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青い烏 【烏丸】

「もしもし」
「もしもし」

繋がった時の一言目は宇宙人の交信に似ている。
夕方18時、駅前の宝くじ売り場の前から飛ばした電波がどっかの烏丸京介に引っかかる。時間帯からして多分今はバイト前だろう。忙しい人に回りくどい言い方はマジで通じないから、ハウアーユーなしで用件だけを伝えることにする。

「今日泊めて」
「駄目だ」

反射反応のように返ってくる拒否の言葉。しかし、ここまでは想定内だ。この壁を乗り越えるための手札はちゃんと準備してきた。

「頼むよ、お金ないの」
「お母さんに話したのか?」
「あー、貰うには貰ったんだけど…」
「何に使ったんだ」
「烏丸の家に持っていくドーナツ買った」

聞いた瞬間に彼は向こうで小さくため息をついた。クリスピークリームのシーズンスペシャルBOXには、子供や女子が大好きなカラフルで可愛いドーナツが20個も入ってる。今、私の左手にあるこれは持ってるだけで幸福な気分を味わえる魔法の箱なのだ。そして、烏丸はこの手の差し入れに弱い。

「…家に弟たちいるから、入れてもらえ。俺は10時過ぎに帰る」
「わかった。ありがとう」

返事に満足してこちらから電話を切る。今回も上手くいってよかった。携帯をポケットに入れてから、もうすっかり覚えてしまった烏丸家までの道のりをすいすい歩く。
ランドセルを背負った下校中の小学生とすれ違って、買い物帰りの主婦が乗る自転車に追い越されて、烏が電信柱の上の方で一羽、鳴いているのを見た。スニーカーについた汚れさえ、ほんのり夕焼け色に染まる時間。一人で歩いてる時は心がシンとして、音が無くなる。それでも目に飛び込んでくる世界の色は、どうしてこんなに綺麗なんだろう。

**

「ただいま」

夕飯食べてお風呂も入って、キッズたちの宿題チェックも終わり、そろそろ寝る準備しようか〜なんて言ってた頃、ようやく烏丸家の長男京介が帰宅した。弟妹たちのフルパワーお出迎えに乗じて、私も「おかえり〜」と声を掛ける。彼はこちらを見て頷いた後、すぐに弟たちと目線を合わせて何やら話し始めた。

「お前たち、まだ起きてたのか」
『きょーすけが帰ってくるのまってた!』
『おかえり〜』
「あぁ、ただいま。ご飯ちゃんと食べたか?」

群がるちびっ子たちと、頭を優しく撫でて構う兄。その様子を少し遠くから見守る。

『ママのしょうが焼きとねー、たまごのふわふわしたスープ!』
「美味そうだな」
『おいしかった!』
「そうか。よし、もう布団敷いて寝る時間だぞ」
『えぇ〜あした学校ないのに?』
「早く寝ないと背が伸びない」
『お兄ちゃんはいつも寝るのおそいのにおっきいじゃん!』

あはは、激論破されてる。そうだよね、この人いつ寝てるんだろうってくらい活動してるのに身長高いよね…小学生すら疑うほどの説得力の無さに密かにウケていると、烏丸が助けを求めるようにこちらをギロリと見つめてきた。それは人に物を頼む時の目じゃないけどね…

「ねぇみんな〜早く寝たら早く明日になるよ。朝食はドーナツだし、早起きした人から好きな味を選べる」

これでなんとか説得に成功。
みんなで協力して、居間の隣の和室に縦横2×3で計6枚の敷布団を敷いた。私が泊まりに来た日はいつも、こんな風に和室の床いっぱいに布団を敷き詰めて、みんな同じ部屋で寝る。隣り合う辺同士がくっついた布団はまるで、1つの大陸みたいで心強い感じがした。障子に一番近い端っこが私の陣地で、頭合わせで反対側が烏丸の陣地。一番年下の子が真っ暗闇だと怖くて眠れないから、常夜灯を点けたままみんな布団に潜る。ご飯食べたりお風呂に入ったり、烏丸にはまだやることが残っていたから、おやすみは彼抜きの5人で言った。
夕飯美味しかったなとか、バスタオルふわふわだったなとか、目を閉じて考える。物思いしながら線路沿いを歩いていった先に夢の世界はあって、いつも気が付けばそこに立っている。
どうしてかわからないけど、この家でこうやって寝た時は必ず優しい夢を見た。オルゴールの音色みたいに心地よくて、暖かいスープを飲んだ時みたいな気持ちになれる夢。家の中に溢れてるオレンジ色の光が、目を閉じても染みてくるようだった。

