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白煙の少女

 採算が取れないことばかり起こっているようで、私の頭の中は空っぽだった。空っぽで、こうして人気のない公園で煙草を吸っているのだが、それにしてもからだが震え上がるほどの怒りを落ち着けさせるのに、もうこれで何本目だろう。

 彼のためなら何だってできた。彼が私のことを愛していないと言っても、これまで一緒に過ごした数年間の愛は無くならない。儚い愛に価値があると、自分、もしくは他人の恋愛を俯瞰している愚か者がこの世には一定数いるようだが、私には儚さと愛が同時に存在するとは思えないのだ。
 私は彼との日々を思い出して、そして別れの瞬間を思い出して、これまで自分にはうまくできた別れなどあっただろうか、と考える。バイオリンの先生、実家の猫、もう記憶にはない学生時代の友人。自分がしたかったのにできなかったことは山のように存在していて、それすらも自分の魂とやらを形作っているのだ、と納得するには私はまだ若すぎる。そして、彼との記憶もまた青く、私はそれが熟し、味わうべきその瞬間を待ちながらこうして眺めているのだ。

 初めの記憶はいつだって朝、彼より早く目が覚めるところからだった。
 隣にいる恋人にキスをするために身をよじる。口を力なく開けて、無垢であるその顔をじいと見つめていたいのに、キスをするには遠すぎて、私は彼の優しさを脳裏に刻み込み唇を重ねあわせるのだ。彼はあの時、私の事なんて見ていなかったのに、誤解と理解のアンバランスさが恋愛を燃え上がらせるのだろうか、と悔しさでまた煙草の火をつける。「好きよ」
 恋人は私の目を見て、
「うん、僕もだよ」
と言った。優しく、誠実に、囁くように。
 私たちは毎日、ゆっくりと壊れてく。

 帰り道。愛しい人の予感。温まった我が家に帰ると、彼が温かいご飯を作って待っていてくれた。彼の仕事はひどく不安定で、生きていくための最低限のお金しか持ち合わせていなかったから、私は彼を支えるために仕事をしているようなものだった。しかし、それは私にとって嫌なことでも、泣きたくなるほど情けないことではなかった。私の生きがいになっている、とさえ思っていた。だから、
「おかえり」
 と同じ音色で
「ごめんね」
 という彼を、私は特別侮蔑したりはしなかった。彼のことを気の知れた友人に言うと、
「お金と時間をドブに捨ててるようなもんよ」
 と、憤慨していたのだが、私には到底彼女たちがそうなる理由がわからなかった。
 それが、彼が私の住処から消えてしまって
「ごめんね」
 なんて言われた日には、私はバカバカしくて、友人たちの言葉が脳裏を過るのだ。
「本当に好きなの?」
「これからどうするつもりなの?」
「その人と結婚するの?」
 他人の行く末ばかり気にするのは女の性であろうか。それとも、私が彼女たちの恰好の餌食になっていたとでも言うのだろうか。
 
 彼が好きだった。今でも好きだと思う。別れの瞬間、私の中で何かが弾けて、今まで冷静に自分の幸せをかみしめていたのが、突然飛沫をあげて涙と叫び声とが溢れ出した。
「なんで、どうして、うまくやってたじゃない」
 私がこう言うと、恋人は
「紗江といたら、しんどいんだよ。」
 と言って、随分と眉を下げて私の震える肩をさすった。
「じゃあ、私が今までしてきたことはなんだったの。次は誰のところに行くの。誰の蜜を吸って生きていくのよ。いやだ、別れたくなんかない。好きなのよ。何も求めてないじゃない。あなたにここにいてほしいってだけなのに、何で離れていくのよ。他の人が欲しくなったの?私、不安なんかじゃないわ。あなたの負担になんてならないから、だから、戻ってきて、お願いよ、お願いよ、お願いよ」
 彼の新しい住処である部屋の前で、私は息も絶え絶えにそう言った。彼の体を必死に掴むが、自分が本当に彼に触れられているのか、わからなかった。
「僕が、紗江の側いることを、紗江は求めていて、」
新しい部屋に帰ってきたばかりの彼は、もう私の恋人ではなくなっていた。
「それはとてつもなく大きなことなんだよ」
 僕は紗江の側にいたいとは思わないんだ、と最後に彼が、私の目を見てゆっくり言ったのを思い出すと、私は身の毛もよだつほどの怒りで目がじわっと熱くなる。

 もう、これで何本目だろう。足元に落ちていく灰の欠片が積もってしまって、街灯の光を反射する砂と混じり合うことはなさそうだ。
 煙草を吸うのは、随分と久しぶりのことだった。何かを埋めるようにして煙草を吸う人が、この世にどれだけいるのだろう。そしてこの白煙が、色濃く湧き上がる自らの黒煙に勝ることがないことを絶望だと思える人は、どれだけいるのだろう。
 今宵はちょうど煙月、彼に会いに行こうか。


ペンネーム:キレ気味ちゃん (@kiregimichan_77)

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