透き通る愛情。

「でも、そのひとの妹が、私とそっくりで、だから、どんなに頑張っても……あのひとは、私を見てくれない」

続けて吐露されたのは、不安と焦りと恐怖。

「私のことを、妹と同じに見るの。私は、違うのに」
「あらあら、それは困ったひとね。女の子を一緒にしちゃうなんて」

 彼女の言葉に、少女は眦を朱に染めました。

「違う、違うの。あのひとが悪いんじゃないの、あのひとの妹が」

 少女の手が、彼女の腕に食い込みます。それだけ、少女は彼を愛おしみ、想っているのでしょう。彼女は少女の言葉を、ただ微笑んで聞いておりました。やおら、少女の指から力が抜け「……ごめんなさい」と雪が淡く消えるような声。
 雫となった雪をそっとすくい上げるように、少女の腕に手を添えて彼女は微笑みます。

「お茶はお好きかしら?」

 温かな部屋に小さな湯気が漂います。

「どうぞ」
「……ありがとうございます」

 白い陶器のカップを受け取り、少女は紅茶の優しい香りにゆったりと吐息しました。温かい飲み物は、彼女の冷えた身体に徐々に熱を注ぎ、凝り固まった心を解きほぐします。

「さっきの続きを、始めましょうか」

 少女の隣のソファに腰を落ち着けた彼女は、自分の分の紅茶を一口飲み、少女のほうを静かに見つめます。
 ストーブがシュンシュンと音を立て、沈黙を引き立てました。
 味の濃さも熱さも調節された紅茶を味わってようやく、少女は彼女に向き直ります。

「私は、どうすればいいのかわからないの」

 少女は、山の麓の高校に通う、まだまだ花盛りの女の子でした。少女の家族は、父と母の二人。そして、少女のいう「あのひと」である少年は、少女にとっては従兄にあたる存在であり、「その妹」もまたそうでした。
 少女とその妹は、どういう縁か同じ日に生まれた瓜二つの女の子でした。いくら姉妹の子供とはいえ、ここまで似ることはそうありません。今でも、同じ高校に通う友人たちに間違われるのだと、少女はぼやきます。それほどに、二人は見目のよく似た少女でした。

「あのひとも同じ高校に通っているの。頭が良くて、話がうまくて、優しい人なの」

 少し頬を赤らめて、彼女にそう語る少女はとても初々しく可愛らしいものです。はにかむと少し八重歯が覗くところもまた、彼女の魅力の一つでしょう。にこにこと相槌を打って話を聞く彼女に、少女はさらに続けます。

「あのひとの妹はね、あのひとを自慢にしているの。それは分かるのよ、だってかっこいいもの。でもね、あの子はどことなくあのひとに固執しているところがあって……それなのに、あのひとは優しいからそれすらも受け入れてしまうの」
「貴方が優しい理由が、分かるわ」
「……え?」

 不意に、彼女が言葉を挟みました。唐突な、話の流れとは違う言葉に、少女は紅茶に向けていた目線を彼女に向けます。

「優しい人を見ていたから、優しくなれたのね」
「……ええ、そうよ」

 僅かに目を見開いて、それから少女は控えめに笑いました。

「大好きな人だもの」

 そうやって、彼女が少女から聞いた話というのは、次のようなものでした。
 少年は、少女と彼の妹を同様に見ているのに、そのくせ、少女よりも妹の方に甘いのだとか。なんとも可愛らしいご兄妹ではありませんか。少女と三人で話している姿を考えると、愛らしくも思われます。そして、妹のほうもまた、甘やかされ慣れているせいか兄の甘やかしを誘うのが上手く、いつも二人の仲良い姿を見せつけられているの、と少女は頬を膨らませました。

 少女が彼に片想いを始めたのは、少女が中学生に上がった頃。たまたま、彼が一人で図書館に居たところを見かけ、そのまま声をかけたのだと少女は言いました。彼が読んでいたのは少女には少し難しい参考書だったようですが、彼はなんでもない顔で、面白いよ、と語ったそうです。

「だから、私は意地悪のつもりで言ったの。私は分からないから、そんなもの面白くなんてないわ、って。そしたら、あのひとはニヤッて笑って、こう言ったんです。『聞きたい?』……意地悪に気付いて、そう言ったんだとわかった」

 それが恥ずかしくて、同時に、どうして少女が彼に声をかけたのかを見透かされた気がして、意地を張って少女は彼に「聞きたい」と。……そしてそのまま恋に落ちてしまったのですから、彼も憎いひとですね。余程、彼の読んでいたものが面白く、そして彼の話が少女を楽しませたのでしょう。