**

物音に意識を引かれて夢から覚めると、障子を通してぼやっとした明るさが目に入ってきた。もう一度瞼を閉じて夢の続きを見てもよかったけど、まだ空っぽの寝床があることに気付いて身体を起こす。時計を見ると、夜中の12時を回った頃だった。
布団からそっと抜け出して、なるべく音が立たないよう障子を開ける。居間にあるちゃぶ台に小さなノートを広げて、烏丸は何やら考え事をしている。私が後ろ手で障子を閉めた時の小さい音で、ようやくこちらに気が付いた。

「眠れないか?」
「ううん。さっきまで寝てた」

近付くと彼は、ぱたりとノートを閉じていつもの鞄に入れる。見ちゃ不味かったかな…と寝起きの頭でぼんやり考えてると、「ここ座れよ」って相席を促された。

「冷たいお茶か、暖かいのどっちがいい?」
「冷たいの」
「ん、わかった」

2人しかいない部屋はすごく静かで、冷蔵庫を開ける音がやけに懐かしく響く。グラスに注がれた冷たい麦茶が到着し、私たちはちゃぶ台を挟んで向かい合って座った。

「一気に飲むなよ」
「うん、ありがとう」

グラスを持ち上げた時にひたりと手に水滴がついた。ひとくち飲むと、冷たい水分が身体の管を通って落ちていくのがいつもよりハッキリわかった。

「スープ、美味かった」
「え、私が作ったって何でわかったの」
「なんとなく、味で」

…そうか。この前、調理実習で作ったやつと同じレシピだったからバレたのかな。でも言わなかったことを気付いて貰えるのは、すごく嬉しい。
烏丸はきっと、私が自分の家に居辛いことにも気付いた上で、何も聞かないで泊めてくれたのだろう。そんな彼の優しさは私にとって、言葉にできないくらい有り難いものだ。けれど、何の見返りも渡せないのに、その優しさに甘え続けている自分のことは少し…許せないなと思う。心遣いにいつまでも甘んじて、彼に心配をかけ続けるわけにはいかないよな…
やんわりと足を崩して座りなおし、目の前の表情を窺う。何も考えていないようで考えている、そんな顔だった。

「今日はママの彼氏が家に来るから…友達と約束してるって嘘ついて逃げてきたの。最初はネカフェとかカラオケに行くつもりだったんだけど、最近どこの店も年確厳しくて。気付いたらドーナツ買ってた」

落ち着いた調子で告げると、彼も「そうか…」と、一息ついて視線を外す。感謝しているし、申し訳ないとも思っているけど、『ありがとう』も『ごめんね』も相応しくない気がして口にすることができない。そこからは何も言えずに、机の木目を眺めてた。

「変な顔するなよ」

なんとなく笑ってるような声に釣られて顔を上げた時、烏丸はこちらを見ながら「仕方ないな」っていう風に眉を下げて、優しい顔をしていた。笑われるなんて微塵も思ってなかったからポカンとしてしまう。変な顔って…それ私のこと?

「いや、してない」
「してる」
「してないよ。どんな顔!」

落ち着いてたつもりなのに、彼が揶揄うからついムキになってしまう。思ったよりも声が大きくて、人差し指を口に当てた彼が障子の方に目配せした瞬間、あっ。と思った。そうだ。向こうでキッズが寝てるんだ。

「ご…ごめん。してたのかも」

主張を一転、手のひら返しで容疑を認める。そしたら今度は堪えきれずに、彼は自分の腕に顔を埋めて笑う。…もう何か、揶揄いもここまでくるとムカつかない領域まで達する。彼の笑いが治るまで黙って見続けてやる。

