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ある新聞記者の歩み6 降ってきた石油危機 しんどいながら記者として得た幸運

経済部時代(4)
「新聞記者にとって事件に恵まれるほど幸運なことはない」と毎日新聞の元記者佐々木宏人さんは『証言・第一次石油危機』(1991年、電気新聞刊)に寄せた一文の冒頭に書いています。
 佐々木さんにとって石油危機に出会うのは、入社して8年、32歳という油に乗った時期のことです。佐々木さんは経済部で仕事をするようになって3年経っていました。そこで出会った大きなできごとは石油危機(オイルショック)でした。昭和48年(1973年)の10月に第4次中東戦争が起き、それがもとで原油の価格が4倍にはねあがりました。それに伴い日本国内の石油価格が暴騰し、物価が急上昇して狂乱物価と言われるようになりました。物資不足への不安から消費者は買いだめに走り、トイレットペーパーや洗剤、砂糖などがたちまち店頭から消えました。


◆寝耳に水の石油危機

「昭和48年(1973年)10月6日第四次中東戦争が起き、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が、米国を筆頭とするイスラエルを支持する西側諸国への米国を筆頭とする西側諸国への原油供給禁止措置を発表、第1次石油危機が勃発しました。電力からトイレットペーパーの生産まで“油漬け”の日本経済でしたから、日本はパニック状態になりました。
 そのわずか2ヶ月前に、僕は通産省(現経済産業省)記者クラブに配属になりました。通称「虎クラ」、虎ノ門クラブといいました。家電業界担当、電力記者会(現エネルギー記者クラブ)担当を経て、はじめての官庁詰めでした。毎日は各社とほぼ同じ3人体制でした。」

「このとき、経済記者としてのキャリアを積むには欠かせない官庁取材の試金石ともなる経済官庁へ移ったわけです。経済記者のキャリアパスには、大蔵省(現財務省)、通産省担当は経験しなくてはいけないポストだったように思います。その内の一つである通産省配属になったのですから、今にして思えば意気揚々と乗り込んでいきました。というのも、水戸支局から経済部に移って約3年、東京での取材にも慣れて、特に電力記者会当時は、エネルギー問題に興味を持って、シベリア、インドネシア、アブダビなどの石油資源開発問題取材に首をつっこんでいました。前回お話したように、資源派財界人の安西浩、今里広記、中山素平、右翼の巨頭・田中清玄といった方々のところに通っては、1面トップを飾るような特ダネを幾つかものにもしていました。その年の7月に通産省に資源エネルギー庁も発足したばかり、記者としての実力を買われたような気分でしたネ。」

「ところが、石油危機という“事件”に出会ったこの時期は、長い記者生活のなかでも、最大級にしんどい経験となりました。しかし、その後なんとか新聞記者として勤め上げることができたのも、「あの時の取材に比べれば」という、この経験があったからだという気がします。今では、この“事件”に出会ったことは幸運だったと感謝しています。」

「とにかく、石油危機などという事態と、それが戦後経済史の中で最大の影響を生み出すきっかけになると予想した人は、通産省に詰めていた記者の中にひとりとしていなかったと思いますし、通産省の幹部にもいなかったと思います。いわゆる中東問題というのは政治、外交のテーマとしては意識されていたけど、経済問題、特に石油との関連でこれを考えることはまったくといってありませんでした。経済界全体が「水と油は蛇口をひねれば出てくる」という意識ではなかったでしょうか。時あたかも田中角栄首相の「日本列島改造論」で土地高騰が起きる高度成長の時代、エクソン、モービル、シェルなどのアラブの石油を押さえている国際石油資本(メジャー)に頼めばなんとかなる、日本にとっては金さえ払えば石油はどうにでもなるという感じではなかったでしょうか。私もその一人ですが、経済問題、特に石油との関連でこれを考える思考はまったく定着してなかったといっても過言ではありません。」

「今でも覚えていますが、電力記者会当時の話です。経済部では毎週月曜日朝10時から、民間経済担当記者がその週の取材予定、記事出稿予定、情報交換を行う民間部会をやっていました。その時、私から国際石油資本と関係の深い東亜燃料㈱の、高校の先輩でもある中原伸之社長から「佐々木君、英国のアラブ情報誌に『金本位制、ドル本位制を揺さぶる“石油本位制”の時代が来る』という記事が掲載されている。読んでみろよ」といわれ記事を渡されました。その話を民間部会で披露すると司会役の一橋大出身で後に大学教授に転身する民間担当デスクに「そんなバカなことあるわけないだろう」と一笑に付されたことを良く覚えています。石油ショック到来の半年間位前の時だったと思います。僕も「そうだよな―」と引き下がりましたけど、そんな時代でした。」

