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ある新聞記者の歩み 11 テーマはトマトから鉄鋼まで 自由な社風のもとでのびのび取材

元毎日新聞記者佐々木宏人さんは、入社後約5年間水戸支局に勤め、そのあと28歳で経済部に配属となりました。政治部に移るのが35歳のときですが、その間8ヶ月ほど語学留学で英国に行ったので、経済部生活は実質6年強ということになります。佐々木さんの新聞記者としての骨格がこの6年間でできた印象を持ちます。後年また経済部に戻ってきますが、今回は第1次経済部時代のしめくくりです。(聞き手-校條諭・メディア研究者)

経済部時代(7)

◆「冬のトマトは石油のかたまり」

Q.ところで、『当世物価百態』(毎日新聞経済部編、1976年(昭和51年)1月20日発行)という本が、佐々木さんが英国留学に行く同じ頃に出ていますね。佐々木さんが書かれたと以前伺ったトマトの話がトップに載っていて、たいへんおもしろかったです。「冬のトマトは石油のかたまり」なんてのはいい表現ですよね。70の品目ごとに書かれているんですね。

トマトって調べてみたらおもしろかったんですよ。ほかにもいくつか書いていると思うんだけど、どれだったかなあ・・・。

これは当時の経済部長の西和夫さんが、ゴーサインを出した企画だったと思います。東大経済学部出身のシャープなセンスを持った人で、後に編集局長になります。第一次石油ショックがもたらした“狂乱物価”が落ち着いて、ようやく世界経済が景気回復への軌道に乗った時期、物価を鳥の目ではなく、虫の目でみてみようという発想でスタートした思います。

今この本を見ると「生鮮食品」にトマト、サンマ。「加工食品」にたくあん、インスタントラーメン。背広などの「衣料品」、ラジオ、大工の手間賃などの「家具、住居関係」など本当に雑多な商品が扱われていて驚きます。
今の各社の経済面を見ても、こういうセンスの企画はないように思いますね。今は生活家庭部の守備範囲になるんですかね。でも今読んでも面白い企画ですね。

Q.いまだったら書いた人の署名が入るからわかるんですけど、個人名は入ってないですね。

当時は記者名を入れていませんでしたね。だから記者個人がにキチンとスクラップしなくてはいけないんでしょうが‐‐‐、ズボラだからやっていなんだよね(笑)。この「トマト」の記事には思い出があって、フジテレビのアナウンサーで有名だった田丸美寿々さんと結婚した、商社問題に強かったフリー・ジャーナリストの美里泰伸さんが丸紅の広報室に行ったとき出会って、「佐々木さんが書いたトマトの原稿面白かった」とほめてくれたことを思い出します。(注:本稿末尾にトマトの項収録)

当世物価百態表紙

Q.経済部長の西和夫さんのお名前だけは代表として入っていますね。

西さんは最近亡くなりました。90歳くらいだったと思いますが、最期までしっかりなさってました。横浜にお住まいで、時々東京に出てこらてはご一緒に飲みました。でも彼は「佐々木君は会社を辞めてから活躍している。原稿も上手くなった」と、当方が2018年出版したノンフィクション「封印された殉教」(上下巻、フリープレス刊)などをほめてくれました。嬉しかったナ。出来たら現役の頃ほめてもらえればよかったんですが(笑)
この『当世物価百態』の各項目の最後に「格言」が出てるでしょ?

Q.出てますね。トマトのところは「どんな虫けらだって、踏みつけられりゃ、何を!というかっこうをするものだ セルバンテス」とあります。

こういうのを入れようっていうのは、ぼくが考えたんだと思うんだけど・・・。「馬鹿野郎、違うぞ」って言われるかもしれないけど、当時、なんかこういう格言使うのが好きだったんですよ。わざわざ「世界の名文句引用事典」(自由国民社刊)なんて本を買い込んで読んだりしてましたから。