「はー…笑った笑った」
「満足したかな?」
「いや、もう少し」
「おいコラ」

あー、もう。多分全部見透かされている。『気にされてるだろうから仕方なく』みたいに自分の中で勝手に言葉を作り替えて話したけど、根っこにあるのは、『聞いて欲しい』という気持ちだけだった。
自分の欲求を人のせいにするなんて、傲慢にも程がある…恥ずかしい。あー、どうせ今、私が猛烈に狼狽えてることさえバレてるのだろう。だから笑ってるんだよね。そんなに、見たことないくらい面白そうに。くそ。やっぱり、コイツ……ムカつく〜〜!でもこの羞恥を態度に出してぶつけてしまえる程、子供にもなりきれなくて…一度咳払いして気持ちを切り替え、冷たいお茶を飲んでからやり直すことにした。

「本当は…悩みがあって。それをずっと誰かに…いや、出来れば烏丸に聞いて欲しかったの。心配とか別に、されてなくても」

こちらをじっと見つめる彼の目に曇りはなくて、『自分で自分を誤魔化すな』と言われてるみたいだと感じる。

「心配はいつもしてる。どうでもいいと思ってたら家に入れたりしないだろ」

声を出さずにただ頷いて、貰った言葉を抱き締めた。

「で。その悩みは今、話してくれるのか」

彼は期待するように目を細めて頬杖をついた。それが全然、今から悩み相談を受けるって人の表情じゃなくって…そんな小さなことに、心が救われる。

一番初めのきっかけは本当にくだらなくて、ちっぽけなことだった。でもあの時、電話を取ってくれたのが彼で良かった。

私はひとつひとつの思い出を吐き出すように、話始める。

「四年くらい前、ちょうど近界民が街に現れるようになった頃。私のパパが急に居なくなって…パパは近界民に連れていかれちゃったんだって、ママにはそういう風にずっと聞かされてたの」

夢ならすぐ忘れてしまうけど、現実の光景は忘れようとしても記憶にべったり張り付いて取れない。

「でも、半年くらい前。隣の市のショッピングモールに行った時、パパを見つけた。四歳くらいの子供と、お腹の大きい女の人と一緒に手を繋いで、買い物してた」

何年も会ってないとはいえ、実の父親を見間違えるはずなかった。まるで事故のように直面した真実。パパは拐われたのではなく、私たちがパパに捨てられたんだと、ハッキリ言われなくてもわかった。

「パパはもう死んじゃったんだって、自分に言い聞かせて諦めたフリしながらも、心のどこかでそっと…また戻ってくるんじゃないかって信じてた。でも実際に生きてるパパを見た時、いっそ死んでくれてた方がマシだったなって、思ったの」

母親の優しい嘘すらも傷になって、“父親を亡くして可哀想な自分”が、“父親に見捨てられて惨めな自分”に変わった。自分の心の中でだけ静かに、信じ続けていた光を失った。

「人の気持ちはこんなにも簡単に変わるんだって自分の中でも感じて、色々疲れちゃって。そしたらこのタイミングでママが今の彼氏と再婚したいとか言い出して、もう家庭の空気最悪。最近は家に居ても心が休まらなくて、息苦しい」

自己満足で書いたつまんない純文学みたいな愛憎劇を無理矢理見せられて、愛なんてクソだと思った。
人間が正しいことだけして生きていられないなら、真実の愛なんてあるはずない。あるのはただのブームだけ。自分たちに都合の良い言葉を信じて勝手に盛り上がって、どんちゃん騒ぎに巻き込まれるのはもううんざりだ。私はこれ以上、傷付きたくない。何も失いたくない。

限界まで吐き出した言葉は何も繕えなかった本音ばかりで、幼くて、情けなかった。こんなこと聞かせてもどうにもならないのはわかってるのに、聞いて欲しかった。
話すのをやめて、そっと表情を窺う。烏丸は笑ってもないし、哀れんでもいなくて、ただ平然とした顔で1つだけ質問をした。

「お母さんの彼氏って、どんな人なんだ」

着眼点そこ?あまりにも突飛なことを聞かれたから目がころんと落っこちそうだった。

「…そんなの、知らないよ。会いたくないから避けてるし」
「それは良くないな」
「え?」

こちらはまだ全然話の意図について行けてないのに、烏丸はやけにキッパリと言い放つ。

「ぽっと出にやられっぱなしでいいのか。どんな奴かも知らないままじゃ文句の一つも言えないだろ」
「そんな大袈裟な…」

夏からいきなり冬になるような話の転換だと思った。…でもよく考えてみれば、彼の言うことは大袈裟ではない。私はママの彼氏のこと全然知らないけど、1ミリも良いと思ってないし、むしろ不満しかない。

