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ある新聞記者の歩み 12  政治部に移って、人間くさい政治家とのつきあいを楽しむ日々

元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、“本拠地”経済部を離れて政治部に移ります。1977(昭和52)年、35歳の頃でした。通産省とか電力会社、総合商社、大手鉄鋼会社などを相手に取材してきた佐々木さんにとって、政治の現場で政治家という人間に当たるのはむしろおもしろいと感じ、自分に合っていたと言います。
昨今、記者と政治家の距離の取り方が問題視されたりしていますが、マスメディア、なかでも新聞の権威が輝いていた時代に、取材の現場はどんなだったのか、それをビビッドに率直に伝える佐々木さんの証言は貴重です。(聞き手-校條諭・メディア研究者)

◇生臭い政治の現場を知る必要から始まった“政経交流”

Q.いよいよ政治部ですね。

1977(昭和52)年の1月に政治部に配属になりました。大手町の経団連会館3階の重工クラブから永田町への“転勤”でした。前年末に“保守傍流リベラル派”といわれた三木内閣が総辞職して、“保守本流”の福田赳夫内閣が成立(1976年12月24日)した直後です。

個人的なことで言えばその前年の10月に結婚したばかり。女房はカトリック系の私立の中高一貫校で英語の先生をやっていて、真面目一本ヤリ、昼夜逆転生活のブンヤと結婚してビックリしたようです(笑)。マーそれでも経済部は政治部に較べて、そんなに忙しくはなかったですが、政治部は本当に“夜討ち・朝駆け”の生活でしたからそのペースに合わせるのが大変だったようです。

なぜ政治部に行ったかということですが、当時、毎日新聞編集局には政経交流という方針がありました。「経済部は大所高所の高みの見物で、とってつけたような経済理論でバンバン書いてるけど、最終的な結論を出す政治の現場って理論で決まるような世界じゃない。政治家一人一人選挙区の事情、その集団の自民党内の派閥の力学、野党との関係、中央と地方の関係など生臭い現場の力学の中で政策が決定されている。これを知らなきゃいけないぞ」というのがひとつです。

もうひとつは、いろんなテーマで社内的な紙面調整が大切になってくるんですね。社会保障政策だとか、農業政策、特に減反政策、地方への交付税予算だとか、代議士の当落にかなり関係するわけで、結果として政府の政策が「政高官低」、つまり政治が強くなりつつある時代でした。だからどうしても政治部からの情報だとか、パイプ役というのが必要だということになってきたと思います。政治部と経済部の記者を交流させ、パイプの流れを良くしようという事だったのではないですかね。

今でも思い出すのは、政治部から帰ってきて大蔵省担当当時、いまの「マイナンバーカード」を先取りした「グリーンカード」案が大蔵省から提案され、富裕層の株式所得などを税制面で課税・総合的に捕捉しようとしたんです。法案提出寸前のいいところまで行ったんですが自民党につぶされます。当時の海軍主計学校出身、レイテ海戦生き残りのF主税局長が「本当に政治家ってしょうがないねー、将来の国のことを考えているんかなー」と唇をかんで、天を仰いでいたことを思い出します。

この辺のところを先取りしていたのは読売新聞で、経済部記者は例えば石油危機の際の電力料金の値上げの時など、自民党の政調会幹部のところに夜回りをして数字を探っていたようですね。毎日の経済部にはそういう意識はなかったな―。

◇“2年契約”のはずが水を得て政治部に4年在籍

ちょうどその頃、相前後して与野党逆転だとかロッキード事件だとかいろんな問題が起きて、政治が経済に介入する場面というのが多くなっていたということがあるんだと思います。また経済界も政治力を必要としていた、グローバル化する経済の中で発展途上国への経済援助など、経済界が請け負うわけですから、いわば“政官財複合体”というものが出来ていたんだと思います。

Q.政治部に行かれたのは、特に希望してではなく、指名されたということですか?

