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唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)


 
素人の僕が今更偉そうに語ることなど何も無い有名遺跡なのですが、この度初めて行ってきました!
 
勝手に遠いイメージ持ってたけど、僕の家からだと高速使えば30分強で行けました。なんてこったい。
 
 
そんな唐古・鍵遺跡なのですが、土地が低湿地と言うこともあり、遺物(特に木製品、有機物など)が良い条件で保存されていると言う前提がある上に、遺跡自体も「弥生時代の日本列島でも重要な勢力の拠点があった集落」だと見られています。
 
 
個人的には、邪馬台国云々以前の時代の奈良の集落から北部九州の土器が出土している所に色々とロマンを感じます。
 
 
遺跡内の墓から出土した人骨(この弥生時代の人骨が綺麗に出土する自体、なかなか無い話)が大陸からの渡来系の人物と言う調査結果もあります。
 
中国の明の時代の墓に描かれている物と似た多層式の楼閣の絵が描かれた土器が出土しており、その時点で間違いなく渡来系の集団だと思うんですが、この遺跡ではその楼閣を見事に復元しており、とても楽しい遺跡です。
 
 

楼閣の土器とその復元



そんな渡来人が色々と経由しながら行き着いた先がこの地だったと言うことなのかなと思うわけなのですが
 

渡来人の東への移動に関してはこれまで僕は邪馬台国、纏向遺跡の時代に初めて起きた話だと勝手に思ってしまってたので、紀元前の弥生時代から東征と言うのか何なのか、つまりは東への移動は行われていたんだなと、言われてみればそりゃそうだなと思ったわけです。 
 

 
元々「縄文時代に人が住んでいない場所」に敢えて集落を築いている時点で、そこの住民は渡来人なんだろうなとは思うんですが(それを言うと弥生人のほとんどが渡来人になってしまうのだが、案外そうなんじゃ無いか)
 
 
僕の中で、現在の中国の紀元前のいわゆる戦国時代や秦の始皇帝の時代、それ以降、有名な水滸伝や三国志の時代もそうですが、やはり戦に敗れて海へ逃げた集団は居たわけです。三国志も呉が滅亡する直前、一夜にして大量の船団が海に消えたと言う話もなんとなく聞いたことがある気もします。
 
 
海へ逃げた者は、朝鮮半島に流れ着いた者もあれば、北部九州に流れ着いた者もあるでしょう。或いは山陰地方、それこそ出雲に流れ着く者も居ただろうと。
 
その中で、同じ国出身同士の絆のようなもので、百済と仲良かったり新羅と仲良かったり、やはり当時の敵国に対して協力体制を築いていたり、当時の敵国が倒された際には新たな大陸の国へお伺いを立て(使者を送る)たりしてたんじゃないのかなと。
 
 
そんなわけで日本列島に流れ着く中での東への移動に関してですが、これに関しては「太陽信仰」から来るもので、太陽の向かう方へ…と東へ向かって行ったと言う説が割と唱えられております。
 
 
僕も普段から「日が沈む方向よりは、日が昇る方に歩いて行きたくなるのが人間ってもんだ」と口癖のように言ってるので気持ちはすごく分かるし一理あると思うんですが(中には「行こうぜ、ピリオドの向こうへ」とか真逆を言う人もおりますが)当時の渡来人からしたら、追っ手から逃げるために東へ東へ…と言う方が考えた時にしっくりくるんですよね。
 

そして行き着いた先が、北と東と南の三方を山に囲まれ、西からの入り口も限られた自然の要塞の如き大和盆地。
 

ここが安住の地じゃ


 
考古心理学の視点から考えると、これまた非常にしっくりくる。
 
 
しかしここで気になるのが、唐古・鍵遺跡が徐々に廃れていくと同時に、目と鼻の先に出現した纏向遺跡。
  

あまり戦があったとは思えないのですが、この二つの遺跡の関連をどのように考えるのか。果たして現在の調査結果ではどのように考えられているのか。
 
 
全く同じ集団とは思えない。既に大きな集落を形成しているのにわざわざ移動する理由が無いから。
 
かと言って敵対していたとは…うーん
 
 
もちろん、渡来してくる前に敵国同士だった人達だと争いもあったでしょうし、そこの民族的アイデンティティの衝突は倭国大乱の一因にもあったんじゃ無いかとは思ってます(呉の国を魏に追われた人達が作ったコミュニティの中に、これまた滅びる際に逃げてきた魏の人たちが後々やって来たら果たして仲良くできるのかみたいな)が、どうもこの二つの遺跡は割と共存していたっぽいので…


 
今回の唐古・鍵遺跡への訪問を機に、調べたい欲が溢れてます! 
 

大型建物跡


 
 
こんだけ好き勝手語れるのも古代のことだからだ!
 
やっぱり古代は面白い!

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