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関が原&大垣城 一人旅行記

はじめに

2024年5月7日
ゴールデンウィークが終わった日の朝早く、
摂津国から美濃の関が原へ向かいました。

この日は朝から空模様が怪しく、
関ヶ原駅に着いた頃にはポツポツと雨が降り出しました。
おまけに、前日が振替休日だったため、
行きたかった関が原古戦場記念館は休館・・(泣)

それでも、私は関が原へ行こうと思いました。

結果は・・
行って良かった。
いい出会いもありました♡

駅でコインロッカーを探しましたが、ありません。
駅前に観光案内所がありました。
ここで預かってもらえるといいな、と観光案内所をのぞくと
高齢の男女お二人が私を迎えてくれました。
荷物を快く預かってくださり、さらに関ヶ原の廻り方を教えてくれました。
「私たちは14時までここにいるからそれまでに帰ってきてくださいね」
ということで
案内所でいただいた地図やそのほかのパンフレットを手に持ち、
片手には傘を持ち、いざ出陣!!
いろいろな施設やお店はお休みなのに、案内所を開けてくださって
本当に助かりました。
ありがとうございました。

②松平忠吉・井伊直政陣跡

地図の順番通り歩くことにします。
まず向かったのは、②松平忠吉・井伊直政陣跡です。(番号はマップの番号 因みに①は出発地点の駅です)
1600年9月15日午前8時、松平・井伊隊は先鋒に決まっていた福島隊の制止を振り切って宇喜多隊へ発砲し、戦いの火ぶたが切られます。

③東首塚

その同じ敷地内に③東首塚がありました。
戦いの翌日、家康は関が原一帯を治めていた竹中重門に、戦死者を葬るよう命じました。
重門は東西の首塚を造営しました。
重門は、軍師竹中半兵衛の嫡男です。

東首塚(現在はスダジイの巨木が茂るのみ)

④田中吉政陣跡

この田中吉政のことを私は全く知らなかったのですが
すごい人だったんですね。
近江国出身で、当初は浅井家の家臣の宮部継潤に仕えていたというのだから、そんなに身分の高い武将ではなかったでしょうが、信長、秀吉に仕えていくうちにどんどん出世していきます。

秀吉の甥の秀次の筆頭家老となり、秀次が処刑されても、なぜか吉政は加増され、三河国岡崎城主にまたまた出世。
最終的には築後国柳川城主に上り詰めた人なのです。

そして、吉政は関ヶ原の戦いで大きな働きをしました。
それは石田三成を捕縛したことです。
哀れな落ち武者になった三成が所望する
にら雑炊を食べさせて慰めたのだそうです。

⑥徳川家康最後陣跡

(⑤は岐阜関が原古戦場記念館 この日は休館)
戦いが始まって2時間経過した午前10時、家康は桃配山の陣を出て、この場所に陣を敷きます。
一進一退だった東軍の士気を高めるため、法螺貝を吹きながら進軍したそうです。
南宮山に陣取った毛利勢の目の前を横切る形での進軍。
吉川広家らが東軍に寝返っていたからできたことなのでしょう。

首実験をした床几場跡
土塁に囲まれています

⑦細川忠興陣跡

ガラシャの恨みは深い(怖)
というわけで忠興は黒田長政・竹中重門隊と共に石田隊を攻め
136の首級を挙げたと言われています。
この陣は、黒田・竹中隊が布陣する岡山烽火場の麓にあり、
見上げると岡山烽火場がよく見えました。

旗が立っているところが岡山烽火場

ここからは少し山登りになります。
その前に途中のローソンで腹ごしらえ。
(ローソンのことも案内書のお二人が教えてくれました)
お店がことごとく閉まっていたので、とても助かりました。
やはりコンビニはありがたいです!

⑧岡山烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡

ローソンでおにぎりを食べて、国道21号線バイパスを渡ると
まもなく上り坂になります。
下から見上げた、あの烽火場への上り坂です。
ここからは関が原一帯が見渡され、戦いが始まったのを見て
烽火を上げました。
黒田官兵衛と、竹中半兵衛の息子同士が同じ陣だったのは偶然なのでしょうか・・?

