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僕が介護士になった訳。

みなさん初めまして。

今日からnoteはじめます。

まずは、ということで自分の原点である介護士になった理由を書いていこうかなと思います。

そもそもの話。

元々、介護士は目指していませんでした。

選択肢にすら入っていなかった気がします。

高校卒業前、母親から言われました。

母「あなた、将来どうするの?」と。

大学に行って・・・とぼんやりと考えていた自分には正直億劫でしかありませんでした。

母はさらに言ってきます「あなたは大学に行って卒業しても、どうせなあなあになって、サラリーマンになんとなくでなりそうなんだから、手に職をつけなさい。専門学校に行くべき。」

・・・・・よくわかってらっしゃる。

そしてその場で渡された専門職の参考書。準備が良すぎる。

母「この中から好きなものを選びなさい。行かせてあげるから」

母さん、マジですか。

さっそく自分は選び始めました。

もともと何かを「作る」ことが好きだったので

その本の中から選んだ職業候補は

「インテリアコーディネーター」「イラストレーター」「時計技師」etc・・

自分はその候補を母に伝えました。

母「あなた、その職業は成功しないと食べていけないんだからやめなさい」

なんで選ばした母よ。

母「これからは高齢者の時代が来るんだからケアマネージャーになったらどうかしら」

なんで選ばした母よ!?