ぼく自身は政治部でやってみたいと思ってましたよ。ぼくで2代目だったか3代目だったか・・・。ぼくの前は一年先輩の小邦宏治さんという記者が行ってたんですよ。経済部から行くのはだいたい2年契約なんです。契約と言ってますが正確には慣習ですが。ぼくの場合は4年いました。その後ないんじゃないかなー。これはかなり異例なことなんですね。

ぼくわりと調子がいいから、政治家とつき合うのはきらいじゃなかったんです。一橋とか東大出た経済部の真面目な記者は、官僚と一緒になって、政治家なんか政策を曲げてけしからんとか言ってバカにしてるわけです。こっちはそんなこと気にしないから、おもしろがってつき合うという気持ちがありました。でも逆に考えてみれば経済部では、あまり必要とされていなかったのかも(笑)

◇「経済部なら、黙ってすわってれば部長になれるぞ」

最後の四年目の頃は、「おまえ政治部に残るのか、経済部にもどるのか、どうするんだ?」と当時の経済部長から呼び出されたことがありました。ぼくは残ってもいいかなあ―と一瞬思ってました。ところが、政治部は僕と同期の40年入社(昭和40年、1965年)の人が6,7人いました。のちに外信部長から社長になった、横綱審議会の会長にもなった北村正任君、政治部長からRKB毎日放送の社長になった石上大和君とか、間違いなく政治部長になれる人が3人くらいいたんです。だから、ぼくが残ったとしてもとてもじゃないけど政治部長なんかなれないなと思いました。

当時、(経済部の時の上司の)歌川令三さんに相談したことがありました。そうしたら「帰ってこい、政治部にいても(部長になれる)目は無いぞ」と言われました。不思議なことに経済部は昭和40年入社(1965年)がぼく以外誰もいなかったのです。入社試験の時は東京オリンピックの時で、百人近く採用したんですね。支局から本社に上がる際、優秀なやつはみんな政治部、社会部などに取られちゃったんですね。それはやっぱり、経済部と政治部の社内的な政治力の違いなんだな。人材については水面下の争奪戦ですから。経済部はあまり社内政治力が無いですからねえ。

その時、歌川さんが言ったのは「40年組はオマエひとりなんだから、黙って坐ってれば部長になるぞ」って(笑)まあ、そのとおりになりましたが(笑)・・・。めぐりあわせです。でもこんな事、話すと出世主義者のガリガリと思われていやだな―(笑)

Q.では、政治部に配属された頃まで時間を巻き戻して、政治部でのお仕事を具体的に伺います。

20200527佐々木宏人氏

◇35歳 最年長“番記者”になる

政治部の時代というのはすごくおもしろかったです。
とにかく、政治部っていうのは一種の徒弟制度のようなところです。スタートは番記者です。支局から上がってきた各社の政治部の若い記者が、だれでも最初に通るポジションです。少なくとも日本の政治、経済、外交あらゆる問題が、最終的には総理官邸に集中するわけで、本当に勉強になります。そこで1年程度やって各クラブに行くわけです。政治記者の登竜門といってもよかったですね。
ぼくは当時35歳位でしたから、各社の中で最年長でした。特に、日経は、以前“少年探偵団”と呼ばれていたなんて話をしたように、支局まわりがなくて入社後、直接政治部に配属になるので、いちばん若かったですね。安全保障担当していた伊奈さんなんて、大学を出たばかりで一回り違いました。

Q.伊奈さんというのは伊奈久喜さんのことですね?2016年に胃がんのためなんと62歳で亡くなったのですね。何か印象に残っていますか?

背の低い、小太りで色の白い、でも福田赳夫首相に臆せず質問をしていましたね。ぼくが経済部から頼まれて、税制の問題かなんかで総理に質問すると「佐々木さん、今の総理の発言、解説してよ、経済問題は佐々木さん専門でしょ」なんて調子のいいこと言いながら、メモ帳を出していたことを思い出します。後年、安全保障問題について署名入りで格調高い記事を書いているのを見て、いい記者になったな、あの伊奈ちゃんが―、と思いました。残念だな―。

それと今テレビで売れっ子のコメンテーター田崎史郎さんも時事通信で、一時期、福田番をしていたと思いますよ。ウイキペディアで見ると大平番となっているけど、一緒にいたように思うな。彼は学生時代、成田空港建設反対闘争、いわゆる三里塚闘争で逮捕され13日間も拘留されていたんですよね、そういう人が権力のトップの間近かにいたんだから----。公安も困っただろうな―。でもその彼が今や政権寄りのコメンテーターとして有名で、安倍政権時代は首相と一緒に寿司会食をしたというんで“スシロー”なんてネットで冷やかされていたんだから面白いよねー(笑)。