「……そんな風にして、たまに二人で会うことがあって、……そして、妹に気付かれた」

 目線が落ち、カタカタと震える少女に気付いて、彼女は指の食い込んでいる少女の両手に触れます。彼女が触れると、少し怯えるように少女の手は小さく握り直されました。
 もしかすると、一度に話すには辛いことなのかもしれません。彼女は膝をついて少女の顔を覗き込みました。

「ねえ、貴方。今日はもう遅くなってしまうから、明日、またここへ来てくださるかしら」
「……はい。ごめんなさい、いきなり」
「いいえ、訪ねてきてくれて、話を聞かせてくれて有難う。貴方の素直な気持ちが伝わって、私まで温かな気持ちになったわ」

 ゆっくりと手を引き、少女を玄関口まで案内します。彼女が家を出て坂の上まで少女に連れ添って行くと、遠くに小さな影が見えました。

「ほら、お迎えが来ているわ。いってらっしゃい」
「あ……」

 彼女には一度も見せなかった笑顔を浮かべて、少女はかけ出しました。
 二つの影が消えるまで、彼女は手を降り続けます。
 牡丹雪が、静かに降り積もっていきます。彼女の白い息は、やがて夜の闇に溶け込んでいきました。
 翌日、辺りは一面白一色でした。小山は雪化粧でうっすらと境界線を淡くし、世界は白銀に閉じ込められたように、しんと静かに目覚めを待ちます。
 ぴちち、と何処かで雀が鳴きました。
 一つの影が、彼女の家に近付きます。その足取りはどことなく粗雑で、些か乱暴に家の扉が叩かれました。

「いらっしゃい」
「おはようございます。昨日、私によく似た女の子、来ませんでした?」

 訪れたのは、セミロングの黒髪に薄茶色の目が印象的な、愛嬌のある面立ちをした少女でした。彼女は少女の問いに答えず、一度お辞儀をして中へ招き入れます。

「いいですよ、私、長居しないんで」
「丁度チーズケーキが焼けたところなの。味見していただけるかしら」

 柔和な笑みで彼女がお茶に誘うと、少女は一寸(ちょっと)考える素振りをしてから彼女の家に足を踏み入れました。素直になれない思春期特有の動きです。可愛らしいですね。彼女は少女の背にふふ、と笑いかけて、それから、そっと外の冷えた世界に扉を閉めました。

「美味しいです、どれも。お料理が上手な方って、素敵だと思います」
「有難う」

 訪ねてきたときと比べて、角の取れた表情で少女は静かにフォークを置きました。丁寧な口調に、丁寧な仕草。どれも洗練されていて、笑顔を向けるタイミングですらまるで計算されたような。彼女はただにこにこと微笑んでいるだけでした。
 僅かな沈黙が、部屋の温度を下げたような気がしました。

「それで、昨日、女の子が来ませんでしたか」
「貴方はその子を探しているのかしら」
「いいえ、探してなんかいません。でも、困るんです。だって私の方が本物ですから」

 少女もにこりと笑ったまま言葉を続けます。

「本物、とは」
「だって、おかしいじゃないですか。同じ日に生まれた、同じ外見を持つ子供なんて。そりゃあね、私だってあの子みたいにお兄ちゃんと少ししか血がつながってなかったらいいなとは思いますけど。……お兄ちゃんにとっては、結局私が基準になるのだもの」
「ああ、そういうこと」

 ぽん、と両手を合わせて彼女が相槌を打つと、少女は得意気に笑いました。

「だから、あの子は私には勝てない」

 紅茶を一口優雅に飲んで、少女は立ち上がりました。

「ごめんなさい。もう行かないと」
「あら、そうなの」
「ご馳走様でした。よい年末を」

 彼女が何事かを告げる前に、少女は風のように扉を開けて出て行ってしまいます。小走りに後を追いかけると、坂の下で二人並ぶ影を見つけました。小さな影が大きな影に寄り添い、時折、楽しそうに飛び跳ねます。

「……チーズケーキを包んでさしあげたのに……」

 ストーブで温まった部屋の中、小皿の上にはチーズケーキが半分だけ残されていました。
 それから数日して、彼女の家の扉がまた叩かれました。
 控えめなノックに、最初彼女は首を傾げ、それから手に持っていた本を置いて扉に駆けつけます。