中央のやや低い山が小早川秀秋陣のあった松尾山
ここからは見えませんが、三成の陣は左手の緩やかな坂の先にあります

ここからは、山を下りずに池を巡る道を進みます。
今日は観光客は誰もいないので、もちろん私一人だけ・・
途中に”クマ出没注意”の看板もあるし、
ちょっとビビりながら歩きました(笑)
でも、この道は実はブラタモリで紹介されたあの裏道だったのです。
長政隊はこの裏道を通って、石田隊に側面から鉄砲を乱射し、
島左近を負傷させました。

ブラタモリが来た!という写真など
道の向こうに見える一帯が決戦地と思われます

山道を降り、バイパスの近くまで来ると、笹尾山の三成陣跡が見えてきました。

右手の旗のあるところが三成の陣跡

決戦地

バイパスの地下道を通り抜けると、笹尾山の麓になります。
ここが決戦地です。

決戦地は三成陣まですぐ
かなり攻め込まれています
中央の旗は島左近陣跡

⑩島左近陣跡

秀吉が「治部少(石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」と羨んだというのはあまりにも有名です。
島左近の最期は、三成を逃がそうと敵軍に突撃していったそうです。
しかし、島左近の亡骸が見つかっていないことから、逃げ延びた説もあるそう。
どこまでもロマンを感じさせる武将ですね。

⑪笹尾山・石田三成陣跡

さあ、いよいよ三成の陣跡までやってきました。
戦いが始まって4時間、正午ごろには裏切る武将が続々と。
哀れ三成(泣)

笹尾山の陣の前は決戦地です。
三成は戦いが良く見えたことでしょう。
戦う前は吉川や小早川の裏切りを想像もしていなかったのでしょう。
島津は戦おうともせず日和見をきめています。
家康の方が、一枚も二枚も上、総大将としての器もありました。
もしも、毛利輝元が総大将として関が原に来ていたら、味方の士気も
裏切りも変わっていたかもしれませんね。

勝ち目がないと見た三成は、伊吹山方面へ敗走。
母方の故郷、木之本町古橋へ逃げたと言われています。
しかし、三成を良く知る同郷の田中吉政によって捕えられ、最期は六条河原で斬首されます。
享年41歳。

結構な階段!
一瞬迷いましたが、行かない選択はありません
その場に行かないと見れない景色が広がります
雲に隠れた南宮山
左手の山の中腹あたりが岡山烽火場
その後ろが桃配山
中央やや右寄りの手前の山が松尾山
右手の一番近い山が北天満山 小西行長の陣がありました

⑬島津義弘陣跡

(⑫は欠番)
三成の陣から島津陣までは徒歩で12分。
ガイドマップによると、
鶴翼の陣の右端の三成の陣から左端の小早川の陣までは約2時間もかかります。
もちろん、当時は現在のような道はなかったので、
直線で行けばもう少し早く行けたかもしれませんが、
それにしても広い翼だということが分かります。
マップに時間は書かれていますが、実際に歩いてみると身体全体で理解できます。

義弘隊は防御のみに徹し、三成からの援軍要請も拒否。
勝敗が決まった開戦から6時間後の午後2時、
周りを敵に囲まれた島津隊は、家康本陣の脇をかすめ、
福島正則隊、井伊直政隊、本多忠勝隊、松平忠吉隊の攻撃も突破して逃げます。
島津の退き口はとても有名な話ですね。
よく生きて帰れたものです。

さすが島津氏という感じですね
立派な石碑が立っています
島津氏、或いは島津藩の関係者が立てたのではないでしょうか
並んでいる石碑は
島津の退き口を追体験した鹿児島の方々の名前が刻まれています