そうか思い出しました。当時番記者仲間だった共同通信の福山正喜さんはその後、社長(2013~18年)になりましたね。産経は後に社長(2011~17年)になる熊坂隆光記者がいましたね。その後、中曽根派担当で一緒で仲良くしました。
政治部の記者はその後、社内でトップに上り詰める人が多いですね、各社とも。やはり菅総理ではないですが「総合的・俯瞰的」にモノを見る目が自然と養われ、社内の派閥抗争も自民党のそれに比べれば赤子の手をひねるようなもんだったかもしれません(笑)。

◇番小屋で総理を待ち構え、2階執務室前までついていく

ぼくといっしょに番記者をしていた毎日の記者は、支局から上がってきた若いⅠ記者と、後にセブン&アイ・ホールディングスの常務になる稲岡稔さんの3人だったように思います。3人でローテーション組んでいたように思います。

昔の官邸の入口のすぐ脇に、通称番小屋というのがありました。10畳もないくらいの広さの部屋でソファーが2つくらい置いてありました。そこに各社のみんなが詰めているわけです。担当ではないときには、番記者が持つことになっている内閣府、官房副長官などのところに行くわけです。時間があれば首相官邸前にある「国会記者会館」の毎日新聞の部屋に行って先輩記者の話を聞いたりしていました。思い出しましたがその一階に喫茶店があって、そこに当時はやりのコンピューター・ゲームの走りの“インベーダーゲーム”機があってよく遊びましたね(笑)。

番記者は官邸記者クラブに属しているわけですが、このクラブには官邸キャップの下に名簿上は数十人いたと思います。総理会見には経済、社会部などからも出ることがありますから、そのくらいの数になりますね。常駐記者は10人くらいはいたんではないでしょうか。官邸内にチョットした学校の体育館並のデカいスペースの「官邸記者クラブ」の看板を掲げた部屋がありました。

このほかに自民党担当の「平河クラブ」、野党担当の「野党クラブ」があって、これに外務省担当の「霞クラブ」というのが、さしずめ四大クラブという感じでした。他には厚生省、労働省、自治省などのクラブが政治部の担当でした。ただ政治部の主流はこの四大クラブで、ここのキャップを幾つかやっていなくては部長にはなれない、という暗黙の了解があったように思います。「平河クラブ」には、党内の各派閥、当時は福田派、大平派、田中派、中曽根派、三木派などの各派閥担当がいました。いわゆる派閥記者ですね。やはり福田、大平、田中派担当が幅をきかせていましたね。

番記者を上がると、こういったクラブに所属するわけです。

番記者というのは番小屋に詰めてて、黒板にその日の総理の概略の日程が張り出されのを見て、朝8時頃に総理が車から降りて官邸入りすれば、二階の執務室の前まで付いて行くわけです。テレビ各社も入れて十数人で取り囲んで、組閣の時、新内閣の閣僚がひな壇のように並んで写真を撮る、議員あこがれの階段を上がるわけです。なにせ数分、二三分位だったでしょうから、質問内容を事前に各社で打ち合わせていたと思いますが、「今日のご日程に〇〇さんに会われるというのが入っていますが何のお話するのですか?」とかいうように質問したりします。あるいは他社の特ダネ「今朝の〇〇新聞の記事はどうなんですか?」なんて聞くわけです。

今だったらさしづめ連日オリンピックとコロナ対策のことばかりでしょうね。でもソーシャルディスタンスで、そばに行けませんね(笑)。

同じことばかり毎日聞いていると、段々と発言のニュアンスが違ってくることがあるんですよね。その変化で一面のトップに行ったりすることがあるわけで、当方が原稿を書くわけではありませんが、官邸キャップが総合的に情報をまとめて原稿にまとめるわけですが、一問一答が間違っていたら大騒ぎになります。それこそ国会で取り上げられる騒ぎになる可能性もありますから、気は抜けません。

