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日々を愛している 【王子】


小学生の頃から、夏休みの宿題は初日に全ての答えを写して終わらせていた。
答えに1つの着地点がある場合、過程を吹っ飛ばしていきなりそこに辿り着きたい。それがズルだと言われても、ズルをすることに少しの罪悪感も感じないし、達成感はつまらないものだ。私が宝箱に入れておきたい気持ちはいつだって、言葉では表せない一瞬の煌めきや予測不可能な心の動き。
行動を作業化し、その日のことはその日で終わらせて、ほとんどをそこに置いてきてしまう私でも、本当に覚えておきたいくらい大事なら、感覚に焼き付いて忘れられないんじゃないだろうか。そんなことが本当にあるのかまだイメージできないけど、確かめたい。もっと色んなものを見に行きたい。知りたい。考えたい。だから私は、一日一日を愛しながら生きている。

**

早めに行って待つか、ギリギリに到着するなら断然ギリギリを選ぶ。
正門についた頃には浮かれた新入生さえもう居なくて、『急げー!』と応援してくれる生徒指導の先生の声を背中に受けて走った。
今日は本鈴が鳴る5分前に門に入ったから、移動も含めて5分以内に新しいクラスを確認し、自分の席に着席しなければならなかった。およそ2分で校舎に辿り着いて、さぁ今からクラスを探すぞと思った時。ふと名前を呼ばれて振り返ると、10mくらい先に見える教室の、廊下側の窓から友人が身を乗り出してこちらに手招きしているのが見えた。彼女が『同じクラスだよー!』と教えてくれたおかげで、膨大な文字の羅列から自分を探す手間が省ける。

「ありがとう。助かったよ」
『新学期初日くらい早めに来〜い』
「とか言ってこの展開わりと期待してたでしょ?」
『あははっ!こんな奴と1年間同じクラスとかまじダルいわ〜』

彼女が言う“ダルい”は“ダルいけど悪くない”の略だと解釈して、周囲の人に軽く挨拶をしてから着席する。担任は去年と同じだったけど、知らない人ばかりが集まったクラスの雰囲気は新鮮なものだった。逆に、去年同じクラスだった人はそこまで関わりがなかったとしても懐かしく感じる。そのうち薄れるであろうそんな感覚をしばらくの間楽しんでいた。

その日のホームルームで、私は人生で初めて自分から手を挙げて図書委員に立候補した。来年は私がやるとずっと前から決めていたのだ。目的は、図書室の前に掲示されている“図書だより”を書くことだった。
図書だよりは、図書委員がおすすめの本を紹介するもので、学内ではかなりプライベートでマイナーな掲示物だ。私は掃除当番の友人を廊下で待っていた時、偶然その掲示の存在に気が付いた。私が見たそれは、各々でカットしたと思われるはがきサイズのコピー用紙に、色鉛筆や筆ペンを使って本の感想が書かれたものだった。字だけの人もいれば絵を描く人もいて、それぞれが自由な表現で好きな本を紹介していたから、見た時にわくわくした。おまけにそれは、ひめくりカレンダーを作る時のようにどんどん重なって新しくなっていく。
『私もやってみたい』と思うまでに3日も要らなかった。思いついたその日にノートのページをはがきサイズに切って、感想を書き、勝手に掲示した。他の図書委員もみんな名前を書いてなかったから、1つ増えたところで案外誰も気づかなくて、私は週に1度のペースで図書だよりを更新し続けた。誰かが読んでくれてる、なんてことには興味なかった。ただ私は掲示板のお祭りが楽しそうだったから自分も参加したかっただけで、2学期半ばから3学期が終わるまでの間に50枚くらい書いた。まぁ結局、3学期の最後の方に図書委員担当の先生にバレて、勝手にやるのは駄目だよと注意されて終わったけど。

