「EXテレビ」をやりたくなかった

「朝の連続ドラマ」の大阪での制作が終わり、バラエティー番組に異動する事が決まっていた。

どうしても行きたくなかったのが、「EXテレビosaka」。

同期のU君がプロデューサーをやっており、番組のコンセプトは「今までのテレビをぶち壊す」だった。

「ゲストもセットも何にも無いスタジオで、生放送、ただただ上岡龍太郎さんが一台のカメラに向かって1時間話し続ける」

「放送が終わっているNHK教育テレビにチャンネルを合わせてと、生放送の「EXテレビosaka」で呼びかけ、翌週その呼びかけで、NHK教育テレビの視聴率が変わったか検証する」

「ジミー大西が国会議員全員の名前を全て憶え、カンペも何にも無しで、名前を一つずつ言う(CMの間にカンニング出来ない様に全てのCMを番組の冒頭で消化)」

「上岡龍太郎さんと島田紳助さんがオールヌードの女性を肩車して対談。アタマがちょっとでもズレると、女性の大事な部分が見えてしまう(今のテレビのコンプライアンスでは絶対放送できないだろう)」

などなど。

僕は悩みに悩んだ。そんな新しい発想が次々湧いて来るはずもなく、休日に家族を車に乗せ、次々と湧き上がって来る不安を解消しようと、500キロ以上当ても無く走り回った記憶もある。家でじっとしている事に耐えられなかったのである。

番組の忘年会の時、U君には猛烈に罵倒された。

オマエ!「EXテレビosaka」のコンセプトを忘れたのか!と。
「死ね!」と。

ある日、僕は大阪市長居にある葬儀屋さんを訪ねていた。棺桶を借りる為に。

身長188cm。棺桶に入ってみた。そこはことの他、温かった。

標準の棺桶は一つ10万円。長さは200cmなので、詰め物を入れたら、僕の身長では入らないそうだ。

「生きている時に棺桶に入ったら、長生き出来まっせ!」と葬儀屋さん。

「EXテレビosaka」。企画は一冊のカレンダーから始まった。上岡龍太郎さんのカレンダーだ。上岡龍太郎さんが白装束で棺桶に入り、眠っている写真が表紙。

このカレンダープレゼントをする為に、番組を作ろうと構成作家が言い出し、その会議で僕が担当する事がすんなり決まったのである。

僕はどう作ったらいいかの見通しも全く立っておらず、心臓がバクバクしていた。

葬儀屋さんとはタイアップが取れ、番組制作が始まった。

美術との打ち合わせで、5つの棺桶を扇状に並べる事も決定。

そんなある日、後輩のN君がそのセット図を見て、
「アッ、この5つの棺桶、平行に並べた方が絶対いいですよ。それを2台のクレーンカメラを動かし続けて撮るのはどうですか?」

何か、番組の決め手に欠けていた僕はそのアイデアに即座に乗った。

先輩のプロデューサーに言われた事がある。
「お前は一から番組を作るのは苦手だけど、周りの人の意見を聞いて、その良いところを取り入れるのは上手いなぁ」と。

本番当日、美術さんが上岡龍太郎さんの棺桶の真上に大きなモニターを吊り下げてくれた。MCはゲストの顔が見えないと仕切りづらいからだ。

照明さんが棺桶だけに光を当て、真っ暗闇の宇宙に5つの棺桶が浮かぶ様にしてくれた。

棺桶に入るのは、上岡龍太郎さん、井上章一さん(国際日本文化研究センター)、野坂昭如さん、蛭子能収さん。一つ空いた棺桶には「白いマネキン」を入れた。視聴者の代わりに。

テーマは、僕の好きな「死」について。トークは盛り上がった。

上岡龍太郎さんの番組エンドのコメントが終わると、カメラをその位置に固定して、5つの棺桶の蓋を閉めた。(同ポジ・・・同じ画面で違う映像を撮り、編集であたかも連続して撮った様に見せる事)

番組エンドでゆっくりと棺桶に蓋が閉まっていく様に放送ではした。

放送の翌日、U君に会ったら、珍しく褒めてくれた。

4週に一度回って来るディレクターとして、一からテーマを決め、セットを作り、ゲストをブッキング。そして、本番後、編集・MA(音楽などを入れる作業)。

気が狂いそうになる「EXテレビosaka」の日々だった。

「棺桶トーク」の思い出。

※「EXテレビosaka」は火曜日が生放送、木曜日が収録の事が多かった。

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