ぼくは原稿あんまりうまくなかったんですが、認められたっていうのは、石油ショックのとき・・・いや、終わってからかなあ、あの前後に石油危機の検証みたいな原稿を書いたんですよ。4回か上中下だったか・・・。その原稿はすごく手法が新しかったのです。「情報」、「証言」、「検証」という項目を使って、こういう情報があります、たとえば「アラブの石油埋蔵量は40年と言われています」が、その「証言」はこうです。それを「検証」するとこうですという手法です。一回の連載に5本くらい「情報」、「証言」、「検証」を入れたかな。高度な分析原稿が下手だから苦し紛れに編み出した手法なんです。

担当デスクなんかに、「新しい手法だ。すごくおもしろい」って、ほめられた覚えがあります。それを読んだ週刊東洋経済に原稿書いてくれって言われたので、同じパターンではよくないと思って、普通の原稿で書いたら、その後注文が来なくなっちゃいました(笑)。

Q.でもその原稿は載ったのですか?

ボツにはならず、載るには載ったですけどね(笑)。東洋経済はそれ一回だけ!

◆部会では自由に発言 時には激論 

毎日の経済部は自由に書かせるというか、新しい角度で書かせることについては臆病ではなかったですね。おもしろいからやろうかって。

Q.『当世物価百態』の前書きには1975(昭和50)年7月から毎週4回、約4ヶ月連載されたとあるので、貿易記者クラブの頃ですか?

そうそう、商社担当の頃ですね。

当時、経済面に加えて新経面(新経済面)というのができて間がない頃でした。他社に先がけて実体経済っていうのは民間にありというので作られました。日経産業新聞なんかもそういう流れの中で登場したということだと思います。

Q.年表を見ると日経産業新聞、1973(昭和48)年創刊ですね。

なるほど、少し早いですね。新経面は、ぼくが経済部に来る前の年にできたと思います。

Q、経済部は部会なんかはどんな風にやっていたのですか。

経済部は官庁担当と民間経済担当が別々に部会をやってました。民間部会は、10時からだったかな。大手町ビルの自動車工業会の会議室を借りてやりました。そこでこの週のできごとだとか、企画記事などを出し合ってました。でも途中から工業会の会議室が使えなくなり、本社の会議室になった記憶があります。

Q.それは、記者クラブがあちこちにわかれているから、1箇所に集まってやるということですか?

そうです。

Q.パレスサイドビルの本社でやるっていう発想はないんですか?

やっぱり取材現場に近いからですね。経団連会館とか歩いて5分もかからないでしょ。

Q.パレスサイトビルには、経済部在籍中はあまり縁がなかったということですか?

いやそうではなく、原稿は所属のクラブから本社に送るわけで、その掲載の確認のためにほとんど毎日本社に上がって、刷り上がりを点検します。普通のサラリーマンと違って、朝は担当の記者クラブ、霞が関(官庁)、大手町界隈(民間)に“出勤”、夜遅く会社に上がるというパターンですね。

ただ月に1回の経済部の全体部会はありましたね。夜8時位からの開催ではなかったかな。パレスサイドビル4階の編集局の会議室でした。そのときに民間担当と官庁担当キャップが、来月はこうなりそうだとか話をして、部長が編集局の方針など、いろんなことを話したりしました。海外取材帰りの人からの土産の酒も入りますから、そこで大議論をしたりして、忖度なし、言いたいことはいいましたね。転勤などがある際は本人の挨拶と、出席者全員からのはなむけの言葉が述べられたりして、結構時間がかかって、終わるとビルの裏口に出ている屋台のラーメン屋で良く飲みました。

Q.部会で意見が分かれるようなテーマって、たとえばどんなことですか?

ぼくの時代は国債発行の限度額が確か30%を超えるか超えないかの議論があって、いかに政治からの圧力に歯止めをかけるかについて、大蔵省は財政健全化一本ヤリ、国債増発絶対反対。だからそういうことについての議論がありました。また当時の内閣は自民党リベラル派の三木内閣、東京には革新の美濃部知事、大阪は共産党推薦の黒田知事など革新自治体が続出する時代。談論風発、若い記者の意見を聞こうという感じが強かった気がします。

それから石油ショックのときも、部会にはキャップが上がって現状説明をして、こういう方向に行くというような話をしたはずです。それでぼくの「情報」と「証言」、「検証」みたいな、今までにない企画をやらせよう、という話になったんではないかと思いますよ。こういう議論を受けて経済部長は、編集局長が開く局長会で局次長以下の編集幹部に説明、了解を受けていたと思います。

◆社説は特に意識になし

Q.そういう経済部での議論と論説室の議論とはどういう風に関わるんですか?

