見出し画像

因数分解してみたい 【犬飼】


「だからさ、ここはこの式を使うんだって」

彼は半笑いで私の手元を覗き込み、トントン、と公式を指し示した。
昔、誰かが苦労して導き出した偉大な公式ってことはわかるけど、やっぱり私の目には数字とアルファベットが仲良く手を繋いでいるようにしか映らない。

「その式はなるべく使わない方向で。私まず因数分解がわかってないので」
「それは仕方ないね。もう勉強なんかやめちゃえ」
「おっけ」

授業開始からものの数分で本日の犬飼塾終了。
無駄に開いただけのテキストや教科書を閉じて鞄に詰め込んでいると、向こうの席でカレーを食べていた水上がいきなり立ち上がってこっちに来た。

「待て待てお前ら止まれ。流石にそれはないわ。あのな犬飼、教えるんやったら中途半端に甘やかしたらあかんで」

バンッと片手を机に叩きつけ、説教の勢いで語りはじめた水上に犬飼は薄っぺらい笑顔を向ける。

「なに?水上いたんだ」

『呼んでないんだけど。向こう行ってくんない?』って副音声が今にも聞こえてきそう。犬飼ってこういうとこあるよね、良くないよね。私も最初の方はこの顔をよく向けられたよ、と水上に送る同情。

「おぉこわ。え、なに?お前ら付き合ってたっけ?」
「付き合った過去もなければ現在付き合ってもいないしこれから付き合うような未来もない」

聞かれ慣れた質問を全否定砲で迎撃すれば、次は水上が犬飼に同情たっぷりの視線を投げ掛ける。

「なんかごめんな、犬飼」
「いや何で俺に謝んの?」

語尾に笑、がつきそうな笑顔だけどいつもより威圧のレベルが格段に高い。ていうかそれよりも態度悪いなこいつ。

「何の話してたか忘れそうになるわ。とにかくお前はもっと危機感持て、高3の期末で数学5点はえぐいて」

水上がちょっと前に学校で話題になった、マジで笑い事じゃないけど笑うしかない私の伝説を持ち出してもう一度話を戻す。言葉には若干面白がっているような気配も見え隠れしているけど、普通校組のよしみで何かと気にかけてくれているのだろう。

「逆にこれ何の5点?って思ったよね」
「ほんまな。必修科目やし、このままいったら卒業危ういで、自分」

…ん?何か初めて聞いた感じの語句が。へらへらしていた顔が一気に引き攣る。

「え、数学って必修なん…?」
「よおそんなんで高3なれたな」

やれやれ、と水上が額に手を当てて溜息なんかを吐くものだから、いきなり湧いて出た不安な気持ちがじわじわと心を侵食する。

「え、やばい。え、聞いた?犬飼、私やばいかもしれん」
「面白くなってきたじゃん」

感性こわ。マジでよく考えてみれば私と犬飼どっちもマトモじゃないな。こいつは頼りにならんと犬飼のことは見捨てる気持ちで水上に向き直る。

「水上、私どうすればいいと思う?もう自分を信じれなくなる一歩手前まで来てるんだけど」

あわよくば教えを乞おうという下心が見え見えだったのだろう。水上はすばやく先手を打つ。

「先に言うとくけど俺は勉強教えたりすんの苦手やから」
「はい嘘〜!私に教えたくないだけ〜!」
「なんでそんなとこだけ勘いいねん。とにかく、卒業したいんやったら自分でもっと良い家庭教師探すことやな。まぁ俺は手伝わんけど」

それだけ言うと、ひらりと手を振って引き止める隙さえ与えずに離れていった。え、このまま去るとかただの不安を煽るだけのキャラじゃん。水上やば。いや、もっとやばいのは私の現状。わりとガチめに、そろそろ冗談言ってられなくなってきた。

「犬飼、私やっぱり因数分解やってみる」

思い切って宣言すれば、犬飼は私を計るようにじっくり見つめた。

「教えようか?」

一瞬頷きそうになるけど、やっぱり犬飼にばかり頼るのも良くないなと思い直して首を横に振る。

「ううん、とりあえず自力で倒す。わかんなかったら調べるし」

だから今日はもう帰るね。
鞄を閉めて、改めて今日のお礼を言うために向き直る。彼は一緒に帰る気配すら見せずただ机に顎をつけて項垂れていた。

「なに〜?じゃあ俺は事実上クビってこと?」

へらへら笑うけど、本当は笑っていないのがわかる。
心の隅っこにポツリと現れた小さな罪悪感をすぐさま押しのける。彼が望む言葉は言わない。

「クビ!」

もし、私が犬飼みたいに優しくなれていたらもっと違う言葉が出たかもしれない。でも実際の私は犬飼みたいに優しくなれない。
だって、ネタにもガチにもならないしそんな顔されてもどうしていいかわかんないよ。

「でも本当に困った時はまた頼るかも。だから犬飼も私のこと頼っていいよ。助け合うスタンスでいこ」

いつも気持ちが遠回りしちゃうけど、それでも君は私の大事な友達だ。それだけでも、伝わってるといいな。

「ん…じゃあ早速一個いいですか」
「はい、犬飼くんどうぞ」
「会う口実が減って困ってまぁす」

ちょん、とお互いの指先が触れて反射的に手を引っ込めた。勢いのままに立ち上がる。

「解決できないこともあります!解散!」
「まじでそのうち訴えるよ」

まさかのガチトーン。やばいな早く逃げなくちゃ。大袈裟に手を挙げて「帰って勉強します!」と高らかに宣言する。

「…まぁ、頑張ってみなよ」
「頑張る!犬飼ありがとね」
「ん」

少しだけ微笑んでくれた犬飼に手を振って、早足にその場を去った。
振り回してるのに文句も言わず見送ってくれる彼は本当に人間として出来ているし、振り回してる上に成績も悪い私はなかなか終わってる。

とにかく因数分解くらいは自分だけで出来るようになろう。次会った時には自信満々で解の公式を唱えてやる。きっと犬飼は形だけでも「頑張ったね」って褒めてくれるだろう。
そしたらちょっと調子に乗って、「高校卒業したら何になる?」そんな話をしてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?