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砂漠で見たケーキの夢 【唐沢】


私が住んでる部屋は、六畳一間に小さなキッチンがついている。

5年前に前の仕事をやめてから、家賃が安いこの部屋に引っ越してきて、商店街のドーナツ屋でアルバイトをしながらのんびり暮らしている。
三門市立大学とその最寄駅との間にある商店街はいつも活気に満ち溢れているし、商店街の人たちは優しい人ばかりで、23歳の時に華々しくフリーターデビューを遂げた怪しげな私を仲間として暖かく迎え入れてくれた。ドーナツ屋のオーナーである正体不明のアメリカ人は履歴書なしで私を採用してくれたし、隣の花屋で働いてるお兄さんはパチンコの景品のお菓子とかポーチとかをよくプレゼントしてくれる。

毎日がゆっくりと流れていく今の生活を気に入っている。出来ればこの街でこのままのんびり暮らしていきたい。人並みに恋人でも作って、いつか家庭を持てたら…とは思うけど、大した人脈もないから今のところは『俺の息子を紹介してやる』と言ってくれた酒屋のおじさんだけが頼みの綱である。

鼻歌を歌いながら、今晩のメニューに使う食材を戸棚からガサゴソ引っ張り出していると、鞄の中に入れっぱなしにしていた携帯が「サマータイム」を奏でて着信を知らせた。私に電話をかけてくる人なんて、ただ1人。鞄に手を突っ込んで取り出し、ふたつ折りをパカリと開いて耳に当てる。

「もしもし」
「もしもし。そっちに着くの、18時頃になっても平気ですか?」

ガヤガヤと外の音が入り混じる中でも唐沢の声は一番近くに聞こえた。部屋の時計は現在17時半を指している。あと30分か…

「構わないけど…その時間ならまだご飯出来てないかも」
「手伝いますよ。今ちょうどスーパーにいるので、何か必要なものがあったらついでに買って行こうかなと」
「あー、それなら…ちょっと待ってね」

冷蔵庫の中身を確認して、使い切りそうだった牛乳と、今晩のメニューに加えたらハッピーであろうソーセージの買い出しを依頼する。彼が了解すると、「じゃあまた後で」と簡潔に通話を終えた。

元仕事仲間の唐沢とは毎週土曜日、一緒に晩ご飯を食べる関係だ。去年までは圧倒的に外食が多かったけど、私に自炊ブームが訪れてからは彼を家に招いて料理を振る舞うことが増えた。2人ともお酒を飲まないし、周りを気にする必要もないから、こちらの方が気兼ねなく過ごせる。

唐沢は年上だけど、前の職場では私の方が先輩だった。彼が時々敬語を使うのはそのせいだ。しかし、出会った頃から今に至るまで、彼が本気で私を敬ったことなんて一度もない。私のことを小学生だと思っている唐沢は、飲み物を買いに行かせるとオレンジジュースやカルピスを買ってきやがるし、渡す時は必ず「蓋開けられますか?」なんて見下して笑ってくる。もっと酷いのは、仕事で一緒になる度に「この仕事向いてないですよ」とか「早く辞めてください」とか面と向かって罵ってきたところだ。
正直相手にはしてなかったけど、彼が仕事を辞めるタイミングでとうとう私もそそのかされて人生進路変更の舵を切ってしまった。そのことがきっかけみたいになったからか、もしくは一人暮らしの小学生を放って置けないのか、彼は何かと生活のことを気にかけてくれている。週末一緒にご飯を食べるのも、生存確認みたいな意味があるのかもしれない。

「お邪魔します」
「どうぞ〜」

唐沢は言っていた通りの時間に訪れた。今日は仕事の後にわざわざ着替えてから来たらしく、黒のスウェットにグレーのスラックスを合わせたラフな装いだった。しかし、あのトップスがマルジェラの服だということを私は知っている。セレブめ…
彼はスーパーの袋とは別に、モロゾフのプリンが入ってると思しき箱を手土産として持って来た。これぞ来客の手本。抜かりない男だからきっと、プリンもスタンダードタイプではなく、私の大好きな『とろ生プリン』だろう。慣れた足取りで家に上がり、買って来たものを冷蔵庫に入れ始めた彼の背中をぼーっと眺める。…不思議だ。引っ越した当初は大きすぎると思っていた冷蔵庫が、今は小さく感じる。