◇番記者は鵜飼の鵜

Q.そもそも番記者はどうして若い人がやるのですか?ベテラン記者の方がいいのではないかという気もするのですが・・・。

番記者というのは鵜飼の鵜みたいなもので、総理とのやりとりを正確に官邸キャップに伝えるという役割なのです。総理が2階の執務室に上がるときにぶらさがって、つまり総理のわきにぴったり付いて、Q&Aを一言一句記録します。そのときの口調までわかるようにします。メモには「ここで少し沈黙」なんて書き方ですね。質問については、しばしば官邸キャップからこれについて聞いてくれと要請されます。政局の話から、災害、大事件などの森羅万象の話の感想、その対策などについて聞くわけです。今ならオリンピックとコロナばかりでしょうが‐‐‐。

最近の話題を例にして架空の話で言うと、「今日の黒川検事長の処分の話はどうだったのですか?」と質問したとします。すると敵もさるもので「まあ、あれは訓告でしょうがないよ。君たちだって記者クラブでマージャンやってんだろ」なんて答えが返ってきたりします(笑)。

たとえば予算について聞いたあとは、大蔵省の記者クラブ「財研」に電話して、総理がこう言っていたと伝えます。同時に毎日新聞の記録簿に書き込みます。それが政治部 平河クラブ(自民党担当)と共有します。電話だったか、FAXだったか・・・。

ですからベテラン記者の方がいいとは言えません。いわば専門家ではない市民目線の駆け出し記者が総理大臣に直接声をぶつけて、その答えの一言一句を記録するという役割であるといえます。ベテラン記者のキャップなどは、別途、総理とのキャプ懇などで独自に当たりますし、それまで親しくしていた総理の属していた派閥担当だった記者は、執務室で総理と二人だけでサシで会うこともあったようです。私は残念ながら総理執務室の扉の前止まりでした(笑)

◇聞き終わったら「合わせ、合わせ」で各社共有

玄関から執務室までの総理の話が終わったあと、「合わせ、合わせ」って言ったかなあ・・・それをやりました。なにしろ十何社かいるので、すぐ脇で聞いている人以外は聞こえないこともあるわけです。そういう記者は不利益になるので、執務室に入るまでの発言というのは基本的に各社共有のものだという認識でした。

Q.すぐ脇で質問する人は交代ですか?

いや、幹事がやってたかなあー。テーマによって手を上げたケースもあるだろうし、きょうはオレ、キャップからいわれているから、なんていうのもあったかもしれません。常駐の番記者は、まだテレビ各社には政治部がない時代で、新聞主流の時代でしたね。10社程度だったか。朝毎読(ちょうまいよみ)、日経、時事、共同、産経、東京・・・。

Q.NHKはどうなんですか?あるいは民放は?

怒られちゃうなNHKに(笑)。もちろんいましたよ、大部隊でした。何たって“皆様のNHK”ですから、官邸も大事にしてました。民放はほとんど報道部所属で、まだ政治部はなかったんじゃなかったかなあ・・・。官邸、自民党クラブにTBS、日テレ、テレ朝、フジなどが、一人くらいずつではなかったかなー。あと総理の出身の地元紙の記者がいたかもしれません。

結局合わせて10人くらいだったか。それがみんなで改築前の、昔の首相官邸の赤絨毯の階段を総理を囲んでドタドタ上がっていくわけです。その間にQ&Aをやります。で、終わると「合わせ、合わせ」ということになります。その合わせが終わると、各社官邸キャップに報告します。各社の机の上に番日誌というのがあって、そこに書き込みます。

Q.それは手書きですか?

もちろん、もちろん(^^)。手書きでQ&Aを逐一全部書きます。まだワープロもない時代でしたから。

Q.そこからどこまで記事に書くかは各社の判断ということですか。

 そうですね。基本的には番記者が書くのは“番日誌”だけだったと思います
総理とのほとんどのやり取りは、キャップの書くまとめ原稿の中に埋め込まれていましたね。でも使われていると嬉しかったですね。

◇首相の追っかけ係は通信社

総理が外に出かけるときは、時事通信と共同通信がハイヤーを1台総理の後ろに付けて、行く場所まで行きます。とはいえ、夜の日程については、原則としてプライベートということで追いかけることはなかったんじゃないかな。ただ自宅には通称“番小屋”という二社(共同、時事)の記者が常駐できるボックスのようなものがあって、帰宅を確認して各社に配信して毎日なら「首相日々」にデスクが帰宅時間を入れていたように思います。共同・時事の担当記者は大変だったと思いますよ。