「山形(栄治・初代資源エネルギー庁長官)さんが、大分たってから当時を回顧してこう言っていたことを記憶しています。「(石油ショックには)ぼう然自失だった。予測もしなかった」と。「メジャーにさえ頼んでおけば、石油なんてジャブジャブ入ってくるんだと、こう思っていた」と。」

「エネルギー獲得のためには、メジャーの他にやはり自主開発原油も必要ということで、資源エネルギー庁ができたと思います。当時「和製メジャー」なんて言葉がエネルギー業界に飛び交っていました。」

◆通産省を震撼 石油危機直前の汚職事件

「中東戦争勃発の2週間ほど前の1973年(昭和48年)9月に、資源エネルギー庁石油部精製流通課の課長補佐が石油業界から酒食の接待を受けていたという収賄容疑で逮捕されました。そのために更迭の憂き目にあったその上司の課長とはその後も会うことがありましたが、次官候補ともいわれた人だっただけに、検事の取り調べを受けた無念さを語っていました。山形長官や北村昌敏次長が赤い目をして長官室にこもって、検察とどこで手を打つか、事件対策に取り組んでいたことも思い出します。
 石油業界はメジャーに頼り切り、通産省は石油業法で業界をコントロールして癒着していくという構図でした。そういう中で業界の接待漬けが起こって、汚職事件を引き起こしてしまったというわけです。とても突然の石油危機に対応するどころではなかったと思います。」

◆書くか、書くまいか 通産次官の爆弾発言

「石油危機当初、通産省の対応は、石油業界はこの危機を幸いに売り惜しみをして、石油製品価格の値上がりを狙っているのではないかーと疑心暗疑だったように思います。そこに汚職事件が起きて、業界とのパイプも詰まりがちだったと見られます。
 通産省と石油業界の関係がギクシャクしはじめたタイミングに、当時の山下英明通産省次官(退官後・三井物産副社長)が定例の次官記者会見で“爆弾発言”をします。当時の縮刷版を見ると、私が書いた記事の見出しは「石油業界あくどい商法 通産次官が批判」でした。文中では「石油業界は悪徳商人のようだ、まさに諸悪の根源だ」との山下長官の発言を引用しています。この発言は朝日も引用しているので、私の特ダネではないのですが、毎日は経済面のトップで紙面の扱いが大きく、業界の反論まで入れて書いたので、毎日の特ダネという印象が持たれたようです。」

「実は、その会見ではもうひとつショッキングな発言が山下さんの口から飛び出していたのです。「石油を利用した、やらずぶったくりのアラブ商法に便乗しているのが、日本の石油業界だ」とアラブおよびOPEC(石油輸出国機構)の石油戦略を批判したのです。会見終了後、朝日の船橋洋一記者(後・同社主筆、現アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長)らと顔を合わせて、「どうしようか?」と相談しました。もしこの部分をそのまま記事にしたら、時期が時期だけにアラブ世界の大きな反発を呼び、国際的反響がすさまじいに違いないとたじろぎました。私の新聞記者人生の中で、国益という観点で、記事を書くか、書かないかの判断をした初めての機会だったと思います。その船橋記者とか読売の中村仁記者(後・中央公論新社社長、読売新聞大阪本社社長)とか僕とかで話し合って、この部分は書かなかったことを記憶しています。」

「石油ショックが終わった後、“石油戦争戦友会”というのをやってました。資源エネルギー庁長官だった山形栄治さん、次長だった北村昌敏さん、自民党の宏池会代表の岸田文雄衆院議員のおやじさんの岸田文武さん、当時、九電力の料金値上げ担当のエネ庁の公益事業部長、後に衆院議員、石油流通価格を決める担当官だった松尾邦彦さん(後・中小企業庁長官)などという人たちと、各社の当時の担当記者が集まって年に2、3回くらい割り勘で飲み会をやってました。10数年くらい続いたような気がします。
 この会では当時の思い出話を交わしましたが、これが面白かった。例えば山下次官の会見での「石油業界諸悪の根源」発言について、山形さんが「記者会見に出る寸前、僕が次官に説明した中でしゃべっていたんだ」という秘話が聞けたりしました。」

◆押し入れいっぱいのトイレットペーパー

Q.通産省での汚職事件があって石油危機への対応が遅れた面があったと伺いましたが、もしその事件がなくてもそういう構造変化が起きるという予想はできなかったでしょうか?

