ルートを超越する主人公/ギャルゲーと純粋経験(Ciel『After…』プレイ日記7-1)

 物語がいつまでも終わらない。そんな経験をしている。

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 哲学者「西田幾多郎」のものの考え方に「純粋経験」という言葉がある。主客未分・見る、見られる関係は実はあとの祭りで、私とあなた・私となにかの区別のない世界に真理を見る西田が格別に取り扱ったのがもはや語ることそのものがナンセンスという難解「純粋経験」なる体験である。

「哲学なんて」というと語弊があるが、哲学なんて、たいてい当たり前の日常に潜む躓きをいちいち本気で問題にする営みだ。「純粋経験」だって晦渋な概念だが定義からしてだれだって立ち得るとみて自然なものであろう。だからといってギャルゲー論議に借り出すのも気が引けるところではあるが、いまはなんだって使いたい。私はいま・あるギャルゲーにて終わらない物語に引きずり込まれている。これって「純粋経験」になりませんか?


私の沼ゲー『After…』

 株式会社スペースプロジェクトのゲームブランドCielより2003年に発売されたPCアダルトゲーム『After…』。何の因果か私は20年の時を越え本作をプレイしその物語に囚われた。

 プレイヤーは主人公「高鷲祐一」となり三人のヒロインを攻略する。ノベルゲー形式で展開する本作は大きく二部構成となっていて、目当てのヒロインを攻略する第一部、主人公・祐一の死を越え真のエンディングを迎えるための試練の第二部というのがそのシナリオだ。

 ゲームだからエンディングがある。ノベルゲーだから読み終えたらとうぜん幕が下りる。でも私の心は『After…』から離れなかった。頭を抱えながら、気持ちを整理しながら、時間をかけてくり返しプレイしている。

 なぜだろう。どうしてこのゲームは終わらないのだろう。


『After…』=クソゲーという仮説

 この仮説、証明は容易である。私が最も好きなヒロイン・祐一の実妹「高鷲渚」ルートを見れば一目瞭然。物語のラストを飾るスチルに祐一の姿はありませんね。以上。補足。祐一は友人の体に憑依し無事公の許しを得て実妹と結ばれたのだった。アウト寄りのアウトっしょ。

 反証。友人の幼馴染「喜志陽子」ルート。なんとこちらにもラストに祐一の姿はない。祐一は友人と、そして一度は恋仲となったその幼馴染のために身を引きこの世を去る。ハピエンかこれ? それはともかくいい話だったからクソゲー認定には疑問符。だが渚ルートのクソゲーっぷりに異論はあるまい。渚は推せるが渚ルートは推せない。これは譲れない。過激派実妹こじらせ民としてこれは声を大にして言いたい。『After…』渚ルートはクソシナリオだ。

 興奮してしまった。失礼。あらためて。『After…』渚ルートはクソシナリオ・ゆえに私はこのゲームを消化不良。そういうことだ。はいはいそれだけですよ。要は駄々こねてるだけ。え? ファンディスクでもやってろって? お前もやってからもういっぺん言ってみろ。


円環を成すオタクの足取り

 何度も失礼。じゃあまあそうだとしよう。させてくれ。そうだとして私はどうすればいいのか? いい加減『After…』こじらせ卒業したいんだが。せめて「あー『After…』ねーシナリオは納得いかなかったけど渚可愛いよね」って言えるおだやかオタクに落ち着きたいんだが。

 そんなふうにこじこじにこじらせながら気もそぞろにもそもそと『After…』を起動。やり残している香奈美ルート第二部に進むことにする。全部やってから語れ? わかる。

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 祐一(私)は数奇な運命を辿って来た。三人のヒロインが登場する本作。実妹の渚、友達の幼馴染の陽子、そして祐一の幼馴染である香奈美。パッケージから絵の供給量から何を見てもあきらかに正ヒロインの香奈美だが、奇しくも最後に攻略することとなる。


①渚ルート(PS2移植版)

②渚・ファンディスク(以下、PC版)

③香奈美ルート第一部

④渚ルート第二部

⑤陽子ルート
 
 
 ①〜⑤にかけ数えてもきりがない程度に私の心は折れているがこのゲームにハマってから一番の深手は③の終盤。第二部にさしかかるところでプレイヤーの脳をバグらせる第二部OP映像にあった。一服の清涼剤として陽子ルートに逃げ込んだのもさもありなん。ともかく、私と祐一は渚・陽子ルートで存分に『After…』の世界に浸ってようやく「正史」といえるメインヒロインそのルートに足を運んだのである。