⑭開戦地

東軍の松平・井伊隊が、西軍の宇喜多隊に攻撃を仕掛けた場所です。
天満山の麓あたりが開戦の地です。

左手民家の少し上に白い旗見えます
石田三成の陣跡です
左手うっすら見える山が小早川陣のあった松尾山
目の前に開戦の地が広がります
キジがひょっこり

⑮北天満山・小西行長陣跡

行長の陣は、北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所でした。
関ケ原合戦が始まるとともに、北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしました。
午後1時ころには、大谷吉継隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて伊吹山方面へ敗走したようですが
キリシタンだった行長は自害することができません。
落ち武者狩りを指揮していた関ヶ原の庄屋、林蔵主に自首します。
林蔵主ははじめ、逃げるように言ったそうですが、行長の気持ちは変わりませんでした。
竹中重門の家臣により家康のもとへ送られ、三成らと共に六条河原で斬首されました。
享年45歳。
山頂に布陣できるスペースはなく、中腹に布陣したとのこと。
また、後に村人らがここに大きな溜め池を設けたため、当時の陣地は池の中に没したと『関ケ原合戦図志』(明治25年刊行)に紹介されています。

⑯南天満山・宇喜多秀家陣跡

小西陣跡から12分、杉並木の奥に宇喜多陣跡はありました。
秀家隊は福島正則隊と戦いました。
軍記「関ヶ原軍記大成」によると、福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも2、3度退却した、と記述されるほどの激戦だったと言われています。
敗戦となり、秀家は伊吹山に逃げ込みましたが、身柄を拘束されます。
島津家、妻の豪姫の兄・前田利家などの懇願により斬首は免れたものの、二人の息子とともに八丈島に流され、84歳で没するまでの約50年間を流罪人として生きました。
いったいどんな気持ちで暮らしていたのでしょうか・・
大阪の陣の時には、引き合いは来なかったのでしょうか・・
前田家から物資を送ってもらっていた以上、前田家を敵にすることはできなかったのでしょうね。
秀家の子孫は、明治になって許されるまで、八丈島から出ることは禁じられていました。
秀家の子孫は、現在でも八丈島に在住している人もいるのだそうです。

宇喜多秀家陣跡は天満神社境内にありました

ここで13時を過ぎていたので、荷物を預かっていただいた
観光案内所に戻らなくてはなりません。
今回の関が原は、ここまで。
この後、大谷吉継陣やお墓も行きたかったのですが、断念しました。
次回は今回の残りの場所と、松尾山にも登ってみたいと思います。

不破関土塁跡

観光案内所に戻る途中に、不破関の土塁が残っている場所がありました。
8世紀の初めに造られたそうです。

土塁
草がぼうぼうですね

観光案内所でお茶を入れていただきました。
電車を持つ間、お二人といろいろなお話ができました。
女性のかたは、もともとは大垣城のすぐそばに住んでいたそうですが、
あまりにも歴史が好きで、関が原に引っ越してきたそうです。
三国志も大好きで、海外旅行はもっぱら三国志関連の場所なのだそう。
お歳の割にとてもお元気で、好奇心に満ちあふれたご様子。
とても楽しいひと時をいただきました。
ありがとうございました。

大垣城

関が原から電車に乗り、大垣へ
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。
関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。
その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。
昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守を再建し、城下町大垣のシンボルとなりました。(大垣市HPより引用)

関が原の観光案内所でお会いしたお二人によると、
戦時中、関が原から大垣方面が燃えているのがよく見えたそうです。
名古屋城もそうですが、戦争でせっかくの天守が燃えてしまったのは
本当に残念です。

昭和34年に、4層4階建ての天守が復元されました。
石垣もその時に積みなおされたそうです。

右上の写真は昭和初期の天守

大垣城をササっと見学し、名古屋駅へ。
名古屋駅では新幹線のホームで大好きなきしめんを食べました。
コンビニのおにぎりから何も食べていなかったこともあり、
この日のきしめんは格別に美味しかったです。

かきあげと生卵をトッピング

この日の歩数は19,074歩でした。
関が原はまた絶対に行きます!

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