どれだけ言葉を濁しても彼には伝わっていて、言語化できない気持ちまで読まれているみたいだ。どうして今更、烏丸にこんな話を聞いて欲しくなったのか、なんとなくわかった気がする。彼に話せば、ぼやっとした悩みの輪郭がハッキリする。

「たしかに、何かムカついてきた。何でママの彼氏が私の家で泊まって、私が家から出なきゃいけないの?絶対おかしいよね。大人なら空気読んで遠慮しろよ」
「そうだそうだ」
「ママだって、私が嘘ついてることにも気付かないで彼氏にばっかり夢中になって…馬鹿みたい。どうしてそんな簡単に、また他人のこと信じようって思えるの?パパに空けられた穴埋めるのに必死かよ」
「全くだ」
「適当な相槌ムカつくんだけど!誰だお前!」
「通りすがりの者だ」
「何か言いたいことある!?」
「やられたらやり返せ」

烏丸の話は、最初は絶対に変な道を通ってると思っても何故だか上手く繋がって、収まるところにきちんと収まる。
ピダコラスイッチのレールに乗った私は、超大作のドミノを倒して、目から鱗を落としながら、数々の奇想天外な仕掛けをひとつ残らず発動させるまでは止まれない。
でも止まれずに転がり続けることは、何もしないまま停滞することよりは怖くない気がした。烏丸が無責任でも私の背中を押してくれて、味方になってくれたから、やってやろうじゃないかと思えた。

**

次の日、私は伊達眼鏡に帽子という漫画みたいな変装をして、烏丸と共にとある二人組を追っていた。そう。私のママとその彼氏だ。
敵(ママの彼氏)の本性を暴くために実行した尾行作戦。朝から家の前で張っていると、張り込み開始からほんの数十分で二人は家から出てきた。
初めて見たママの彼氏は、ひょろりとした背の高い男だった。服装は無地のワイシャツとスラックスに、小豆色のおじいちゃんみたいなカーディガンを羽織っている。どうやら若作りしたり格好つけるタイプではないようだ。でも靴だけは焦茶色の綺麗な、プレーントゥの革靴を履いていた。ママからは同年代の人だと聞いていたけど、どう見ても年上に見える。
なんていうか…拍子抜けだな。もっと、おしゃれな髭はやして、スキニージーンズ穿いてるような胡散臭い奴を想像してたけど、全然違う。職員室でお茶飲んでそうな覇気のない男だ。

「悪くないな」

同じく、敵の姿を目にした烏丸は顎に手を当てて頷く。この野郎…早速敵側に靡くとは何事だ。

「君は何のために付いてきたと思ってんの?」
「尾行のカモフラ役として?」
「違う、私たちは奴の化けの皮を剥がしに行くの。情をかけるなんて言語道断!良心は捨てろ。人は見た目で判断できない!」

そんな風に時折、相棒に喝を入れたりしながら二人の後を尾ける。こそこそせずに堂々と、一定の距離を保ちながらしばらく歩いた。

駅の方まで来ると、二人は大通りからひとつ外れた、普段通らないような筋を進んでいく。準備中の居酒屋や古いアパートが並ぶ路地を抜けると、ある一本の通りに出た。そこは未踏の地、昼下がりのラブホ街だった。自分の頭に血が昇っていくのを感じる。

「あいつらぁ……!」
「どうどう、まだそうと決まったわけじゃない」

今にも煮え繰り返りそうな私を烏丸がなだめる。私がもしピカチュウなら、あの小豆色カーデ野郎に十万ボルトぶちかましていたところだ。自分の母親が日曜の昼間から、あんな得体の知れない男とこんな場所にいるなんて知りたくもなかったし、見たくも、考えたくもない。動揺したせいかいつの間にか早足になっていて、ターゲットとの距離が狭まる。