とにかくまぁ、そんなわけで今年こそは正規の図書委員になって堂々と図書だよりを書きたい。私は熱意に溢れた生徒だ。しかし図書委員は各クラス1枠しかない委員で、今年は私の他にもあと1人、立候補した人物がいるようだった。
さぁ敵はどいつかな…と振り向いてみると、背筋をピンと伸ばして、譲らないと言わんばかりに綺麗に手を挙げる王子一彰がいた。
彼は図書委員をやりたがるような人だったかな。あまり関わりがないからわからない。でも去年同じクラスだった時、彼も図書委員ではなかったはずだ。まさか彼も、私と同様に図書だよりドリームを抱いて立候補に乗り出した一人だろうか。ならば負けるわけにはいかない。とにかく、コイツを倒さなければ目的は達成されない。
運命が決まるじゃんけんタイム。その場に起立して、私たちは静かに向き合った。クラス中の視線が集まる瞬間。私も王子も全くへらへらしていなくて、緊張感に包まれる会場。

「じゃーん、けーん」

ぽん!で繰り出した私のグーが彼のチョキを刃こぼれさせる。誰よりも綺麗な姿勢で手を挙げていた王子はあっさり負けて、私は案外簡単に図書委員になることが決まった。

**

始業式から2週間後、初めての委員会の仕事は火曜日の放課後の図書当番だった。その辺りの誰も座っていない長机に置きっぱなしになっていたシャーペンを回収したついでに、カウンターに座って、記念すべき図書だより第1号を書いていた。

「…見つけた」

その時机に落ちてきた影の正体は、かつての敵。今はただのクラスメイトの男子だった。王子という変わった苗字の彼とは去年から同じクラスだったけど、お互いに交友関係の範囲も違って、業務連絡以外の会話をした記憶がない。
しかし、彼の「見つけた」という言葉には心当たりを感じて、持っていたシャーペンを紙から離す。

「ごめん。置きっぱだったから」

ペンを受け取ると、王子はそれを制服のポケットにスッと差し入れてから、こちらに向き直って微笑んだ。弧を描く瞼も、口元のゆるやかなカーブも完璧だったけど、あまりにも綺麗すぎたので返って社交辞令のような笑顔に感じる。

「そう。探したよ」
「大切なものは手放さない方がいいよ。私みたいに勝手に使ってもなんとも思わない人フツーにいるし」

仕方なく鞄から筆箱を引っ張り出して、自分のシャーペンを使う。ドクターグリップを振って芯を出そうとするけど、なかなか出てこない。10回くらいしつこく振ってから確認すると、どうやら芯が入っていないようだった。

「君、どうして図書委員になったの?」

筆箱を探ると空のシャー芯ケースが出てきて、流石にガーンとしてしまう。今、私が抱えている問題と全く関連性のない質問を王子が投げてきて正直鬱陶しかった。

「図書室涼しいから。王子は?」

これ以上深掘りできない返事をあえて返して、彼のことなんかどうでもいいけど一応聞き返してみる。

「どうぞ」

彼がついさっき回収したシャーペンをひっくり返し、芯を一本手のひらに出す。その手を差し出された時、私は初めて彼の顔をちゃんと見た。

「いいの」
「いいよ」
「やった、ありがとう」

入手した芯を装填してから、王子に質問したことさえ忘れて感想の続きを書いた。いつの間にか彼は勝手にカウンターの中に入ってきて、椅子を持ってきて隣に座っていた。でもどうでも良いから何も聞かなかった。そんなに図書委員に未練があるなら好きにすればいい。シャー芯くれた恩人だし、何処かに行けとか言う気にもなれなかった。

書き終えてから、ふと隣の様子を伺ってみると、彼は貸出履歴をチェックするためのコンピューターを操って情報を盗んでいるようだった。王子の瞳の中ではブルーライトが四角く光っている。口元にだけうっすら笑みを浮かべ、画面に表示された文字を熱心に追っていた。少し気になって、私もパソコンの画面に目を向ける。彼が読んでいたページはなんと私の貸出履歴だった。なるほど。もしかしたらライバル認定をされてしまったのかもしれない。