「できなかったと思います。経済記者自体がそうですからね。こっちが、「バーレルあたり値段があがってきたらえらいことになりますよ」なんて言ったら、「メジャーが産油国を抑え込んでいる以上、そんなバカなことあるわけないじゃないか」と言われたに違いありません。石油危機が勃発して、原油輸入がストップして、スーパーのトイレットペーパーがなくなってはじめて、日本経済はアラブからの石油漬け経済だった、ということがわかりはじめたということです。

「その当時の矢野俊比古さんという後に次官になる通産審議官がいて、愛媛の出身の人で、実家に母親ひとりで住んでいたそうなんですが、石油ショックがおさまって帰郷したら、押し入れの中の半分くらいトイレットペーパーだったというんです。「大丈夫、トイレットペーパーは不足しないよと電話で話していたんだけど、オレも通産省の審議官やってんだけど、信用されていないんだ」と苦笑いしていましたね(笑)。でも庶民は電力は買いだめできない、せめてトイレットペーパーくらいしか買いだめできなかったんですね。それは今回のコロナ禍の初期と同じですね。」 

◆書けば何でも1面トップ 寝過ごして特落ちも

「その当時の取材合戦で言えば、石油ショック関係というのは、各社とも書けば全部1面トップでした。自衛隊の戦闘機の訓練用の燃料が削減されるとか、後楽園のナイターが中止になるとか、銀座のネオンの灯が消えるとか、ネオン業界の要請とかネタはたくさんありました。コロナ禍の今と同じ状況ですね。」

「あの頃はほとんど朝昼なかったですよ。朝、通産省の記者クラブに行って、各紙の紙面をチェックして、夕刊用の取材をして原稿書いて、通産省内とエネ庁を回ったり、会見をこなしたり朝刊用の原稿を書いて、それから夜回りして社に上がって打ち合わせ。翌朝になると、今度は国会の中曽根通産大臣などが出席する9時スタートの衆参の予算委員会などの取材を、同僚の橋本光司記者(後毎日新聞常務)と交代で行くわけです。」

「あるとき予算委員会があるのをすっとばしてしまったことがあります。橋本記者や、読売の中村仁記者らと徹夜に近い、飲みながらの論戦となり、私が取材することになっていた翌日の衆議院での大臣出席の委員会審議を忘れて寝過ごしてしまったのです。昼のNHKのトップニュースで「中曽根通産相電気料金引き上げに前向き」とやられ、毎日の通産省クラブのキャップの山田尚宏記者(後経済部長)が大慌て。夕刊には間に合いませんでした。「飲んでもいいけど仕事まで飲むな」とコテンパンにやられました。」

「読売の中村記者と橋本記者とぼくの3人、当時独身でわりと仲がよくて、年末に「こんなイソガシイのやってられない。温泉入りに行こう」と言って、新宿から列車に飛び乗り、確か信州まで行ったことがあります。恵まれていたのは、その頃のキャップが東京新聞からスカウトされて来た山田さんだったことです。もののわかる人ですごく自由にやらしてくれたので非常に楽しかったです。」

◆朝日の原稿が毎日に!?

「その頃、原稿はバイク便で運んでました。記者クラブの各社のコーナーの入口のところにポストがかかっていて、そこに原稿を入れておきます。そこにバイクで各省庁を回る各社専属のアルバイトが原稿を取りに来て、本社に届けるシステムになっていました。毎日は毎日で、朝日は朝日のアルバイトのバイク便が持って行くわけです。あるとき、朝日の船橋洋一記者の書いた原稿がなぜか毎日に行っちゃったんです。バイク便のアルバイトが朝日と毎日のポストを間違えたんでしょうね。そうしたらデスクから電話がかかってきて、「おまえなにやってんだ。こんな原稿書かれてるぞ」と。原稿は朝日に戻しましたけどね。そんなこんなで、バカっぱなしがあって、おもしろかったですよ。今ならさしずめメールの誤送信と言うことになるんでしょうかね(笑)。 」

Q.それは船橋記者の特ダネではなかったのですか?

「いやあ、原稿の内容は忘れたけど、とにかく何でもかんでも特ダネなんですよ。回るところが違えば特ダネなんだから(笑)。だって商品のもとになる石油が無くなり、電力も供給制限となり、ある課に行けば「銀座のネオン消します」とか、ほかの課に行けば「デパートの閉店時間を繰り上げます」とか、そういう打ち合いみたいな感じで、書けば特ダネになるという状況でした。でも船橋記者は感度の良い、原稿の上手い記者でしたね。
 彼はそのあと北京、ワシントン特派員などをやり、朝日のスター記者になります。それでこれまで何冊も本を書いているんですが、必ずその本を送ってきてくれました。」

Q.その頃の記事は記者の署名は入らないですよね?それは不満ということはなかったですか?