「もう少し離れた方がいいんじゃないか」
「大丈夫」

こうなったら、もしバレたとしてもあのクソ男を殴って終わらせる。私はもう全然正気じゃないし、身体中の血液が沸騰してるから、相手が自分より背の高い男であったとしても迷わずに拳を振るう自信があった。しかし心のどこかではそんな熱さえ気持ち悪く感じていて、目の前が白黒に光る。
その時、男がふと足を止めた。4メートルくらい後ろで慌ててストップするとさっきまでの勢いが空回りして、私の足は地面を踏み締めることができなかった。

「しっかりしろ」
「……はい」

崩れ落ちそうなところで烏丸に身体を支えられ、瞳の中を覗かれる。真正面から目が合うと、抜け落ちた色が戻ってくるようなくすぐったい感覚に襲われた。

「顔色悪いな」
「ごめん…メンタル弱くて…」

もう何かを隠す余裕すらなくて、ありのままに白状したら笑い声が返ってくる。お前はちょっとくらい我慢しろよ……青白い顔した人間の前で簡単に笑うな。
クレームも程々に、立ち止まった理由を探る。どうやら男は、地面に捨てられてたビールの空き缶を拾うために止まったようだった。誰が口をつけたのかもわからない缶を片手に持ち、何やら話してから再び歩き出す。二人はそのまま通りを抜けていった。

「体調は?」
「大丈夫」
「…しばらく腕掴んでろ」
「…ありがとう」

この通りを無事に切り抜けるためだと理由をつけて、烏丸と腕を組んだ時にようやく気が付いた。私たちが追ってる二人は最初からずっと、手すら繋いでいなかったのだ。

通りを抜けた先のコンビニで空き缶を捨ててから、二人はまた道を引き返して、途中にあった宝石店へと入っていった。どうやらこの道を通ったのは最初からここに来るためだったようだ。しかし安堵するような暇はなく、店内に入っていく二人を遠くから見て呆然とする。まさか二人は…あれを買うつもりなのかな。
私、まだ再婚に賛成してないのに…私の方が先に家族だったのに。どうして勝手に決めちゃうんだ。こんなの、また取り残されたみたいじゃないか。ショックで胸が軋んで、気持ちが遠くなる。敵の殲滅を意気込んで出航した船が沈没しかけていた時、組んでいた腕をぐいっと引かれた。

「あの窓から、向こうの店の中見えるんじゃないか」

そう言って、彼が指差したのは向かい側のビルの小窓だった。たしかにあそこからなら、宝石店の入口のガードマンに怪しまれずに中を覗けるかもしれない。そうだ。そもそも私が彼を無理矢理引っ張ってきて船に乗せたんだから、今更勝手に沈むわけにはいかない。

「行ってみよう」

急いで気持ちを立て直して、早速ビルの中に潜入した。
目的の小窓を目指して辿り着いた先は、男子トイレの一番奥の個室だった。幸い付近には誰もおらず、私と烏丸はコソコソと個室に立て籠った。宝石店にいる二人の動向に全意識を持っていかれてたから、自分の行いに対して羞恥や罪悪感を感じることは無かった。それほど周りが見えなくなるくらい、必死の尾行作戦だった。

二人はしばらく中央のショーケースを見ながら店員さんと話し、やがて奥のカウンターへと案内されていった。

「指輪、買ったのかな…」
「婚約指輪ってやつかもな」
「それって結婚指輪と違うの?」
「違うんじゃないか?」

私も烏丸も、まだ身近じゃない話でよくわからなかった。でも自分の指にわざわざ高価な輪っかを嵌めて、形にならないものを証明するなんて、まったく馬鹿げていると思う。私なんか定期代が勿体ないから、毎朝自転車で学校まで通ってるというのに。

「浮かれてるとしか思えない」
「まぁ、まだ指輪と決まったわけじゃないけどな」
「あんな店に二人で入っておいて、指輪以外に何を買うの?」
「玄関先に置くアメジストとか」

苦しすぎる。家にあったら地味に嫌なものベスト3に確実にランクインする品だ。でも、なんか無駄にリアルなんだよな…

「確かめに行こう」

烏丸が変なことを言うから気になってきて、やっぱり店に入って、確認してみることにした。本当にアメジストだったら私はどうすればいいんだろう。
そんなことにばかり気を取られて、何も考えずに扉を開けたのがダメだった。