「結構頻繁に利用しているんだね」

今まで借りた本のタイトルをスクロールしながら、彼は呟いた。読了せずに返すことも多いけど、貸出冊数だけで見るとそれは200を超えている。

「王子はどう?」
「僕は少ないよ」

カチカチ、と小さな音をたてて彼が名簿の【王子一彰】をクリックし、画面が切り替わる。貸出冊数は58冊。まぁ、高2の1学期にしては多い方なんじゃないだろうか。次に本のタイトルを上から下までざっと眺めてみる。驚くべきことに、そのほとんどに見覚えがあった。

「すごい…」

200冊借りたら、被る本が10冊くらいあっても別に驚かない。でも、彼が借りた本のほとんどが、私も借りたことのある本だった。純文学、詩集、昔流行った恋愛小説、シュルレアリスムの画家たちの大きくて重たい画集や、食べられる野草の本まで。こんな偶然ってあるのだろうか。わざわざ口に出して確認はしなかったけど、私はこの時、小さな感動を口の中で噛み締めた。目が合うと、王子はさっきよりも随分穏やかに微笑んだ。

それからは毎週、火曜日の放課後になると私と王子は図書室に屯して、勝手に2人体制で当番をするようになった。何処か似ているところがあるからか、会話は自然と弾んだ。王子は全然知らないロックバンドのCDをジャケ買いしたことがある側の人間だったし、古典の先生がテスト前に提出する写経の課題を刑務作業と呼んでいて親近感が湧いた。私たちが一度話し始めると会話は全然止まらなかった。図書室だからあまり大きな声は出さなかったけど、それでも多分何人かの心の中で私たちは消えて欲しいと思われていただろう。でも、そんな人たちのことはどうでも良かった。

「休みの日はどんな風に過ごす?」

こんな風に王子が私に質問をして、こちらからは答えるついでに君はどうなんだと聞き返す。いつもお互いを照らし合わせるような話し方だった。盛り上がるために他の人の話を持ち出す必要がないから、彼とは気楽に話せた。
王子は互いに共通する部分よりも、まだ知らない部分に興味を持つ。だから私に対して本の話題を振ったことは一度も無かったし、価値観の押し付けもしなかった。得た知識をハムスターみたいに頬袋にたくさん詰め込んで、誰にも見せないまま飲み込むのが王子一彰だった。
でも、たまにこっそり貸出履歴を確認してみると、私が借りた本を返すと、彼がすぐにそれを借りている。そんな王子が可愛くて、普段借りないような『毎日ハンバーガーを食べると人はどうなる』とかが書いてある本をわざと借りても、やっぱり次にそれを借りるのは彼だった。
いつも一緒にいるわけではなかったけど、7月になる頃には王子一彰と私の絆は見えない形で深まっていた。


そして、事件は7月の初めに起きた。


 毎年うちの学校は夏休み前に視聴覚行事があって、今年は美術館と落語から1つ選択し、どちらに行くか自分で決めることができる。
6限目のLHRの時間内に行き先を決めなければならなくて、私は仲良しの友人4人と机をくっつけて会議をしていた。

『どうせならディズニーランドとかにしろよ〜〜!!』

私を含め誰もが思っていることを代弁してくれた彼女にまず感謝と敬意を込めて相槌を深めに打つ。

『ねぇ落語ってなに?弁慶が義経ボコるやつだっけ』
『蕎麦食って代金ちょろまかす話でしょ』
『あたし円楽の腹黒ラーメン食べたことある』
『なにそれ。でもまぁ、落語は座って話聞くだけだし美術館よりはマシじゃない?』

最強のメリットを見つけ出し、流れは完全に落語に傾いてしまった。しかし…私はどちらかと言えば美術館に行きたい。でも空調効いてる以外に彼女たちを惹きつけるポイントが美術館にはないんだよな。…まぁ、最悪1人になってもいいし言ってみるか。

「私は美術館に行きたい」
『ん、じゃあそうしよー』
『はい決定』
「マジか」

めちゃくちゃ簡単に意見が通った。ていうか興味なさすぎでは?
…とにかく話が纏まり、これから無駄話タイムに移行するぞというタイミングで、クラスでもよく目立つ男子3人組が私達の元にやって来た。