関わりはまったくないといっていいですね。

Q.独立ということですね。論説室は編集局内ではないですし・・・。

そういうことです。経済関係の論説は経済部出身の論説委員が書いてるから、基本的に大きな差は無いです。社説と経済部での議論が齟齬を来すということはなかったですね。そこはわりときちっとしてたような気がします。それに論説委員自身も担当テーマについて取材に行っていたようです。

Q.安全保障とかある種の問題だったら社内で異論もけっこうありそうですよね。

それはあるでしょうね。でも毎日新聞はリベラルという立場が一貫してあったと思いますから、そこはブレがなかったように思います。

Q.日頃、記者は社説の「論」について意識しているもんですか?

してないでしょうね。今だからいえますが一線記者はほとんど社説をキチンと読んでいなかったんではないですかね。私だけだったかもしれませんが(笑)。社説は、大所高所から、言ってみれば足して二で割って書いているから、どうってことないよという受けとめだったと思います。しかし官庁にとっては社説で書かれるっていうことはすごく重みのあることでした。

官庁を回っていると、お宅の社説でこう書いてたよねということはよく言われました。やっぱり社説で書かれるということは、彼らにとっては世論の方向性を示す証拠ということであるわけです。新聞社は、記者は“インテリヤクザ集団”(笑)だけど、論説委員は“インテリ”という扱いかな。新聞各社の社説がひとつの方向を書いているってことは、世論が誘導されているっていうことなんだ、という意識が彼らの間では相当強かったですね。それは大蔵省に行っても、通産省に行ってもそうでしたし、のちに政治部で自治省にまわったりしたときにも言われました。我々の記事より、社説の方が大事にされていたことは確かですね。

最近で言えば河井克行議員夫妻の選挙違反事件みたいに、社説で各社筆を揃えるということになると、選挙にも関係するし権力にとってはかなりしんどいことだと思います。また原稿を書く記者にも安心感は出ますよね。

20200527佐々木宏人氏

◆「重工記者クラブ」配属 春闘取材の相手から飲まされて

1976(昭和51)年に重工記者クラブに配属されて、鉄鋼担当となりました。そこで出会ったテーマが春闘です。当時「鉄は国家なり」の鉄鋼、特に新日鉄(現日本製鉄)が賃上げ相場を作るリード役でした。春闘取材というのはわりとたいへんでした。社会部が組合担当で、経済部の鉄鋼担当が経営者側の担当となるんです。

Q.じゃあ、代理戦争みたいになるんですか?

そうそう。ぼくが特ダネだっていって新日鉄の常務か専務のところに夜回りして何パーセントだっていって取ってくるんです。ところが、それを社会部の組合担当記者が鼻っ柱の強い記者で「そんなことはありえない」と言って編集局の中で大声で怒鳴り合い取っ組み合い近いケンカをしたことがあります。まあ、考えてみれば代理戦争、バカですね(笑)。あとでぼくが中部本社代表になった時、かれは中部地方の大学教授に転身していて、飲んで大笑いしました。

Q.その落ち着きどころはどうなったのですか?

経営側の考え方だから、一応原稿は出します。ところが、社会部組合担当から言わせると「バカヤロー、こんな提灯記事書きやがって、そんな数字になるわけないだろう。とんでもねえ」という反応です。彼らは組合に取材に行けば、「毎日はいつから経営側の肩を持つようになったの?ひどいねー」とか言われるだろうから、まあ無理もありません。

夜回り取材をかけて、何パーセントかってつかもうとするんだけど、鉄の担当者も口が硬くて・・・。当時新日鉄の専務で武田豊さんという人がいたんだけど、その人の家が杉並にあって夜回りに行きましたが、酒飲まされてひどい目にあったことがありました。「そんな話いいじゃないか、ブランデーでも飲もうよ」って誘われて、弓道の得意な人で、弓の話なんか聞かされて、飲まなきゃ言わないと思ってブランデーがぶがぶ飲んでたら、その家のトイレで吐いちゃって・・・。