「まっとうにしんどい」メインルート

 くり返しになるが本作の物語の核心は第二部にある。冬山の穂高登頂という悲願を達成したその足で悲劇に見舞われ帰らぬ人となる祐一。魂だけの存在となった彼は友人・「我孫子慶生」(渚ルート)や「滝谷紘太郎」(陽子ルート)の肉体に憑依し、それぞれのヒロインと死の先にある真の幸せを掴むのである。なおいずれも解釈ハピエンと私が呼称する「君がそれを幸せだと言うなら僕もそうあろう」みたいなパワー系エンディングであった。

 さてメインヒロイン・汐宮香奈美。彼女のルートで私が憑依することになるのは友人ではなく、第三者「学文路聡」(かむろさとし)のそれである。この学文路という男は無謀にも冬穂高単独行を敢行し遭難。結果的に祐一がその身を呈して命を救った、祐一の死を決定づけた男だと言っていい。数十メートル先すら見えない吹雪のなか危険を顧みず命がけの救助に挑み、祐一は帰らぬ人となったのだった。

 大切な人が待つ己の命を軽んじ、友人すら危険にさらしたのは祐一自身だ。祐一にもその周囲にも学文路を恨む道理はない。ないのだが、恨むほかまたない。学文路の肉体に憑依することで、祐一は学文路として、自らの死に苦しむ旧知の人々の姿を見せつけられ、その憎しみを向けられることになる。ということで意図せず渚ルートでずっと埋められなかったぎゃん泣き渚スチルを回収。

スクリーンショット (2338)

 悲嘆にくれる渚を前に私の目は光を失う。祐一もまた、渚をはじめとした、かけがえのない恋人を、兄を、友を亡くした登場人物たちの憎しみにあてられ「俺はここにいる」その言葉が出ない。ただ学文路として罵倒されるがまま立ち尽くす祐一。なんの冗談だよ。本気で嗚咽する私。

 ……ほんの、ほんの数日前まで恋人で、妹で、友人だった者たちの当て所のない怒りを「実質の加害者・学文路」として一身に受ける祐一。彼はその責めを他人事として聞き流すことができない。「返してよ。お兄ちゃん返してよ」ごめんな渚。こんなお兄ちゃんで、お前を悲しませるようなお兄ちゃんでごめん。表向きは学文路への憎しみという形。だけど自分が犯した罪として、祐一には残された人々の苦しみを引き受けることしかできない。

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 香奈美ルートはストレートに鬱い。というかすでに他ルートで『After…』を満喫しているからこそ祐一こと私にこの直球な演出は刺さること刺さること。他ルートからなにから祐一はいつだって辛そうで、気の毒だ。小学生並みの感想。死んでるんだから当たり前か。え? ああ、こういうのを鬱ゲーっていうんですかそうですか……


鬱ゲーがもたらす「純粋経験」

 以前、ギャルゲー分人論を提案した。「分人」はとても理性的な概念だ。ギャルゲーのプレイ体験を振り返るのに有用だがまさにプレイしているそのとき・そのものは描写できない。

『After…』のなかの高鷲祐一はひとりのキャラクターであり、設定上、三つのルートに「分人」化する可能性を秘めたもの、である。問題は三つのルートをプレイし横断する祐一=私はいったい何者か、ということである。香奈美ルートで、渚の慟哭を受ける祐一は表向き「香奈美ルートの祐一」だがプレイヤーの私は「この祐一」ではない。渚ルートを経てこその悔恨が私にはあるわけで、私はいつしか三つのルートを横断する新たな「高鷲祐一」に成った、創り上げたと言っていい。

 それは、渚を守り、陽子を愛し、香奈美と向き合う「高鷲祐一」であり、渚を、陽子を、香奈美を選ぶ可能性のある(分人としての)祐一ではなく本当に三人とも選んだ「高鷲祐一」である。そんな祐一は『After…』のどこにも登場しないから存在しない。でもたしかにそんな「高鷲祐一」を「生きた」。これを「純粋経験」と言わずしてなんという。

『After…』で私がこの境地に至る要因として「鬱」要素は機能した。認めたくないが苦しむ祐一とヒロインの姿がもたらす「もうあんな顔を見たくない」という感情はルートを変えてさえ「私=祐一」に常にわだかまり続け、皮肉にもルートを越える架け橋となった。不満、不服、負の感情が「私=高鷲祐一」の原点となり、私を『After…』にのめり込ませたとするならば本当に皮肉なことだ。

 鬱展開が生み出した「私=高鷲祐一」という「純粋経験」は、ゲーム上どこにも描かれていない、私だけの生であり、ゆえに終わらない物語と化したのだと言える。この物語を終わらせることができるのは私だけだ。

 香奈美ルートを進めよう。

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