『ねねね、視聴覚行事の日学校サボって俺らと遊び行かん?』

何コイツら…
今までそんなに絡みもなかったグループだし、サボりとかいうワードが入っているせいで女性陣全員が若干戸惑いの色を見せた。私たちは一瞬目配せをして、出来る女たちが即座に対応に当たってくれる。

『サボりとか治安わる〜』
『あんまり絡みないからビビった〜どういう風の吹き回し?』

私は別に発言する必要もなくて黙っていると、男子の1人がこちらの顔色を伺いながら貼り付けたように笑った。

『ずっと話してみたかったんだよね。正直話しかける機会伺ってた』

何だコイツ。目が合ってる時にそんな恐ろしいことを言われるとこちらは心のシャッターを完全に閉めてしまう。
あからさまに目を逸らした私を見て、友人たちは面白がって笑った。

『なになに、そういうこと?』
『うわー、チャラいわ〜』

こういうノリ、正直一番鬱陶しいと思う。でもこのいらない時間も人間関係の緩衝材みたいなものだから我慢しなければいけない。誰も即答しない時点で、もう全員の意見は同じ方向に傾いているというのに…

『でもうちらは美術館行くってもう決めてるから。ごめんね』

友人の1人が代表して、彼らの誘いを優しく蹴る。本当に有難い。彼女のような人に救われて私は生きている。地球から食べ物が無くなって、最後の一杯のスープが私の手元にあったら彼女にあげようと思う。
けど、男3人はそんな女神の言葉を冗談を聞くみたいにへらへらと受け流した。

『えーでもさ、あぁいう場所行くのってどうせ陰キャばっかじゃん?絶対つまんないよ』
『俺らと遊んだ方がガチ百倍楽しいって。俺知り合いの超安いカラオケの店紹介できるし〜』

適当にあしらって消えてもらおうとしても、しつこくてなかなか取れない油汚れみたいに彼らは粘ってくる。私たちは気まずい視線を交わし合った。ダルいね、うちらが花山薫ならこんな奴らボコって終わりなのにね。JKってだけでナメられるから時々虚しくなるよね。でも…彼らが私たちと合わないことはよくわかった。ならばもう言葉は1つ。私が行きます、の意を込めて、アホ男3人衆をふっと見上げる。視線が合うと、私はなるべく離さないようにした。

「人間に勝手に明度つけて仕分けしてるような人と行くカラオケって、正直落語とか美術館よりつまんなさそ〜。行かないって言ってるのわかんない?」

いきなりバッサリ斬られて、彼らの表情が一瞬曇る。それはものすごく人間くさい顔だった。初めからその顔で来てくれたら、ここまでハッキリ言わなくて済んだのに。

「ていうか、そもそも君たち誰?」

海水よりもしょっぱい対応を受けて、彼らは『意外とキツ〜』なんてへらへら笑ったまま下がっていった。女たちは(よくやった)と顔を見合わせ、黒板の美術館チームの枠に自分たちの名前を入れた。
これで一件落着したと思っていたけど…現実ってあんまり上手くいかない。いつだって一難去ってまた一難。

アホ男3人組は結局、最後の方まで粘ってから落語の枠に名前を書いていた。しかし、一度屈辱を味わった彼らはタダでは戻らない。黒板にチョークで書かれた私の名前を、腕が当たったように見せかけてわざと消して、仲間内でくすくす笑う。

『おい、ちゃんと書き直せよ』
『あー。ごめんごめん、えっと…誰だっけ?』
『それはガチ性格悪いって。もう一回聞きに行って来いや』
『え〜怖い、俺絶対殺される』
『お前の方が怖いわ』

語尾に全部(笑)が付いてる彼らの馬鹿なやりとりをみんなは黙って見ているだけで、誰も別に咎めないでスルー。私も、特に反抗するつもりはなかった。ただ何も思わないで済むように、ガンジーのこととか、ピスピス動くうさぎの鼻とかを無理矢理思い出して、なんとか心を落ち着かせることに努めた。でも、やっぱりどうしても喉の奥が痛くなる。トゲのある言葉は吐き出すことを我慢すると、自分の身体の中を傷付けてしまう。