帰宅時に玄関先で総理がその夜に会食した、例えば当時の斎藤英四郎経団連会長と会食していたとすれば「斎藤会長と日米貿易摩擦のお話をされましたか?」などという質問すると、「ウン、マーそう簡単なことにじゃないよ」なんて答えが返ってきたりします。そういうQ&Aをそのまま記録して報告する役割を負っています。その配信記事が各社に流されます。そのQ&Aがものすごく必要なんです。やり取りを経済部の通産省担当、自民党キャップなどに連絡します。そうすると担当記者は「日米経済摩擦の急展開の解決はない」と判断して、自民党の幹部や、通産省の幹部などに当たるわけです。幹部の確認を取って「日米貿易摩擦交渉難航」というような一面原稿になるわけです。

Q.総理の外出時は共同・時事という通信社におまかせというのはいったいどういう意味ですか?

これは、歴史的ないきさつがあって、戦後、各社が全部、総理の車を社旗をなびかせて外車で追っかけたんです。大名行列ですよね。ところが、昭和20年代末か、30年代初めなのか、交通事情からそういうやり方はカンベンしてくれということになったのですね。おそらく警察からから官邸記者クラブに申し入れがあったんだと思います。そういういきさつで、総理外出時取材車両は1台しかつけない―ということで代表取材になったと聞きました。実際、事故を起こしたこともあるようなんです。なにしろ十何台のハイヤーが都大路をカーチェイスまがいのことをやるんですから、信号を渡る途中で赤信号に変わるなんてことも当然起きますよね。でも、引き離されるわけにもいかないということで、ダーッと行っちゃうわけです。吉田首相の時なんか、官邸から大磯の私邸まで往復その調子でいかれたらたまりませんよね。

Q.その場合、共同・時事がそれぞれ1台でなく、いっしょに1台に乗ってということですか?

そうです。ついていくのは1台だけなので。とにかく過当競争から大幅削減になりました。もうおそらくそうなってから当時で30年くらいたっていたと思います。でも大きな公式行事、たとえば経団連総会に行き総理が挨拶するなんて時には、各社とも先回りして現地で総理を待って挨拶をメモします。

◇まんじゅう的魅力かドーナツ的人気か 深くつきあわないとわからない

Q.首相から、これはオフレコだけどというような話はよくあったのですか?

それは、総理が暇なときがあって閣議室に記者を呼び込むときがあります。福田さんは我々のことを番チャンと呼んでいて「番チャン、番ちゃん、ちょっと来いよ」と呼び込むんです。

Q.番チャンというのは番記者のことですか?

そうです。福田さんにしてみれば、番記者は孫みたいなもんです。「最近どうかね?」とかね。ぼくは福田さんという人はけっこう好きな人でしたよ。

Q.福田さん、なんとなくとっつきの悪そうなイメージがありますが・・・。

対外的には大蔵官僚上がりで、顏は老人斑だらけで、人気はあまりなかったように思います。でも懐に飛び込むと親しみやすかったですね。

ぼくは当時、政治家の資質を「アンパン」と「ドーナツ」というたとえをしたことがあります。あとで岩見隆夫さん(注:毎日新聞で「近聞遠見」というコラムを長年書いた政治記者)がコラムで使ったことがありますが・・・。つまり、アンパンいうのは魅力が中につまっているわけです。魅力というのはもちろん中身の“あんこ”です。人間性とかおもしろさが外に出ていかないんですよ。でも親しくするとその味が分かるんですね。ところがドーナツというのは真ん中が抜けています。でも、外に行くとものすごく人気があるんですが、身近な官僚、同僚政治家などに人気がない。

ぼくは当時、この例えで都知事の美濃部さんと福田さんを比較した話を岩見さんにしたのですが、それはおもしろいと言われました。美濃部さんは、都庁内部ではものすごく評判悪いんです。でも街に出るとすごい人気で、女性からはキャー、キャー言われ、選挙には圧倒的に強いんですね。
だけど、福田さんは身近な官僚にものすごく受けがいいんです。元大蔵省主計局長で、パッパパッパ仕切るから。でも、外では「なんだあんな官僚ジジイ」みたいに受け取られたりしました。そばにいて話を聞いてるとすごく人情味があっていい人なんですよ。

