「11PM」と「EXテレビ」

「朝の連続ドラマ」が終わり、僕は「制作部」内で異動する事になった。

いろんな番組を作っていたが、「EXテレビ」(日本テレビ・読売テレビ制作、日本テレビ系1990〜1994年)だけは行きたく無かった。

「EXテレビosaka」(火曜・木曜、読売テレビ制作)。

番組のコンセプトは、「今までの『テレビ』を壊す事」。何事にも妥協しない敏腕のUさんがプロデューサーをやっていた。

テレビのプロデューサーやディレクターには「俺が俺が」と前に出て、自分の個性を全面に押し出す人が多い様に思うが、僕の性格は真反対。

他人の意見に耳を傾けながら、番組をまとめていくタイプ。

実際に「EXテレビ」のディレクターをやり始めて、何度も何度もUさんには罵倒され続けた。

それゆえ、4週に1回、ディレクターが回って来るのが怖かった。

休みの日、「次にやるテーマ」を思いつかないと、妻と幼い娘を車に乗せて、500キロも600キロも当てど無く走り回った事もあった。自分の抱えている不安を消す為に。家族には本当に迷惑をかけた。

時が経ち、「自分はこの企画をやりたい」と痛切に思うテーマと少しずつ巡り合う様になった。

それが「孤高の芸人・マルセ太郎さんにドキュメンタリー的に迫った企画」であったり、上岡龍太郎さん始め、出演者の皆さんに「棺桶」に入ってもらい、「死」に関して議論する「棺桶トーク」だったりした。

上岡龍太郎さんが亡くなられた直後、ある夕刊紙のコラムに載っていた記事。

その記事によると、上岡さんは3回棺桶に入った。

1度目は「棺桶トーク」の企画の元になった「上岡さんが棺桶に入った写真が表紙の『上岡龍太郎カレンダー』の写真撮影時、2回目は「EXテレビ」の「棺桶トーク」の収録時、そして3回目がご自身が亡くなって、本当に「棺桶」に入った時。

「EXテレビosaka」の最終回のディレクターは僕だった。

企画は「何も無いスタジオに畳敷きの掘り炬燵を作って、上岡龍太郎さんと親しい方々と共に美味しいお酒とご馳走を食べながら、宴会するだけ」。

参加者は20人位いただろうか。

番組の最後、スタジオの出口にあるカメラに向かって、出演者が一言ずつ。最後は上岡さんだった。

「次の番組が無惨に失敗します様に」

そう言って、上岡龍太郎さんはすまして、画面からフレームアウトした。

なんかその言葉が僕には上岡さん一流の「テレ」の様に聞こえた。

1994年3月の事である。

ちなみに、1965年に始まり、1990年に最終回を迎えた「11PM」。

第1回から25年、司会を続けた藤本義一さんは「大阪イレブン」の最終回・いちばん最後で、「大阪イレブン」は「時代の排泄物」だと表現した。

確かに世の中に「裏表」があった時代、「大阪イレブン」は「裏文化」をテレビという「表文化」で垂れ流し続けた「排泄物」だったのかも知れない。

テレビの前の人々は「裏文化」を見たかったのだ。こっそりと、深夜に。

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