からかったターゲットに相手にされなくてやめ時を失ったのか、彼らはおふざけをいつまでも続ける。耳が遠くなっていて、あまり何を言われてるかはわからないのが少し救いだった。本人たちが飽きるか、先生が戻ってくるまで私は耐え忍ばなければならないのだろう、そう思っていた時だった。

ガンッ!!と体内にまで響くような大きな衝撃音でビクリと肩が上下する。黒板に誰かの靴が当たって、鈍い音をたてて床に落ちた。

何が起こったのか、誰もすぐには把握できなくて、笑い声がブラックホールに吸い込まれたかのような静寂が訪れる。
後ろの席の私は立ち上がった彼の背中しか見ることができなくて、今どんな顔をしてるのか知ることはできない。この目で確かに捉えたはずなのに、頭がひっくり返って信じられないような気分だった。

王子一彰が起こした、清流に石を投げ込むようなブーイング。それは波紋が広がるみたいに他の人の心を動かした。

黒板に向かって、あちこちから投げられた靴が教室内の空気を突き破る。空中を走るエアマックス、コンバース、履き潰されたローファー。明らかに校則違反のヨースケの厚底が勢いよく当たって黒板が少し凹んだ。あぁ…何これ意味わかんない。でも、今先生いなくて本当に良かった。
しばらくして砲撃が止むと、アホ男3人はすっかり静かになっていた。仲間外れにされたような、気まずそうな顔で俯いていてちょっと同情してしまう。結局この砲撃に参加しなかったのは彼ら3人と、私くらいだった。
靴を回収するためにわらわらと前の方に集まったみんなが、海外ドラマのフードファイトみたいだったと盛り上がってる。そんな輪の中には入らずに、主犯王子はチョークを手に取り、黒板に私の名前を書いた。なんと彼はその下に自分の名前も書き足していて、思わず「ついでかよ」って声に出して笑ってしまった。

**

美術館には、『瓶に絵の具を詰めてキャンバスに投げつけて描いた絵』とか、『ただただ大きなドーナツみたいな絵』が飾られていた。ひとつひとつを自分のペースで見たかったから友人たちには先に行ってもらい、私は時々解説を読んだり、『足で描いた絵』の前で立ち止まったりしながらゆっくりと順路を辿っていた。
かなり遅めのペースで進んでいたからか、色んな人が私の横を通り抜けて行った。けど、王子だけはいつまでも私を追い越さなかった。時々振り返って様子を窺うと、彼は作者の生い立ちとかそんなどうでもいい解説までわざわざ全部読んでいてなんだか大変そうだった。一緒に歩いたりはしなかったけど、明らかに変なポーズばかりを集めた人物クロッキーの展示の前で、一度だけ話しかけた。『このポーズ砂時計みたい』って言うと彼はかなりウケていた。なんとか声を殺して笑ってる王子の笑顔が子供っぽくて、この人は色んな顔で笑うなぁと思った。

展示を見終えた後、ロッカーに預けてた荷物を受け取ってから売店をうろつく。『足で描いた絵』のポストカードが160円で売られていて、砂時計人間のポストカードも見つけて、記念に1枚ずつ買うことにした。
私の会計が終わった頃、画集コーナーで何やら真剣そうな顔をしてる王子がいて、話しかけようとしたけどやめた。しかし彼が手に持っていたポストカードの絵柄は2枚とも、やっぱり私と同じだった。

現地解散だからこの後の時間の使い方は自由。友人とすぐに合流するつもりだったけど、彼女たちは私が遅いあまりにもう美術館の敷地を出て、周辺のカフェでお茶をしているようだった。行くかどうか迷って、とりあえず歩き疲れた私は中庭のベンチが空いていたからそこに座った。
周りを植物に囲まれたその場所に座れば、視線の先にちょうど謎の泉が見える。ほぼ裸の女の銅像が水を浴びて涼しそうだった。ちょっくらあの水に手でもつけてみるか…と思っていた時、王子が近くを通った。N極とS極が引き付けられるような不思議な力でパチリと目が合うと、彼は何も聞かず隣に来て座った。