周辺情報も含めて、向こうにしてみれば、妥結の前に、こっちを使って組合を揺さぶってやろうということだろうし、組合は組合で新聞使ってゆさぶってやろうということですからね。その意味で、当時、新聞というのは春闘で大きな役割を果たしていたと思います。

あの頃は景気がよかった時代ですが、石油ショックのあとで新価格体系に対応する賃上げをしなくてはいかなくなったという状況でした。経営側も組合側も必死でした。

Q.高度成長が終わったといっても、まだまだ経済の余力があったということでしょうか?

あの頃は高度成長が終わったという感覚はまだなかったんじゃないかなあ。いちばん終わった感じになったのは1979(昭和54)年の第2次石油ショックだったのではないでしょうか。それまではイケイケどんどんの感じは残っていたような気がします。ただ、第2次ショックの頃ぼくは政治部にいたので、危機感はまったく実感してませんでした。

◆「鉄は国家なり」鉄がいちばんエライ時代

当時、経団連会館三階の重工記者クラブには、化学産業担当と鉄鋼担当の2人いました。ぼくは鉄鋼担当で、バケガク(化学)担当はもうひとり福島清彦君と言って、あとで野村総研に引っこ抜かれちゃったけど、その後、確か立教大学の教授なりました。その後任のS君は共同通信に引っこ抜かれて、幹部役員にまでなりましたね。

Q.あっ、福島さん、知ってます。所属の本部が違うので付き合いはなかったですが、毎日新聞から来たっていうのは聞いたことがあります。

そうかあなたは野村総研におられたんですよね。一橋大出のなかなかいい記者で、経済部のOB会にも来ますよ。当時は、鉄鋼担当と化学担当とでは、鉄鋼担当の方が紙面的にはえばっていました。ニュースはそんなになかったけど、今年の粗鋼生産がどのくらいあるとか、新日鉄の今期経常利益がどうだとか、日本経済の基礎数字ですからね。一面、経済面トップに行く記事も多く、純粋な経済記者という感じでした。

当時の鉄鋼担当は新日本製鉄、日本鋼管、住友金属、神戸製鋼、日新製鋼などが主な取材対象。いまは新日鉄と住友金属が合併して日本製鉄になり、ダントツですね。

ぼくはあんまり書いた覚えはないのですが、たとえば日本の鉄鋼三社(八幡製鉄、富士製鉄(両社が1970年合併して新日鉄に)、日本鋼管が1968年から技術協力してできた韓国の浦項製鉄所(2002年ポスコに社名変更)、それから日中協力で作った製鉄所「上海宝山製鉄所」。ああいうのがひとつのテーマで、日中国交回復後の日本と中国との関係の始まりの時代でした。今みたいに、中国が東アジアで大きな顏をするようになった時代と違って、日本が東アジアの中心にいましたからね。韓国や中国を助けなくてはいけないというODA(海外経済協力)の世界で、東アジアで日本が絶対的な力を持っていた時代でした。

中国も、韓国も、日本に頭を下げて協力を要請する時代だったと思います。日本側も両国に戦前、第二次大戦で大変な迷惑をかけたという負い目があり、真摯に協力するというイメージでしたね。ほんとあれから30年、安全保障問題、技術力の問題、日本、中国、韓国の関係は劇的に変化しましたね。

◆経営者の運と不運をまのあたりに

鉄鋼担当の記者時代の思い出で印象に残るのは、1977(昭和52)年1月に新日鉄の社長が亡くなるんです。名前は、えーと・・・、田坂輝敬(たさかてるよし)さんです。そのときの後継者が副社長の斎藤英四郎さん。後の経団連会長ですね。田坂さんが亡くなったのは、神田の三井記念病院、すい臓がんで68才でした。ぼくは特ダネにはなってはいないと思いますが、死亡情報をつかんで病院に行きました。