祖父母とうちの家族と一緒に暮らしていたので介護にはさほど抵抗はありませんでしたが、自分が介護士というイメージがわかず。

自分「それなら子供の方が良いかな、保育士になるよ」と

保育士・幼稚園教諭の専門学校に入学。

そして、その学校ではホームヘルパー2級の資格を選択すれば取ることができるようだったので、なんとなくの気持ちで選択。

保育を学んでいく中、いろいろな施設に実習に行きました。

その中の一つの、某特別養護老人ホームでの実習の際です。

自分は衝撃を受けました。

高齢者の入浴介助の際、10人ほど同時に脱衣所に連れていき

全員、裸にし、上からバスタオルをかけ、順番に浴室に連れていく

浴室に入れる人数は2~3名ほどで、ほかの高齢者は待っている状態。

高齢者の方が言います「さむい」と。

思わず謝ってしましました。

なんだこれは。

なんなんだこれは。

「人」の生活なのか。

人生、色々苦労して、幸せなこともありながら

最期を迎えるかもしれないこの場所での生活の最後がこれなのか。

ただただ疑問が膨らむばかりで

職員さんに質問をしても「しかたないのよ」と返答があり

その返答にも、決して仕方ないで終わらせるものではないだろう!?と憤慨しながら実習が終わりました。

そこからは介護一直線。

知りたいこと、疑問がたくさんある中、専門学校を卒業し

特養に就職しました。

自分が介護のことで知っている知識はほぼゼロ。

ホームヘルパー取得するための授業なんて週一程度。

覚えていることなど車いすの押し方、おむつのつけ方。その程度。

だとしても楽しみで仕方がありませんでした。

そこから10年。

介護福祉士となり、それなりの経験を積み、専門性を高め

僕は「介護の人」になりました。

30歳になりふと思いました。

自分はこのままでいいのか、特養の一介護士のままでいいのかと

介護の仕事は大好きだし、続けたくもある。

ただ介護の専門性だけが高くなっていく一方、逆に介護だけでしか福祉で役に立てないと言うのが納得いなかったので転職をしました。

現在は訪問看護に携わる方々のために人材育成のセミナーと転職の相談など自分でも学びながら仕事をしています。

仕事にも慣れはじめたある日。

懐かしい人から連絡がありました。

自分が子供のころから、家族ぐるみの付き合いをしていたとある家族のおばちゃんでした。

大人になって少し疎遠になっていたこともあり、久しぶりだなと思いながら

要件は久しぶりに会いに来ないかということ。

姉と一緒におばちゃんの家に行き、「ひさしぶり!」と昔から変わらない

明るく、ハイテンションなおばちゃん。

二言目に「私、がんになったのよ!」

戸惑いました。

戸惑いながらも、その明るいテンションでの告白はおばちゃんらしいなと。

副作用が嫌だからと抗がん剤は一切飲んでいないらしく。

「私は私らしく生きたいから」と、とても強い人だと思いました。

そこから数カ月経過し、連絡が来ました。

おばちゃんが倒れて入院した。

病院に行くとやせ細り、寝たきりの状態。

泣きそうになりました。

慣れているとは思っていたが、身内と今まで関わってきた高齢者の方と

ここまで感じ方が違うものなのかと。

おばちゃんはまだかろうじて意識があり、自分がわかるのか

「○○、背中さすって。痛いの。」

すぐさまどこが痛いのか聞いて、その個所を摩りました。

そして摩っている中、悔しくてたまりませんでいた。

介護士10年の経験があって、自分は摩ることしかできないのかと

なんのために介護を、介護士をやってきたのかと

おばちゃん家族に、まだ元気な時に望んでいたことはないかと尋ねると

長女・次女・長男がいて、まだ長男が結婚式をしておらず

それには「出たいなぁ、出れるかなぁ」と言っていたらしく。

弱弱しいながらも、本人に出たいか聞くとしっかりとうなずき

そこからはもう、全力でした。

結婚式の日にちも決まっていなかったので長男と相談しながら日にちを決め

病院とアセスメントをし、家族が誰も介護分野のことを知らなかったので

車の手配、介護の仕方、車いすの手配、食事のあげ方色々教えながら

皆で協力しました。

結婚式当日、意識もほぼなくたまに頷く程度。

病院からも中止した方が良いのではないかと打診され

ただ、本人に結婚式に出たいか聞くとかならず頷く。

点滴を外し、ドレスを着せて、化粧をし、車いすに座らせて結婚式場に向かいました。

式場に到着して、声を掛けました。

「おばちゃん、式場についたよ」

意識もあまりなく、頷くことしかできなくなっていたおばちゃん。

それを言った瞬間、くわッっと目を見開きました。

もともと、頭の良い人で他人にあまり弱みを見せたがらない人でしたが

自分で計算し、長男の結婚式まで自分が生きれるよう体力の調整を自分でしていたみたいで、その瞬間は昔のおばちゃんに戻っていました。

自分はすでに泣きそうでした。

会場入りし、参列者もみんな笑顔でおばちゃんを迎えました。

やはり会場では食事もとれず体力的に厳しいのか目もつむり

大丈夫か尋ねると頷くのみ。

退出を考えもしましたが、本人の希望もあったので要観察。

式もクライマックスで、あと長男から両親へ感謝の手紙を読むだけになり

長男が「おかあちゃん」と声を発すると

またおばちゃんは目を開けて長男夫婦を眺めました。

式場内全員号泣。

司会のおねぇさんも号泣。

そのまましっかりと写真撮影まで目を開けて、それが終わると目を閉じました。

そこからは、迅速に病院に送り届け、病院の方に引継ぎし一日は終わりました。

おばちゃんはそこから少し体調が良くなり、少し喋るようになりました。

ただ、家族も、自分も、もう残りわずかだと感じてはいました。

おばちゃんが言いました「家に帰りたい」。

医者とケアマネ、家族で会議し退院が決定。

保険を使いベットを借りポーターを借り、訪問看護を依頼し

在宅へ戻りました。

そこから一週間後、おばちゃんは静かに亡くなりました。

お葬式を終えて思いました。

自分はこのために介護士になったんではないかなと。

今回、介護士の知識がなければおばちゃんにここまで

色々としてあげることができなかったと思うんです。

おばちゃんの家族は介護のことも何も知らない。

何ができて何ができないのかの判断もできない。

そのために、おばちゃんのために介護士になったんじゃないのかなと

運命という言葉を信じるかどうかは人それぞれだけど

自分はこの時強く思いました。

長くなりましたが、以上が介護士になった理由

そしてまだ気持ちが介護士である理由です。

最近始めたYouTubeもまだ投稿は少ないですが

医療と福祉の仕事の素敵さを、医療と福祉で悩んでいる方に知識をと思ったのがきっかけです。

少しでも多くの人に伝わりますよう願いを込めて

まだまだ声は「小さいけれど」伝えることは「森」のように多い。

小さいけれど森でした。


















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