何かまた全然関係ない話をするのかな…と期待していたけど、彼の切り口はいつもと違ってフツウだった。

「今日の芸術鑑賞で、なにか収穫はあった?」

その声はどこか、いつもより自信なさげだ。彼は何を遠慮してるんだろう。

「学んだり誰かの真似しなくてもできる。だって私の人生は面白い。スノッブは死ねって思った」

王子になら、図書だよりに書けないようなことでも言えちゃう。あははっと大きな口を開けて可笑そうに笑う彼をみてると、私も少し嬉しくなる。いつも通りに「王子は?」と聞き返せば彼は首を横に振った。

「今日見た展覧会、正直何がいいのか僕にはちっともわからなかった」

あんなに時間をかけても、どうやら王子の中で答えは出なかったみたいだ。あぁ…だからあんなに真剣に画集を見ていたんだね。取り溢したものをもう一度拾おうとするように。

「同じものを見ても、君と同じものは見ることができなくて…なんだか悔しいな」

なんて無理矢理っぽく微笑む彼を見てると、イヤホンを片方ずつしても私と彼は一生同じ曲を聴けないような気がする。何処かで似ているところがあったとしても、やっぱり感情の共有は難しいし、そんなことした所で何にもならない気がする。

「でも、ひとつわかったよ。君があんなに時間をかけてじっくり見てたのは作品の意味なんかじゃなくて、君自身の心の動きだったんだね」

だけど王子は、ストンと腑に落ちる解釈をする人だ。私はあまり他人を軸にして物事を考えない。でも王子は真逆で、他の人がどう思うか、しっかり考えてくれる人だ。
私には私のやり方があって、他の人にもそれは同じことが言える。そこに何が正解かと問うことだけが、たったひとつの不正解なんだと思う。

「王子は、王子にしか見えてないものを見てるよ」

彼が感じ取っていないだけで、心は動いてる。流れ星のような一瞬の煌めきは見逃してしまうことばかりだろうけど…たしかに光ったものなんだ。
あまり大袈裟に聞こえないような言葉で短く教えた。王子は、なんとなく力が抜けたようにへにゃりと笑う。

「僕の中はいつも、君のことばっかりだ」

するりと私の腰に腕を回して、彼はそのまま倒れ込むように抱き付いてきた。いきなりラグビーの捕まえ方を試すとは一体何のつもりだ。許さぬ、と振り払おうとした時だった。

「…大好き」

周りに人がたくさんいるカフェとか、教室でならその声は喧騒でかき消されていただろう。でもここは静かだから、よく聞こえた。

「……は??」
「大好き」

この人2回同じこと言った。戸惑いのあまりに「ちょいちょいちょい…」と彼の背中をバシバシ叩いて離れろと命じる。
上体を起こしてこっちを向いた王子は、言ってやったぞという満足感に溢れた表情をしていた。顔に好きって書いてあるように見えて、もしかして王子は今までこんな顔で私を見ていたのかな、なんて馬鹿っぽいこと考えてしまう。

「これって何?告白?」
「まぁ、そういうことになるね」

かなり間抜けな質問をしたのに、すぐさま頷いて肯定されてしまう。それじゃあ今度は私が何か、答えを出さなければならないのだろうか…。えぇ……なんで急にこんなこと言うのこの人。本当に意味わかんない。頭が狂ってるんじゃなかろうか。彼が靴投げた時みたいな衝撃音が私の中だけでしっかり響いた。

「えー……私は王子のこと、別にそこまでじゃないな…」

こんなこと言うの何だか荷が重くて、ひょろ〜と目を逸らしながらしか言えなかった。

「……当然だよ、僕が君に初めて話しかけたのは三ヶ月前だ」

意外に、王子の返事はマトモだった。不規則な私とは違い、彼の一定のリズムを保っていそうな心拍。

「いやそれ言うなら王子も私のことそこまでなんじゃ…」
「それは有り得ないな」
「そ、そうですか…」

揚げ足を取ろうとすればスッパリ躱される。どこから来るんだろう、この自信と謎の説得力。こういう時どんな顔すればいいかよくわからない。告白とか初めてされたし…居心地の悪さを感じて、この場から逃げるように立ち上がった。