そういう意味では、政治家っていうのは深くつきあわないとわからないところがあります。

◇ナベツネさんはすごい

だから読売新聞グループの主筆・渡辺恒雄(95)っていう人はすごいなと思うんですけどね。ぼくなんか中曽根さんなんていうのはドーナツ型政治家かと思ってました。外に出ると絶対的な人気がありましたね。でも中央官庁などでは「あのカッコつけが!」と批判されていました。私も番記者のあと、中曽根派担当を長くやりましたが、ほれ込むという対象にはなかなかなりませんでした。中曽根内閣のやった国鉄の民営化などの行政改革など、戦後の親方日の丸の経済秩序から世界に対応する政策を実行するわけですから、あとから考えるとスゴイ功績を残した政治家と思うんです。

朝駆けをして車に箱乗りをするときも、米軍のFEN放送を聞いていましたからね。本当によく勉強してました。政治部にいた当時、ナベツネさんは若い頃から中曽根さんの良さをかっちりつかんでいたんでしょうね。なにしろ中曽根さんを囲む読書会まで主催、指導までするわけですから。そのへんの食い込み方がまるで違いますね。

ナベツネさんの初めて書いた本に『派閥-保守党の解剖』(1958年弘文堂刊)、『政治の密室-総理大臣への道』(1966年雪華社刊)というのがあります。これはかれが現役の記者当時書いた本ですが、ほんとうにすごい本です。政治部時代、この本を読んで、「政治記者はここまでやるのか」と舌を巻きました。

ナベツネさんは、自民党の党人派で幹事長・副総裁まで勤めた大野伴睦の指南役になりました。大野伴睦は「政治は義理と人情だ」、「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」という発言で有名になったひとです。ナベツネさんは伴睦の寝室まで入ることを許されて、大野派から出す閣僚人事まで決めるんですから。東大新人会の戦後共産党にも入党したことのあるナベツネさんには、全幅の信頼を置いていたんですね。

新幹線曲げて岐阜羽島駅を作り、駅前に夫妻の銅像つくったりというようなことを平気でやる政治家なんだけど、ナベツネさんはその大野伴睦を、言い方は悪いけど手玉に取るんですね。この本を読んで、ぼくなんか政治記者、いや新聞記者としては、及びもしない浅いんだとしみじみ思いましたね。ナベツネさんは色々批判されるけど、政治記者としては端倪すべからざる人物と思っています。

ナベツネさんはドーナッツ型、アンパン型の両方の政治家と、深い付き合いが出来た政治記者ではなかったかと思います。それと仁義に厚いというか、ジャーナリズムの原則をキチンと持っている人と思います。例えば西山事件の東京地裁の裁判(1973年2月)で、ライバル記者だった被告の西山太吉元毎日新聞政治部記者側の証人として立って、「報道の自由」「知る権利」の擁護という観点から西山記者へのエールを送っています。中々できることではないと思います。

中曽根さんは東大時代にカントからヘーゲルまでのすさまじい読書をしています。その流れでナベツネさんとは肝胆相照らすという関係だったのでしょうね。読書会なんかやったりして。中曽根さんは珍しく、ドーナッツ型から、アンパン型に変化した政治家かもしれませんね。

いずれにせよ、ドーナツ型とアンパン型という目で政治家を見ると面白いですよ。安倍さんは小型アンパンかなあ・・・、菅さんは少なくと大衆的人気という点ではドーナッツ型ではないなー。

◇担当している派閥の親分がエラくなれば記者も出世する

Q.福田さんと番記者との関係ですが、福田さんからも記者の名前を覚えられているもんですか?

いやあ、ぼくなんかは覚えてもらった記憶はないけど、やっぱり共同・時事は覚えられていたかもしれません。ほぼ24時間ついているわけなので。でも、向こうの方も、支局から上リたての若い記者というのはわかってて、なにかあれば官邸キャップに言えばいつでもどうにかなるという面はあったでしょうね。

Q.そういう事例はあったのですか?