「それはなかったナ。入社した頃から、新聞記者は匿名で書くものだと思っていましたね。署名無しが不満などとはまったく思いませんでした。署名原稿を書くのはよほどの大記者という感じでしたね。ヒラ記者が署名原稿を書くのは、連載企画もので記者の主観が入るものには署名を入れていたように思います。毎日新聞が記者の署名を入れた原稿を目玉商品にしたのは、1976年の大型コラム「記者の目」が最初だったと思いますが、まだ先の話ですね。」

「石油危機関係の年表を見ていて思い出したんだけど、「石油危機で新聞用紙欠乏」ってあるんですね。オイルショックで初めて知ったんだけど、新聞用紙の監督官庁っていうのは通産省なんです。省に製紙産業を担当している課がありました。当時の毎日の社長が通産省記者クラブのキャップの山田記者に電話をかけてきて「新聞用紙を確保してくれるよう在京の新聞社の社長が大臣に面会に行くからセットしてくれ」と言うのです。山田さんは「この忙しいのに・・・」と頭をかかえていました。「そうか新聞社の新聞用紙の生殺与奪の権力を握っているのは通産省なんだ」と目からウロコの思いがありましたね。」

◆初の海外同行取材でフセインに会う

「政府として「日本は反アラブではない」ということを説明する石油産油国詣でをしなくてはと、田中首相の命を受けて三木副総理が特使で行きました。調べると1973年12月ですね。そのあと通産大臣の中曽根さんが行きました。油ごい外交などといわれたものです。」

「当時の切迫した状況を説明した方がいいですね。
 とにかくアラブ産油国はイスラエルのパレスチナ占領地区からの撤退するまで、イスラエル支持国への石油を輸出しない、日本もそれに含まれる―というんですから日本中がパニック状態になっていました。さらにOPECは74年1月から原油価格は第四次中東戦争前のバーレル3ドルから四倍の12ドル近くまでの値上げを発表、それでなくても当時の田中首相の「日本列島改造論」ブームで土地価格が上昇し始めており、文字通り“狂乱物価”が起こり始めました。とにかくアラブの立場を理解する日本の立場を説明して、日本への石油禁輸措置だけは解除してもらおうというわけです。」

「中曽根さんのアラブ訪問は74年1月ですね。それにぼくは同行取材しました。海外同行取材は初めてでした。朝日は船橋記者、読売は杉山記者だったかなあ。イラク、イラン、サウジアラビア、クウェート、UAE(アラブ首長国連邦)あたりを回ったと思います。あと、飛行機の乗り継ぎの関係で、ブルガリアのソフィアとギリシャのアテネにも一泊しました。これらの努力で禁輸は一応回避できたんですが、価格上昇はどうにもなりません。」

「中曽根さんが、イラクのバグダッドで当時副大統領のサダム・フセインに会ったんです。フセイン・中曽根会談の冒頭の写真撮影の際、ぼくはフセインのうしろに回って中曽根さんの写真を撮りました。すると後ろの棚のところに何か文書が置いてありました。これきっと会談に関係あるなと思ってみると石油がなんとかとか英語で書かれている文書なんです。どさくさに紛れて1部“かっぱらっちゃい”ました。イラク側のペーパーだったのですが、結局たいした内容ではありませんでした。だけどバレたら国際問題になっていたかもしれませんね。今考えると冷や汗もんですね。」

◆法案を“創作”

「石油危機当時の年表で確認すると、「国民生活安定緊急措置法」、「石油需給適正化法」というのが1973年(昭和48年)12月22日に公布・施行されました。今でもよく覚えていますが、記者クラブではこの法案の抜きあいになったのです。売り惜しみ、買い占めを防止し、石油供給の優先順位を付けようという法案です。
 それで、通産省がつくる石油需給適正化法(案)を作っちゃえと思って、毎日の編集局の調査部にこもって、六法全書をかたっぱしからひっくりかえして、法案の作り方の勉強をしました。目的1.なんとか、2.なんとか、3.なんとか・・・って全部法律の作り方は同じなんですネ。それで「1.この法律は国民生活の安定に資するために、石油の需給を安定化することを目的とする」とかね。
 骨子は取材してだいたいわかってるわけですから、作っちゃいましたよ。そうしたらなんと1面トップになってしまいました。」

「あとから通産省の人から「佐々木さん、あんな内容どうしてわかったんですか?」と言われました。なにしろ、寸分間違ってなかったですから。それで、経済部の連中から「佐々木内閣法制局長官」とからかわれました。通産の人はだれかがリークしたと疑ったようです。まさか“でっちあげた”とは思わないでしょうから(笑)。こんな裏話をすると新聞報道の信用を落としちゃいますね。でもパニック状態の世論の鎮静化には少しは役に立ったかなとは思っているんですが――。
 そんなことができたのは、まあ、こっちも役人みたいな気分になってましたからね。だって、24時間ずっと通産省にいるんですから。」

[参照](佐々木宏人「石油危機よありがとう」、電気新聞編『証言第一次石油危機』(1991年、(社)日本電気協会新聞部)所収)