八月のラブソング

「八月のラブソング」。僕の東京でのドラマプロデューサーデビュー作である。

制作協力は、「共同テレビ」。僕が尊敬するドラマプロデューサー中山和記さんとの共同プロデュースだった。

監督は早撮りで有名な星田良子さん。

APとしての最後の仕事、「オンリーユー 愛されて」の撮影の終わり頃から打ち合わせが始まった。

APとプロデューサーではプレッシャーのかかり方が全然違う。ドキドキしながら、僕は毎日を過ごしていた。

新しい東京制作局長の高橋進さんが日本テレビから読売テレビにやって来た。

ドラマの制作会社を、読売テレビが今まで「木曜ゴールデンドラマ」などで付き合って来た老舗の制作会社から新しい制作会社に変えようとした。

「オンリーユー 愛されて」の「イースト」とか「八月のラブソング」の「共同テレビ」とか。

僕は今までのAPに付いた連ドラ通り、八ヶ岳での「タイトルバック撮影」にも「美術打ち合わせ」にも顔を出した。

「タイトルバックの撮影」では途中、突然雨が降って来たので星田良子監督はAPだった時の経験を活かし、複数のロケ車の駐車整理なども彼女がやり、葉月里緒奈さんを待たせる事無く、10分足らずで葉月さん部分を撮り上げた。リハーサル無しのいきなり本番だった。

緒形拳さんの部分は雨で濡れない屋根の付いた古民家の縁側で急遽撮影。

「美術打ち合わせ」に参加すると、星田さんは僕に言った。
「最初の挨拶だけして下さい。後はこちらでやりますから」

多分フジテレビでやる時は、フジのプロデューサーは「美術打ち合わせ」には顔を見せず、監督中心で打ち合わせをするのだろう。

僕は「共同テレビのドラマに対する気概」を踏み躙った様だ。

「共同テレビ」のプロデューサー中山和記さんも「美術打ち合わせ」にも「収録」にも「編集」にも「MA(音楽などを付ける作業)」にも来なかった。監督を信頼していた。

ポスター撮影。加藤雅也さんが当時アメリカ・ロサンゼルス在住で、次に日本に帰って来られる時を待っていたら、ポスターの完成が間に合わない。

僕は宣伝の岡本潤一さんと二人でロスに飛んだ。

入社して今まで、仕事で海外に行ったのはこの時一回である。

撮影は昼間すぐ終わり、夜は豪華な夕食。そして、現地の日本商社や大手メーカーが接待で使うクラスの高級なクラブ。ホステスは日本人の留学生。

これは僕が想像するに、宣伝の岡本さんがコーディネーターに手配させたものだろう。宣伝の費用から捻出されるので、値段を心配する事無く、遊ばせて貰った。

今から数十年前、遠き、テレビ黄金期の話である。今はこんな事は出来ない。

撮影が始まった。星田良子監督は毎日数時間巻いた。(予定のスケジュールより収録が早く終わる事)

主演の葉月里緒奈さんも、その父親で中華料理店のシェフ役の緒形拳さんも気分良く演じている。

こんな事があった。いつもは事務所の女社長が運転し、その助手席に乗って来られる緒形拳さん。この日は違った。

女社長が用事でもあったのか、緒形拳さん御本人が車を運転してスタジオに来られたのである。

僕とAPの田中壽一がお出迎えする為に待っていると、車が駐車場にバックして来て、突然大きな衝撃音が聞こえた。

緒形拳さんが車を駐車場の柱に大きくぶつけたのだ。

「おはようございます!」

僕と田中は何事も無かったかの様に元気な声で、車から降りて来る緒形さんを迎えた。

緒形さんと僕と田中はエレベーターに乗る。緒形さんは素知らぬ顔でエレベーターの天井を見上げて、薄笑いを浮かべている。

車をぶつけたのを僕と田中に見られて、気恥ずかしいのだろう。僕らも神妙な面持ちで緒形さんを控室に御案内した。

連続ドラマ「八月のラブソング」は低視聴率だった。1996年7月スタートだったので、その年の7/1付人事異動で、僕がドラマ班から外れる事は無かった。

その後も何故か、僕はドラマ班に居続けた。

最後にプロデュースした連続ドラマ「天国への階段」で加藤雅也さんと再会した。僕の事を憶えていてくれていた。

「何で『八月のラブソング』がDVD化されないんでしょうねぇ。あんな良いドラマなのに」

加藤雅也さんはそう言ってくれた。

「八月のラブソング」、プロデューサーとして、本当に未熟な僕が関わった連続ドラマ。

いろんなトラブルが現場ではあった。その度に僕の心臓はバクバクしていた。

そんな僕を支えて下さった中山和記プロデューサー、星田良子監督、有難うございました。

そして、脚本を書かれた黒土三男さんも先日鬼籍に入られた。

車をぶつけて、照れていて笑顔を見せて下さった緒形拳さんももうこの世にいない。

光陰矢の如し。
どこかのメディアで、「八月のラブソング」が放送される事を祈って。

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