「……こんにちは」

 訪れたのは、最初の来訪者。

「こんにちは。嬉しいわ、また来てくれたのね。どうぞ」

 彼女が招き入れると、少女の肩に乗った雪が、部屋の温度で溶けていきます。寒い世界から温かな部屋へ入った少女は、その温度差に頬を火照らせ、急いでマフラーを外しました。

「あれから時間が経ってしまって、……ごめんなさい」
「いいのよ。来てくれたんですもの、それだけで嬉しいわ」

 少女をソファに案内し、彼女は楽しげにお茶の準備をします。作り直したチーズケーキを綺麗に割って、お皿の上へ。沸かしたお湯を一度カップに注ぎ、カップを温めてから紅茶を注ぎます。

「あの……手伝うわ」
「あら、そう? じゃあ、こちらを運んでくださるかしら」

 彼女が長方形のお盆にチーズケーキの乗った小皿を並べると、少女は目を開いてチーズケーキと彼女の間に視線を行ったり来たりさせました。

「作れるもんなんだ……」
「一緒に作ってみますか? 美味しくできたと思うの、もし良かったら一緒に作ってみましょ」

 彼女が誘うと少女が視線を落としました。付け足された言葉に顔を上げて、少女は眦を下げてはにかみます。

「ごめんなさい、私、チーズケーキそこまで好きじゃなくて」
「あら、ごめんなさい。じゃあ違うものにするわ」

 それでも彼女は柔和な笑みを浮かべたまま、チーズケーキを攫って代わりにタルトを置きました。ブルーベリーやラズベリーがふんだんに使われた、華やかな見た目のタルトです。
 少女の目が輝きます。

「ベリーのタルト」
「ええ、これは大丈夫?」
「大好きです!」
「良かった」

 そうやって、少しずつ少女のことを知りながら、彼女は静かに少女を見守っていました。
 ある日のことです。
 少女が彼女の家に訪れはじめて、一ヶ月した頃でもありました。彼女は一つの提案を持ちかけます。

「鶴を折ってみない?」
「鶴?」
「ええ。よく、願いを込めて相手に贈るでしょう?」
「祈るためにも折るわ」
「そうね。……どうかしら」

 今まで少女ばかりが話をしてきました。彼女はいつでも優しく笑って話を聞いてくれていました。そんな彼女からの、少女の苦しみも優しさも聞いてくれた彼女からの提案に、少女が頷かないはずかありません。

「いいわ。折るのは得意よ」
「頼もしいわね。どれがいいかしら。千代紙もあるのよ」

 二人の楽しそうな声が、部屋の中に響きます。
 窓の外では、枯れ木の上に霜が降りていました。冬も半ば、訪れる春に思いを馳せる頃合いでした。
 それから数日して、彼女は同じ提案を二人目の来訪者にも持ちかけました。

「……いいですよ」
「じゃあ、すぐ用意するわね」

 愛想のいい笑顔で答えた少女に、彼女はぱたぱたと音を立てて準備をします。

「普通の折り紙と、千代紙と、どれがいいかしら」
「普通の折り紙でお願いします」

 逡巡の間もなく返された言葉に、思わず彼女は苦笑しました。それでも、嫌な顔一つせず付き合ってくれる少女に、愛おしさを覚えないことはないのですから、困ったものです。

「お待たせ。鶴を折ったことはあるかしら」
「いいえ。……教えてくれますか?」
「勿論よ」

 

 そうして出来上がった二つの折鶴は、彼女の手作りの小箱に詰められ、窓際にそっと置かれていました。
 折鶴を折ってからしばらく、少女は姿を見せていません。
 冬は、終わりを迎えようとしていました。
 コンコン。

「どちら様でしょう」

 少女のものではないノックに、彼女は扉越しに声をかけます。

「こんにちは。妹たちがお世話になっています」
「あら、待ってね、今開けるわ」

 少女たちよりも低く落ち着いた声に、彼女は急いで扉の鍵を開きます。
 立っていたのは、少女と同じ目をした少年でした。耳にかかる髪は乱雑に毛先を散らし、レッドワインのフレームの奥に優しさを滲ませて、少年は丁寧にお辞儀をします。

「改めまして、こんにちは」
「こんにちは、お呼び立てしてごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
「どうぞ、入って。寒いでしょう」
「お言葉に甘えて、失礼します」