『え!?京介!?』
「あ。」

男子トイレの入り口の前で、人とばったり出会してしまった。しかも運が悪いことにその人は烏丸の知り合いのようで、彼らは顔を見合わせて固まる。

『ちょ、おいおい、…お前、こんなとこで何してんだよ……いや言うな、聞きたくない!やめろ!』

烏丸を下の名前で呼ぶ男の人は唖然としたり、耳を塞ぎながら目をぎゅっと閉じたり、とにかく私たちよりも凄まじく動揺していた。
たしかにマズイ。男女二人が同じ個室から出てくるなんて…恐ろしい誤解しか招かないだろう。彼の名誉にも関わる。しかし、小窓から向かいの宝石店を覗いてましたと正直に話してもそれはそれで名誉に関わる。
どうしよう、と烏丸の方を見てみれば、彼は涼しい顔でさらりと言ってのけた。

「何言ってるんですか、出水先輩。コイツは男です」
『はぁ!?』
「はあぁ!?」

あまりにも自然に嘘をつくから、私まで騙されて反射的にキレてしまう。話合わせろよ、と彼が視線で訴えかけてきて慌てて男の娘を演じる。

「や、やめてよぉ〜!生物学的には男だけど、心は女なの!」

完全後出しだけど、烏丸が怖いので話を合わせた。でも焦ってIKKOみたいな口調になってしまった。全身の毛穴から汗が吹き出しそうな私を、イズミ先輩は上から下までまじまじと見つめる。

『すげ〜…どう見ても女の子にしか見えね〜』
「全身整形よ!」
『いやでも、男にしてもさぁ…二人で個室に入ってんのはおかしいだろ』

もう無理だと判断した烏丸が私の腕を引いて走り出した。あぁ、こんな時オブリビエイトが使えたら…
背後でイズミ先輩が何やらごちゃごちゃ言ってるのを足音でかき消しながら、私と烏丸はビルを飛び出した。知るか。もうどうにでもなれ。


彼の容姿が大人びているからか、宝石店には案外すんなり入れた。どうやら入口のガードマンはまだまだ経験不足で、人を見る目が養われていないようだ。
店に入ると入口付近に飾られている新作ジュエリーには目もくれず、中央のショーケースまで突き進んでいく。小窓から見た時、ママが立っていた場所。実際にそこに立ってみると、目の前のショーケースに並んでいたのは指輪でもアメジストでもなく、ルビーのネックレスだった。
予想もしていなかった展開に、私と烏丸は頭上に大きな疑問符を浮かばせる。すると親切な店員さんが声をかけてきて、丁寧に教えてくれた。

『こちらの商品は石を選んでから、チェーンや金具部分のカスタムができるんです。オーダーメイド商品になりますので、プレゼントとして人気ですよ。先程も、娘さんの厄年のお守りにって購入されたお客様がいらっしゃいました』

**


想像だけですり減らされたメンタル。空回りのしすぎでボロボロになった私に走り回る体力はもう残っておらず、お腹も空いてきた頃。ターゲットの二人は公園の近くに店を構える小さなパン屋さんに入っていった。

「よし。二手に別れるか。顔の割れてない俺が店に入るから、お前はあのベンチに座って一旦待機だ」

気を遣われているのは明らかだし、本来ならこの尾行は私が行かなければ意味はない。でも、あの店に入れる自信がなかったから、その提案に乗った。

「わかった、よろしく。できれば会話の内容とか盗み聞きしてきて」
「任せろ」

パン屋に入っていく烏丸を見送って、ベンチで一休みさせてもらう。なんだかんだ彼は優しい人だ。私が彼の立場なら、こんな馬鹿げたことには付き合ってられないだろう。

あのパン屋は幼い頃、三人で何度も訪れたことがある場所だった。どんなパンを食べていたかはもう覚えてないけど、この辺りはどうしようもなく懐かしい匂いがする。もう思い出さない方がいいんだろうけど、人間って厄介な生き物だ。そうするべきだとわかっていても、簡単にはできない。