いやなこと聞くやつはいるよね。なんとなく秘書官から、官邸キャップや自民党担当平河キャップなんかに伝わるんです。総理から直接でなくて、秘書官から「あんたんとこの記者ってちょっとどうなの?」みたいな感じです。

ぼくも中曽根派担当のとき、派閥を離脱していた実力議員の山中貞則さん(鹿児島県出身)が復帰してきたホテルでの記者会見で「薩摩男児は一度決めたらスジを通すんではないですか?」ワインを大分飲んでいい気分だったんでしょう、山中さんにからんで、派閥の筆頭秘書から部長に抗議が来たことがあります(笑)。もちろん、それを受けての配置換えはよほどのことでなければ、なかったと思います。基本的にはなんとなく本人に伝わりますよねやっぱり。自主規制しますよ。

Q.今は、毎日・朝日・東京と読売・産経の間で、政権に対する姿勢ないし距離感の差があるように見えますが、その点はどうだったのですか?

今とはまったく違いましたね。紙面の差はそんなになかったように思います。むしろ取材先が見てたのは部数じゃなかったのかなあ。つまり影響力があるかないかという点です。そういう意味では読売、朝日というのは少し抜け出てたかもしれません。あとNHKですね。でも数字が万事の経済界ほど露骨ではなかったと思いますが‐‐‐。

ぼくがいる頃に、毎日が経営危機になったわけです。西山事件(1972年)以降、毎日のステータスはものすごく落ちてしまいました。でも、取材相手側は、そんなこと露骨には示さないですが、やっぱりなんとなくありましたね。たとえば、朝日と読売を招いてこっちをはずし始めるとかがありました。昔だったら朝毎読を必ず呼んでましたからね。

いわゆる懇談というのがあって、これはオフレコベースでやるのですが、さらにその上になると、各社のキャップを呼んでやるキャプ懇というのもあるし、あとは、官邸の主である総理大臣が代わるとキャップも代わります。福田さんの前は三木さんでしたので、福田さんが総理になったときは、自民党三木派担当だったキャップから、福田派担当の記者がキャップになるというわけです。
つまり、自分の担当している派閥の親分がエラクなれば自分も出世するということになるんです(笑)。

◇場違いな芸能人パーティに呼ばれたら森元首相が・・・

Q.その場合番記者は呼ばれないんですか?

それは呼ばれません。我々は手足みたいなもんだから。官邸クラブ詰めには、取材の割り振りがあります。官房長官番、事務、政務の副長官番、総理府担当・・・というように割り振ります。
官房長官番は2人いたかなあ。このときの官房長官は園田直さん、次いで安倍晋太郎さんでした。安倍さんというのは毎日のOBだったからわりとよかったでしょうけど、番記者の僕は副官房長官番で、森喜朗さんが副長官でした。「もりきろう」と呼んでましたが、おもしろい人でした。わきが甘くて好きな政治家の一人でした。

あるとき、森さんから番記者のうち毎日、朝日、読売、NHKなどの4人か5人呼んで、「きょうはおもしろいところに行こう」というので、渡辺プロダクションの主催だったと思いますが、ハナ肇の自宅?に行ったのです。確か誕生パーティでした。そうしたらわれわれがブラウン管でしかお目にかかったっことのない、梓みちよ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエだとか当時の有名な芸能人などが、絨毯に座り込んでゴロゴロいるんです。われわれなんか、そんなところに知り合いなんかいないじゃないですか。テレビ会社のプロデューサーだとかディレクターだとかもわんさかいました。双子の歌手のザ・ピーナッツの一人を、大分酔ったプロデューサーが口説いているの姿を憶えています。

森さんは、そういう中に入って、女性タレントのMを口説いてましたよ。それで直通の電話番号教えたりとかしてました。当時ゴシップ雑誌で有名だった『噂の真相』にそのタレントとの関係が、チラッと出たことがありましたね。彼が総理になったあとか前かは忘れましたが・・・。われわれ番記者は部屋の隅っこで膝小僧をかかえて見てました。要するに場違いなところにいる感じでした。

なるほど、こういう風にして人脈作りをやるのかと、感心した覚えがあります。森さんにしてみれば、自分の人脈の広さを番記者に見せつけたかったんでしょうね。でも軽いですよね、そういう無防備なところが「日本は神の国」発言で総理をわずか7か月で辞任、つい最近、オリンピック組織委員会会長をジェンダー風潮を無視した発言で辞任する―というところに出ていると思います。