「牛乳は今使う?」
「あ。使いかけがあるから、まだ大丈夫」

急に話しかけられてハッと我に返る。早急にご飯を作るべきだ。今夜のメニューはライスペーパーを使って作るロゼトッポギ。予習はバッチリ。以前YouTubeでレシピを見てから、いつか作ろうと思って材料も揃えていた。
まずはトッポギの生成に取り掛かる。ライスペーパーをお湯に浸してくるくる巻く作業は楽しそうだから、唐沢にも手伝って貰うことにした。

「これ、もしかして生春巻きの皮?」
「うん。こうやってチーズとかソーセージ入れて巻くの。煮ると皮がもちもちになるんだって」

台所に並んで説明しながら、ライスペーパーを食べやすい大きさに畳んでくるくる巻いていく。彼も私の手元を見ながら、同じようにくるくるする。中々器用な手つきである。

「コチュジャンでちょっと辛い味付けにするんだけど、生クリームも混ぜてまろやかにするの。ロゼトッポギって言うんだって」
「へぇ…ハイカラだね」
「あはは。お年寄りみたい」
「君から見たら、俺ももうおっさんかな?」

『お年寄り』が頭にきたのか、それとも面白がっているのか、わざわざ顔を覗き込んで質問してきた。こういうところがウザいんだよなぁ…根に持たれると面倒だから「唐沢は昔と変わらないよ」と誤魔化してライスペーパーを巻き続ける。
彼は私をからかうのが生き甲斐みたいな奴で、よく試すようなことを聞いてくる。初めは真意がわからなくて振り回されていたけど、加減を覚えてからは適度に受け流せるようになった。ハラスメントには負けねぇからな、唐沢。
そんなこんなで出来上がった具材とソースをくつくつ煮込み、あっという間にロゼトッポギ完成。簡単にサラダも作って食卓に並べた。

「いただきます」
「いただきまーす」

いつもの定位置に向かい合って座り、手を合わせた唐沢に続いて私もいただきますを唱える。真っ先におかずを食べた彼から「美味しい」を頂くと、まだサラダしか食べてない私までにんまりしてしまう。
まろやかな甘辛ソースと、もちもちのトッポギの相性は抜群で、初めてのロゼトッポギは大成功。

「君の作った料理を食べるようになってから、食べれるものが増えた気がする」
「ほんと?それって私がすごいってこと?」
「そうだね。レストランを開くか、もしくは良いお嫁さんになれるんじゃないか」

にっこりと、いい笑顔でさらりと褒められた。しかし後半はアラサー独身女からすると笑って流せない話題だ。まさか彼は自分のことを棚に上げて私をからかっているのかな。

「結婚の話題はやめなさ〜い」
「そういえば、酒屋の息子と…って話はどうなったんです?」
「それ多分おじさんが勝手に言ってるだけだもん。息子に会ったことすらない」
「あぁ、そうなんだ」

わかってはいたけど、自分で言葉にすると結構哀れになる。話しながら食べていても彼は相変わらず綺麗な箸使いで、変な箸の持ち方をする自分とは色々な面で差があるように思えてならない。
こんな風にコンプレックスを感じたり、もやもやするのも私の素直な感情だから拒みたくないけど…やっぱり、今より良い自分になれるのは、他の人に認められた時じゃなくて、自分で自分を認めることができた瞬間なんじゃないかと思う。

「でも、今のままでも充分幸せだから…結婚とか、そこまで欲張らなくてもいいかなぁって気持ちもある。ご飯美味しいし、独身でも元気に生きてる唐沢がいるし」

幸せの中にいる時には幸せを忘れてしまう。多くを望まなければ、ずっと心地良く暮らしていける気がする。このまま安全運転で生きていきたい。
黙って話を聞きながら、彼は私の考えてることなんて全てお見通しだという風に意地悪く微笑んだ。

「俺が先に結婚するって言ったらどうする?」
「…え、するの?てか恋人いたの?」

突然のカミングアウト、驚きのあまりに背筋がピンと伸びる。驚く私に、彼は落ち着きたまえと目で語りかけながら「例えばね」と付け加えた。

「ってことはいないんだね…」
「煽ってる?」
「滅相もございません」

笑顔で睨まれ、余計なことを言ってはならないと即座に感じとる。彼はからかうのは好きだけど、からかわれるのは嫌いな一番タチの悪いタイプだ。
しかし。今まで考えたことなかったけど、唐沢が結婚する日だっていつかは訪れるかもしれないのか…何の根拠もなく、結婚とかしないだろうと思っていたけど。……コイツにご祝儀出すのちょっと嫌だなぁ。