しばらくすると二人が店から出てきて、そのすぐ後にレジ袋を片手に持った烏丸も出てきた。相棒と合流し、また一定の距離を保って後を尾ける。

「何か買ってるし」
「二人と同じラインナップで買ってみた」
「そこまで揃えなくていいわ」

なんとなく予想していた通り、前の二人はそのまま、広い公園の敷地に入っていった。日曜日だからか、公園内には親に連れられて遊びにきた子供たちが大勢いて、遊具や噴水の近くはそれなりに賑わっていた。
ターゲットは賑わいゾーンを通り過ぎ、季節外れでほとんど枯れ枝状態の藤棚の下でようやく腰を落ち着けた。私たちもすぐさま様子を窺える席に陣取る。会話は遠くて聞こえないけど、二人の表情はよく見えた。

本当は、家の前でひと目見た時からもうわかってた。あの人と一緒にいる時のママの表情は安らかで、二人は誰がどう見ても幸せそうだった。

パパがいなくなってから、私にはもうママしかいなくて、他の人にママを奪われるのが許せなかった。自分が誰の一番にもなれないことを恐れていた。大切な人の幸せを一緒に喜ぶことができない私では、あんな優しい顔到底できそうにない。

二人を見守りながら、感傷に浸っていた時。隣に座る烏丸に無言で手渡された袋に入ってたのは、やなせたかしの許可なしに作られた偽アンパンマン。偽じゃむおじ&バタコが焼いたから、顔が少々、縦に長い。

「何これ」
「腹減っただろ?」

そう言いながら彼は既に、分厚いカツサンドをもぐもぐと食べていた。………いや、もう何も言うまい。空腹には抗えなくて、偽パンマンの右顔面をかじる。中にはつぶあんでもこしあんでもなく、チョコクリームが入ってて、泣きそうになった。

「パン屋で盗み聞きした」

歌詞がない音楽、台詞のない漫画、言葉が出ない情景。実際にはもう何ひとつ残っていなくても、確かに私の頭の中に貼り付いて消えない記憶がある。

「昔、このパン好きだったんだろ」

自分から切り離そうとしていた暖かい気持ちが、彼の優しい声に運ばれて帰ってくる。ピタゴラスイッチの終着点でしょぼい旗がぺろんと立つ。気が遠くなるほどの距離をぐるぐる彷徨っても、結果はこれっぽっちだ。
どんなに悲しい出来事があっても、最終的には全部自分で飲み込むしかなかった。思い出の国の住人にはなれなくて、問題は解決できないまま時間だけが進み、ママの再婚相手はカーディガンがダサい。でも、造形悪めのアンパンマンと、烏丸に励まされたから何とか泣かずにいられた。

「烏丸、」
「美味いか?」
「大好き」

返事は答えになっていなくて、彼は静かに笑う。

「俺も」

適当な相槌めちゃくちゃムカつく。
公園に涼しい秋の風が吹いて、焼きたてのパンの匂いが運ばれてくる。思い通りにいかないことばかりなのに、懐かしくて、優しい景色。
きっとこれからも、たくさんのものが新しく作り替えられて、淘汰されてしまったものたちは為す術もなく消えていくのだろう。
そうだとしても…思い出を手離したり、気持ちを遠くに追いやったりするのは、もうやめよう。悲しいことも、醜い気持ちも、優しさで包んで大切に抱き締めてあげればいいんだ。烏丸が私に、そうしてくれたように。


**


「もしもし」
「もしもし」

繋がった時の一言目は宇宙人の交信に似ている。
ベッドの高さを背もたれにして部屋をぐるりと見回せば、デジタル時計に表示された『PM11:10』の『10』が『11』に進化する瞬間を偶然捉えた。ぷよぷよの世界なら全消しで大逆転しちゃうところだった。

「烏丸、起きてた?」
「起きてた」
「明日ママと餃子手作りするんだけど、材料たくさん買ったから、良かったら烏丸も食べに来ない?」
「いいのか?」
「うん。キッズたちも連れてきてよ」
「了解」

約束を取り付けて満足していた時。電話口でちょっと笑ってるような声に名前を呼ばれて、返事をする。

「なに?あ、てか餃子にニンニク入れても大丈夫?」
「大好き」

あ。なんかこのやりとり、めちゃくちゃ身に覚えがある。

「うん、私も」

笑って適当な相槌を打つ。そこで交信は途絶えた。

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