行くと、記者はぼくひとりだったのですが、斎藤英四郎さんと、当時新日鉄との取引NO1だった三井物産の池田芳蔵社長が来ていて、廊下で斎藤さんの肩を叩いているんです。慰めの意味と、今後ともよろしくという感じなんでしょうね、その光景をよく覚えています。商社は情報が早い、次の社長は斎藤さんとつかんでいたでしょうね。その時の様子を新経面の「インサイド」というコラムに書いたことを憶えています。

斎藤さんは、そのとき新日鉄の事実上の子会社の日新製鋼の社長になるルートが敷かれたいたんです。ぼくは亡くなる1ヶ月前くらいに斎藤さんに会いに行ったんですが、そうしたら足組んじゃってなんだかふてくされているです。「どうせ俺は子会社に出るんだ」という感じがにじみ出ていたんです。

Q.何の話をしようとしたのですか?

新日鉄のこれからの経営方針について聞いたんだけど、うんでもないすんでもないという感じでした。そうしたら、1月に富士製鉄出身の田坂社長が亡くなって、急遽、八幡製鉄出身の副社長の彼が社長にならざるをえなくなったのです。八幡、富士出身者が交互に社長をやるのが両社合併の後の役員人事の不文律でしたから。それであれよあれよというまに会長になり、10年後には経団連会長までなるわけです。社長になってから会いにいくと、べらぼうに愛想がいいんですね。こんなに人が変わるものかと思いました。

ウーン、人の運命、経営者の運命というのはわからないものだなあと思いました。

Q.斎藤さんご本人は、新日鉄の社長になる可能性についてはまったく予想してなかったのですね?

そうでしょうね。なにしろ当時はガンは告知しなかったから、斎藤さんはそういう事態が迫っているなんてこと、まったくわかってなかったんじゃないかと思います。おそらく田坂さんが長期政権でやるんだと思っていたでしょうね。

そういう経営者の運、不運というのを見て、考えさせられました。新日鉄なんてのは、所詮は鉄をつくったりしているだけだから、そんなに経営戦略とかイノベーションだとかいうのはそんなに無いわけですよ。ある意味で、こんなこと言ったらなんですが、岡目八目でいうと社長は誰でもできるんです(笑)―とその当時は思っていたのですが・・・。

でも企業として日本経済に占めるポジションの責任の重さを意識して、それなりのリーダー役を育てていたと思います。特に当時秘書室長は、社長の登竜門といわれていました。私の時の秘書室長は千速晃さんといいまして、人間的にも素晴らしく柔軟性を持った人でした。政財界、マスコミの人脈はすごかったですね。1998年に社長になります。「なるほどねこういう人が新日鉄の社長になる人なんだ」と思わせる人でした。2007年、71才で亡くなりますが、永野重雄(富士製鉄)、稲山嘉寛(八幡製鉄)という戦後の日本財界の重鎮に仕えた人物で、二人の生んだ最高傑作と思わせる人物でした。

私は今でも、その後の社長、会長、経団連会長の今井敬さん、日本商工会議所会頭の三村明夫さんとエネルギー問題の勉強会でご一緒することがあります。80歳、90歳を越えて日本経済全体を俯瞰する視野の広さ、好奇心と、そのシャープな意見には感嘆することがあります。やはり“鉄は国家なり”という時代に訓練を受けてきた人と思いますね。

Q.斎藤英四郎さんとはそれ以外にどのくらいの接点があったのですか?

青山の大きなマンションの自宅に夜回りをしたこともあるし、うちの女房の父親が八幡製鉄で、斎藤さんも八幡出身で知ってたから。

Q.斎藤さん宅で酔い潰されたことはないんですか?

それはないです(笑)。春闘のときも、斎藤さんのところには何回か夜回りに行ったことがありますけどね。

Q.夜回りのときはほかの社の人も来てるんですか?

それはほとんどなかったですね。民間の人の家に行って、ほかの社の人と会うということは、経済部のときはそんなになかったです。各社ばらばらで情報源となるところに行ってたんではないかなー。

参考 『当世物価百態』トマトの項

佐々木氏トマト1

佐々木氏トマト2

佐々木氏トマト3