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なぜ、書くのか。


今日は、なぜ書くのか?
という問いに自分なりの解を出してみたい。


前置きはなしにして、早速本題へ。


■ 好きだから

これが大前提。
書くことは小学生の時から好き。
作文や詩、読書感想文を書く時間が何より大好きだった(美術の時間と、音楽の時間も)。
幼いころ、自分の心の赴くままに物語を即興で作成し、寝る前に弟たちに読み聞かせていたこともあるくらいだ(言わば脳内の読み聞かせ状態とも言える)。
今でも文章を書いている時と、翻訳作業をしている時だけは時間を忘れて没頭できる。
気付いたら何時間も経過していた、ということもしょっちゅうなので、
そう言う意味では本当に好きなことと言えるのかもしれない。


■ 頭の中を整理するため

これもある。
そもそも「話す」<「書く」を私が選択する理由は、「物を書く」プロセスの中には自分の思考の整理が必ず伴ってくるからだ。
話すときにいったん頭の中を整理してから話そうとすると、会話についていけなくなるという事象が度々発生する不器用な私である。会話のスピードやテンポ感についていけなくなるため、ついつい一瞬の空白を使って「整理した気」になった思考を言語化し、相手に伝えてしまうことも少なくないと感じる。
そして、一度発した言葉は取り返せない。
政治家だって、自分たちの失言に対して「すみませんでした」ということが起こる世の中だ。
普段の会話で失言とまでは行かなくとも、「こんな反応しなければよかった」「もっと別の言い方で寄り添ってあげられたな」ということが日常茶飯事だっておかしくない。


■ 自分を振り返るため

これも、個人的には大きな理由だ。
普段わざわざ顧みない自分の思考や行動を、「あえて」書き出すことで「自分ってこんなこと考えてるんだなぁ」と、ぼんやり視覚化できることも多いからだ。
人は1日70000個もの想念を抱いているという。
私も例外なく、なんともガヤガヤとうるさい頭の中を普段から「えいやっ」と持ち運んで生きている。そのため、ある話題について考えていたと思ったら、次の瞬間には別のことに意識が向いていたり…なんてこともしょっちゅうだ。
先日、国際的なライフコーチであるAndrea Owenがこんなことを言っていた。

「時々、私の頭の中はスクリーンを同時に7個も開いてフル稼働しているコンピュータのような状態だなって気付くのよ」

激しく同感である。


■ それを読んだ人の反応が見てみたいから

書くという作業をわざわざブログでやっている以上、少なからずそういった意図がある。
別に自分が記す一言で議論を呼び起こしたいだとか、そういうたいそうなことを考えているわけではなく、単純に他人の思考というものに興味がある。
100の人間がいたら、100通りの考え方、物の見方が存在するということを大前提において生きてきた身としては、実生活で他人と関わるときにも、ついついその人の考え方や物の捉え方という部分に注目してしまう。
ブログも同じで、自分の書くものに共感する人もいれば、「?」という気持ちになる人もたくさんいるはず。それが当たり前だと思っている。
そういう反応を、少しずつでもいいから感じたいと思って、2年前からあえてブログというプラットフォームに書き残すという作業を始めた。ブログの存在を知る人からは、よくSNSのDMでコメントが来る。読んで感じたことをシェアしてくれる人もいて、そういう「思考の共有」がなんとも面白い。



■ で、結局のところ目的は何?

これらを踏まえたうえで、何を目的に書いているのかと言えば、
「自分の納得」というところに行き着くだろう。
なんとも大雑把なゴールである。
そんな大雑把な中にも一応のこだわりはあって、「自分の」納得というところに重きを置いている。だから万人受けする内容を書きたいとか、SEOで上位に躍り出たいとか、最低どのくらいのビューが欲しいとか、そういうことに関して特にnoteでは重きを置いていない。
少なくとも、今のところは(どうなる未来の私?諸行無常の心に今後も要注目)。

だからこそ、自分が「よし、この内容で」と思ったら、どんなに短いものであろうと論文並みの長文であろうと(大方こちらがメイン)、ポンっと放り出してしまうだろう。
自分にとっての納得がゴールである限り、きっと今後もそんなマイペースな更新が続くし、内容もばらつく。
今のところ「心の持ち方」寄りの内容が多いのも、自分の直近の生活を基に得た気づきを書き記すためであるし、過去には社会問題系の内容を熱く語っていたこともある。どれもその時々の自分なりの「納得」の判を押して公開したものだ。
私の好奇心や興味関心分野がそれはそれは多岐にわたるので、ある内容には共感できても、また別のある時には共感できない、ということもあるかもしれない。
とは言え、自分の中で大切にしている根本的な「価値観」みたいなものもある。
それは、例えばこの先の人生で何億ものお金を積まれることがあっても、それこそ自分が納得できない限りびくともしないものだろう。一方、人生で様々な考え方・価値観に触れる過程で、少しずつ角が取れて丸くなったり、逆に角を磨いていったり…という変化は今までも、そしてこれからも変わらずに楽しむつもりだ。それがわたしにとっての人生の醍醐味であり、あくなき探求心の根源でもある。



何が言いたいかというと、今後も私が書くものは「自分の納得」がベースになっていくだろうということ。
競争相手や世間様、そういったものぜーんぶ取っ払った世界。
そこで書くものが、私の書きものということになる。

なにも書きものだけではない、振り返れば自分の人生もその選択の繰り返し。

「人の目に映る自分を通した自分」しか受け入れられなかったら、きっと今ごろ不安に押しつぶされているはずだ。


「わざわざ高卒でアメリカのカレッジに入学するの?日本の大学から交換留学する方法もあるのに」


「大学生を続けるためにバイトに3年間も費やすの?奨学金を借りれば?」


「新卒で入った会社を一年で退社?この先大丈夫なの?」


「なぜあなただけ上司にお酌しに行かないの?それがこの社の伝統なのに」


「先輩に言い返すなんて、生意気」


「なんであの子たちと仲良くするの?同じグループだと思われたら嫌じゃない?」


「女のくせに、何で赤いランドセルじゃないの?」


「なぜ写真を撮るときに笑顔が出来ないの?」



幼いころから、つい最近まで。
人生のほんの小さい選択から、大きい決断まで。

わたしの周りの騒音は一時も消えることはなかったし、それに従うという選択肢も常に用意されていた。
それでもその道を選択できなかったのは、やむことのない世間様からの疑問質問に、それが「自分で納得して選んだ道であること」を自分の言葉で説明できる用意があったからだ。

自分で納得したうえで進んだ道にも、もちろん失敗や後悔はつきものだけれど、そこには「自分で」選択したという紛れもない事実が残る。自分の選択にはそれなりの責任も付きまとうので、想定外のことが起きれば自分でどうにかするしかない。
尻ぬぐいも、全部自分。

それでも、自分の心の中で「あの時あの人にこう言われたから」とか「こういう内容の方がウケが良いと思って…」なんて考えがあとあと渦巻く可能性が一ミリでも残るくらいなら、私は自分で納得した道をこれからも選びたい。


書く時も、その他のことに対しても。



書く目的は人それぞれ。
改めて自分が「なぜ書きたいのか」を振り返ってみるのも、なかなか興味深かった。
数年後、これらの「なぜ」にどんな違いが生じるのか、はたまた全く変化がないのか…


それは数年後のわたしに聞いてみるとしよう。



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Peace!

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