「おめでたいことだから祝いたいけど、先越されるのはちょっと悔しいかも」
「…へぇ〜そうですか」

素直に思ったことを言えば、それが伝わったみたいで唐沢は満足そうに微笑んだ。彼はいつの間にか箸を置いて、頬杖をつきながらこちらをじっと眺めている。そんなに私と話すのが楽しいですか。へぇ〜そうですか…

「でも結局、その時一番喜んであげるのも私だと思うよ」
「そんなに喜んでくれるんですか?」
「うん。あの唐沢がやっと誰かと一緒に幸せになれるんだって思うと、やっぱり感動するものがあるよ」
「俺のこと何だと思ってるんです?」

反応が大袈裟すぎたのか、彼は眉を下げて笑う。自分の幸せのことを冗談みたいに話すから、いつか本当にそうなればいいなぁと、彼の代わりに私が願うことにした。
美味しいご飯の匂いと、ふんわり暖かい雰囲気が部屋の中を包み込んでいた。それなのに突然、彼は安全地帯を破壊するようなことを言う。

「でも、もし逆の立場なら…俺は喜べないと思いますよ」

驚いた。今そんなこと言える空気じゃなかったはずなのに。口には出さずとも互いの健闘を心の中でそっと祈ってると思ってたのに。とんだ裏切りである。

「…びっくりした。え、なんでいきなりそんな酷い奴になるの?」
「だって、今まで散々大事にしてきたのに他人に横取りされたら頭にきません?」

ね?って、いきなり、なんの同意を求められてるのかわからない。今のって、私が先に結婚したらムカつく理由を言ってるんだよね。それなら…彼は、選ぶ言葉を間違えてるように思うけど。

「あはは…なんかそれだと唐沢が、私と結婚したいって思ってるみたいに聞こえるよ」

「違います」って言われるのを待ち構えてたのに、彼は真剣な面持ちのまましばらく黙りこむ。たまらず私が首を傾げると、ふっと笑って真似をした。

「そう思ってたら、おかしい?」
「……え?」

いや、おかしい。すごくおかしいと思う。でもそんな風にはとても言い出せない空気で、視線がオロオロ泳ぐ。この話もうやめよう。せっかくの料理も、さっきから放ったらかしだし。

「………あの、ご飯、冷めるよ」
「はい。また後で聞きます」
「…え、…えっと…聞かないで」

狼狽えるあまりに箸を持った手で顔を隠せば、彼は何故かいっそう上機嫌に微笑み、顔を隠した手を掴んで、ぐいぐい外そうとしてきた。食事中にこんなのってないよ。行儀が悪いにも程がある。

とうとう手を奪われて、視線が合う。急に静かになった部屋の中でただ、自分の鼓動だけが聞こえる。笑ってるのに真剣な目で、彼はついに核心に触れた。

「食事中にすみません。俺と結婚しませんか」

な…なんだそれ。そんな前置きでプロポーズする奴があるか。ていうか、この人……なんでプロポーズしてるの?

「か…唐沢って私のこと好きなんですか…?」
「はい。それはもう、めちゃくちゃに」

聞けば聞くほど意味がわからなくなる。カレンダーで日付を確認したけど、エイプリルフールじゃなかった。お…おかしい。新手の結婚詐欺かな。でも今まで、唐沢が私に嘘をついたことは、ない。だとしたら…

「…本気?」
「本気」
「……唐沢」
「はい」
「………100歩譲って、本気だとして、…何で今?」

私が知ってる唐沢は、賢くて、計画的で、勝算がないことは言わない。この後とんでもない脅しでも仕掛けて畳み掛けてくるつもりなんじゃないだろうか。身の危険を感じて、さりげなく後退する。どう考えても無駄な抵抗である。

「そそのかすなら、今かなと」
「流石に私でも、そんな一大事をそそのかされて決めるわけないよ?」
「仕事は一緒に辞めてくれたのに?」
「た…たしかに」

警戒してたはずなのに、手のひらを返すように納得させられる。彼の運びが上手いのもあるかもしれないけど、きっと私の中での唐沢の存在が大きいというのも、そそのかされてしまう要因のひとつだろう。結局はコイツについて行けば間違いない、という絶対的な信頼感がある。