「じゃあ、私帰るから」
「僕も」
「王子はダメ!一人で帰って」
「帰り道わかんなーい」
「絶対ウソだ!」
「ウソじゃなかったらどうする?」

…コイツ、私の良心を弄んでやがる。
結局こちらが折れて、駅までの道のりを王子と2人で歩く。信号待ちをしていると、近くのカフェからちょうど友人4人が出てきて最悪な気分になった。面倒くさい奴らに見つかってしまった…

『お2人さ〜ん、なにしてんの〜?デート中?』
『そこって絡みあったんだー』
『なになに?もしかして付き合ってんの?』

案の定からかう気満々で声をかけられる。にやにや軍団に囲まれて逃げ場を失うと、王子は私の肩を引き寄せて宣言した。

「ごめんねみんな、そういうのじゃないんだよ」

そうそう。そういうのじゃないんです。

「僕の片思い♡」
『キャーー!!!』
『エッッそれまじ!?やばーーーー!!!』
『なになになに!?どゆこと!?』
『もっと詳しく聞かせて!』

あぁぁ……もう駄目だ。こんなにもあっさりと情報漏洩。こいつ絶対スパイ向いてない。
結局その日はそのまま近くのマックに連行されて、聞かれた質問全てにノリノリで答える王子を、私はマックフルーリーを食べながら呆然と眺めていた。この男は私が思ってたよりもタフに生きている。

**

夏休み前最後の火曜日。放課後、図書室のカウンターで図書だよりを書く私の隣には、いつも通り王子がいる。

「王子って、なんで図書委員になりたかったの?」
「それ、もう書き終わったの?」
「うん」
「見せて」

そう言うと王子は書き上がった図書だよりをヒラリと奪い取り、リーディングタイムへと入ってしまった。…どうやら私の質問は後回しらしい。自分勝手な奴だな…と内心呆れながら筆箱にペンをしまう。机の上の整理が終わった頃、彼が満足そうな顔で紙を返してくれた。どうやらお気に召したようだ。召さなかったことなんて一度もないけど。

「借りる?」
「勿論」

自分が返却したばかりの本を、今度は彼の名前で貸出の手続きをしてあげる。手を動かしながら、さっきの質問をリベンジしてみることにした。

「王子、図書委員になる時私とじゃんけんしたよね。何で図書委員になりたかったの?」

聞けば、王子はうふふと可愛く頬杖なんかついて、ディズニープリンセスみたいな身動きを取る。ムカつく男だ。

「僕も図書だより、書いてみたかったから」

やはり彼も図書だよりドリーマーだったか。私の図書だよりにも興味津々だったし、そうじゃないかと思った。それならば、と先輩面で彼をそそのかす。

「書いてみたいなら、もう勝手に書いちゃえよ」

ディズニープリンスみたいに人差し指を立てて、ウィンクして提案する。今、私の指先から星が生まれたと思う。鼻で笑って目を逸らした王子には見えなかったのだろうけど。

「そんな、君みたいなことしないよ」
「あははっ、そうですか」

手続きを終えた本を彼に押し付けるようにして渡す。椅子に座り直して、頬杖ついて、なんとなく気になった彼の言葉をもう一度頭の中で再生して…カツン、と時間差で引っかかる。
私が去年から図書だより書いてたこと、王子に教えてない。

「もしかして、王子って……」

パッと彼の方を向いたタイミングで、手首を優しく掴まれる。

「偶然だった方が良かった?」

彼は獲物を捉えるように目を細めて、私を見つめる。

「でも君が『大切なものは手放すな』って、僕に言ったんだよ」

頭の中にあった点が、一瞬にして全部繋がってゾッとした。おい、誰か。助けてくれ。やばいことになった。

感覚に焼き付いて忘れられない瞬間に出会う。そこには大抵彼がいた。それは偶然では無かったようだ。
彼のせいで、私が愛しているモラトリアムな日々が崩れつつある。苦労の1年は、もうとっくに始まっていたのだ。

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