 雰囲気からにじみ出る柔らかさは、物腰も裏切りません。足音もなくそっと部屋に入ってきた少年をソファへ誘導し、彼女は尋ねました。

「紅茶がいいかしら、それとも珈琲?」
「おかまいなく」
「少し付き合ってもらいたいことがあるの。どちらがお好き?」
「……珈琲が好きです」

 彼女の見目に不釣り合いな強引さに、少年は一寸だけ驚いたようでした。浮かべていた笑みがすっと消えて、幼子のようにきょとん、と首を傾げます。彼女の笑顔に促されるまま素直に答えてしまうのですから、少年もまた、かわいらしいものでした。

「二人は、どうですか」
「貴方の優しいところは、彼女を『二人』と見ていることね」

 静かにテーブルに置かれた珈琲を一瞥して、けれど手に取ることなく少年は彼女に尋ねます。真摯な問いかけに、彼女は哀しそうに笑いました。

「けれど、その優しさが彼女たちを苦しめている」
「……そうですか。やっぱり二人が二人で生きることは難しいのですね」
「だって彼女たちは、貴方が好きなんですもの」

 彼女が紅茶を味わいながら答えると、ソーサーとカップを手に少年は困ったように笑いました。

「恋愛ごとに巻き込まれるのは御免だったんですけどね。……まさかこんな近くでそうなるなんて、思ってもみなかった」
「あらあら、罪深い人だこと」

 彼女は茶化しましたが、少年は珈琲を飲んで誤魔化します。ほう、と息をついて「美味しいです」と応え、静かにテーブルの上にカップを戻しました。
 彼女は、これまで少女たちから得た話を語り始めました。二人がそれぞれ思っていたこと、思っていること。二人の相違点と、似ている点。少年は静かに彼女の話に耳を傾けていました。

「……それで、最後にね、これを作ってもらったの。中を見たら、一度蓋を閉めてくれるかしら」
「? わかりました」

 窓際に置かれていた小箱が、彼女の手から少年の手に移ります。少年が蓋を開けると、そこには千代紙で折られた鶴と、赤一色で折られた鶴が鎮座していました。

「蓋をして、そう」

 少年が小箱を彼女に戻そうとすると、彼女は掌でそれを制止します。目を閉じ、首を振って言いました。

「貴方は、今の二つの内、どちらの折鶴を見たのかしら」
「……二つともです」
「……そう」

 彼女は腰を上げて、少年の足元に膝をつきました。少年の手を両手で包み、確かめるように笑みを浮かべます。

「貴方は、何も悪くないのに。ごめんなさいね」
「いいえ」

 彼女の手に、小箱がわたります。少年の手を引いて、彼女は奥の部屋に向かいました。

「少し前に、泊まりに来ていたの」
「知っています。だから、僕は迎えに来ました」
「ええ、そうね」

 扉の前で立ち止り、彼女は少年に扉を開けるように促しました。彼女が何も言わなくとも、少年はなにかを悟ったようです。一度彼女を見て、それから迷いを見せました。ドアノブに手が伸ばされます。
 木の擦れる音がして、扉が開かれました。

「あ――」

 クッションの上に座って、本を読んでいる少女の背中にかけようとした名前を、彼女が仕草だけで止めます。少年は唇を噛んで、少女の背中を見つめました。願いを込めているような姿に、彼女はそっと目を伏せて、少女を呼びます。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 彼女の声に驚いたのでしょうか少女の肩が揺れて、それから薄茶色の目が二人を振り返りました。少年を見つけて、少女は本を置いて立ち上がります。

「……お兄ちゃん?」
「迎えに来たよ」

 半ば突進するように抱きついてきた少女の髪を撫でて、少年は戸惑いを飲み込んだようでした。彼女と視線を合わせて、少女がどちらなのかを確かめます。

「なに、お兄ちゃん」

 少年が名前を呼ぶと、少女は笑顔を向けて応えます。

「そっか。君は妹になりたかったのか」
「どういうこと? いつも難しいことばっかり言って、私のこと馬鹿にしてるんでしょ」
「違うよ」

 少年は、妹となった少女を抱きしめました。

「おかえり」

 二つ並ぶ影が、坂を下りていきます。雪の気配は当に消えて、季節の変わり目だというのに、どこからか桜の花びらが流れてきました。
 春一番が二人を迎えます。坂を下りた先で影は振り返り、坂の上で見送る彼女に手を振りました。
 二つの影が春を迎えつつある世界に消えるのを見送りながら、彼女はそっと小箱を開けます。

 赤い千代紙で折られた鶴がひとつ、静かにそこに眠っていました。


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