「結婚すれば毎日話し相手に困らないし、ご飯も一緒に食べられますよ」
「それはいいね…」
「貯金もあるし、苦労はさせない」
「良い話だ…」
「コストコで馬鹿みたいに大きいケーキも買えます」
「最高じゃん…」
「そうでしょ?」

やばい。完全に結婚する流れになっている。一旦落ち着こう。メリットばかりじゃなくて、デメリットのことも考えなくちゃ。

「でも唐沢と結婚したら、他の人とはもう結婚できないよね?」
「俺の他に候補でも?」
「い、いませんね〜…」

秒で撃沈。そういえば私、唐沢以外に仲の良い男の人いないんだった。言いくるめられたところで、彼が鞄から1枚の紙を取り出す。

「よし。じゃあ決まり。サイン貰えます?」
「ど…どこから出てきたの?」
「はは。用意周到な男なんでね」

し、しごでき〜!
ゴチャゴチャ考えるのはやめて、とりあえずボールペンを探す。たまにはノリで入籍してみるか。また言いなりみたいになってしまったけど、彼の船になら乗ってみても良いかもしれない。それに、大きなメリットがもうひとつある。唐沢と結婚すれば、ご祝儀をあげなくて済む。
テレビの横にあったフリクションペンを握りしめて戻ってくると、何も言わず別のボールペンを渡された。せっかく持ってきたのに…

「漢字、間違えないでくださいね」
「相変わらずナメてるね〜」

マジで扱いが小学生だ。失礼な奴め。注意を聞き流し、さらさらと調子良くペンを滑らせていると…

「あ」

生年月日の欄に書いてしまった今日の日付を見て、思考が停止。まずい、やらかした。

「今日生まれたんですか?」
「……もう一枚ある?」

首を横に振られて、自分が想像を上回る馬鹿であることを改めて実感する。私ってやつは…本当に。こんな時までミスするなんて。
こんな奴とずっと一緒にいたら、呆れることにすら飽きて、もはやムカついてくるだろうに。唐沢は見離さずに、何百回目の失敗でも笑って許してくれた。

「後で一緒に、新しいの取りに行こうか」

私にはこの人なんだろうな、なんて今さら思うのは単純だろうか。いや、でもきっと無意識に、私も彼を選んでいたのだと思う。普通なら誰かにそそのかされたくらいで仕事辞めないし。

「こんな私ですが、どうぞよろしくお願い致します」

向き直って、いつもより丁寧に頭を下げる。このあたりで誠意を見せておかないとね…そんな小賢しい思いが見え透いているのか、ふっと小さな笑い声が聞こえて、自分の手に暖かい手のひらが重なった。目が合うと、彼は優しい表情で目を細める。

「はい。末永くよろしく」

手をそっと握りしめて、週末一緒にご飯を食べるだけの関係に区切りをつける。

普通の仕事をして、普通の生活を送り、普通の1日を繰り返す。特に何も無い砂漠を歩き続けるような人生でも幸せで、満足できるはずだったのに。彼が突然、コストコに連れて行ってくれるとか言うから、夢を見てしまった。
本当に連れて行ってくれるんだろうな?馬鹿みたいに大きいケーキとかピザをカートに入れても、「食べきれないでしょ」とか無粋なことは言わせない。大きい冷蔵庫を買って、中身をいっぱいにしたい。そしたら毎日美味しいご飯を作るから、一緒に食べよう。私が彼にあげる幸せは、そんな幼稚なものだけど、いいかな。

想いを馳せてるところでふと彼を見てみると、没になった婚姻届を眺めてにやにやしている。

「っふふ、お誕生日おめでとう」

まだ煽ってくるのか。唐沢は私の手を掴み、パチパチと強制的に拍手させる。キャンセルって今からでも遅くないかな?まだサインしてないからセーフ?

「唐沢ムカつく」
「今日から君も唐沢だけど」
「し、しまった!はめられた〜!」

重大なミスに今更気が付いて、頭を抱えてうずくまる。そのみっともない姿がよっぽど面白かったのか、彼は珍しく大きな声を上げて笑った。彼にそそのかされて、私は何度でも生まれ変わる。

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