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君といた時間 【犬飼】






予報通り雨は昼から降り始めた。
夕方、丁度雨足が強まっている頃に学校が終わって昇降口は傘を開く生徒で渋滞。足元はローファー、ワゴンセールで買った200円の折りたたみ傘1つで豪雨にチャレンジする私という人。

「まぁ、無理があるわ」

余裕の気持ちでスタートを切ったのにびしょびしょになってしまったことが無性に情けなく、誰も聞いていないこと前提で独り言を呟いた。
反省反省。このステージは200円の傘には荷が重すぎました。私の判断ミスで複雑骨折してしまった傘を閉じる。君は多分来週私のお母さんに捨てられるよ。

今日に限って鞄の中に友達に借りた漫画が入っている。このまま家まで走り抜けて鞄を濡らすわけにもいかないから、とりあえず近くにあった図書館に避難することにした。
髪や服が結構大袈裟に濡れているため屋内に入るのは諦めて、軒下に突っ立って時が経つのを待つ。
ただ風景を眺めていても面白くないから次に通りかかる人の傘の色当てゲームなんかをしてみたけど、ビニール傘の圧倒的支持率でささやかな試みも早々にやる気が失せた。

10分ほど経過した頃、自動ドアが開いてここに来てから3人目の客が中から出てきた。知らない人と目が合っても気まずいだけだから、わざと明後日の方向を向いて気配が遠のくのを待つ。
向こう側のビル、街路樹、水溜まりへと視線を移して時間稼ぎをしても、気配が遠のく気がしない。
あれ、何かおかしいな。怖くなってきた。振り返ったらトレンチコートのモブおじさんとかいたらマジでどうしよう。

勇気を振り絞って、恐る恐る視線をスライドさせて正体を確認する。視界に見知った顔が映って、強張っていた肩の力が一気に抜けた。

「いい天気だね」
「感性えぐ」

もっとマシな挨拶は無かったのか。彼は晴れ男みたいな名前のくせに片手に立派な傘を持っていた。きっと彼が産まれた日は晴れていたんだろうな、と余計なことを考える。
犬飼は目の前までくると、私を上から下まで眺めて馬鹿にするようにへらりと笑った。

「6限目の授業、着衣水泳とかだった?」
「傘って何で先端尖ってるか知ってる?気に入らない奴を突くためだよ」

傘の先端を相手に向けて「覚悟しろ!えいっ!」「へ〜そういうことするんだ。いいよ、そっちがその気なら…トリガ〜オン!」なんて小芝居を繰り広げていると、自動ドアが内側から開いて人が出て来た。私達はそっと動きを止める。
ちらりと横目で見て去って行く女子高生の背中を見送る。雨音に紛れて小さな溜息をつくと犬飼も同じように息をついた。きっとお互いにこう思っている。無かったことにしよう。

「ていうかこんなとこで何してたの、まぁ聞くまでもないと思うけど」

じゃあ聞くなよ。と心の中で突っ込んで、優しい私はわざわざ傘を開いて惨状を見せてあげた。彼は哀れむように「あぁ〜…」と頷く。

「と、まぁこういうわけで近くの公共施設に避難したわけです」
「もう走って帰れば?家わりと近いじゃん」

聞きましたか女子諸君。これが避けるべき男の模範です。

「キミは最低な奴だね犬飼。それより傘交換しようよ」
「このタイミングでよくそれ言えたね」

テンポよくツッコミを入れているけど、後ろ手では自分の傘を私から遠ざている。こいつが私をどういう目で見ているかがよくわかる態度である。

「犬飼こそ、図書館とかくるんだね。女子ウケ狙ってるの?」
「うっわこれは喧嘩だわ。フツーに借りた本返しに来ただけだから」
「へー」
「は?途端に興味無くすじゃん。今のはもっと掘り下げて色々聞くとこでしょ」
「仕方ないなぁ…何をしていた。云え、云わぬと、これだぞよ」
「流石に羅生門しろとまでは言ってない」

寄越せ寄越せ!と大事に守られてる傘の柄を掴むと、犬飼は楽しそうに笑って躱し、傘を死守した。
最近は彼といる時が一番ふざけている気がする。このままふざけてる間に雨も止むのではないだろうか。そんな風に期待して見上げた空、どしゃ降り。
そろそろ日が暮れるし、犬飼の家までの距離を考えるともう帰った方がいい時間だ。

「まぁ私はしばらくここで雨宿っていくから。バイバイ、犬飼」

彼が帰りやすいように気を遣って私から解散の空気を作れば、今度は彼が仕方ないなぁという感じに笑う。

「そんなんじゃ風邪引くでしょ。家まで送るよ」
「ううん、大丈夫。大したことないし気にしなくていいよ」
「いや気にするでしょ。何で遠慮すんの?」

一歩引けば、犬飼がすかさず一歩詰める。きっと私の方から一歩詰めると彼は一歩引くのだろう。それが私達が関わる上での適度な距離感だから、同じ傘には入ったりしない方がいい。

「いや遠慮っていうか、そもそも彼女いる人の傘に入るわけないでしょ」

意外だったのか、彼は少し驚いたように笑った。主張を軽視されたような気がして、気分を害される。

「平気だよ、これくらい相手も普通にやってるし」
「は?何それ」
「何って…ちゃんとそういうの割り切れる人と付き合ってるから、余計なこと気にしなくていいよって意味だけど」

割り切れるって…普通好きな人が別の人と仲良くしてたら嫌だと思うものじゃないの?

「犬飼は嫌じゃないん?」
「別に、変に束縛とかされてもダルいだけだし。ある程度距離保った方がお互い心地良い関係もあるでしょ」

前に話した時も思ったけど、犬飼って恋愛に対しての態度がすこぶる冷たい。ドライっていうか、そもそも興味ないって感じ。何で私に恋人がいないのにこんな奴に彼女がいるんだろう。世の中間違ってない?
まぁ、私の主観は一旦置いといて。もしかしたら犬飼みたいな人の方が賢明なのかもしれないし、世の中には色んな考えがあるということで、一応否定はせずに頷いておく。

「まぁそういう人もいるよね」
「って言っときながら絶対説得される気ないじゃん」
「あはは、そうだね。せっかく優しくしてくれたのにごめん。でも、結局は私が正しいと思ったことをしてみたいの。この場合犬飼の意見とか正直どうでもいいんだよね」
「うわサイテ〜」

断る理由を潰される前に、犬飼の意識を本題から私への嫌悪へと移るように意図して喋る。ぶっちゃけ、もうこの話をするのが面倒くさくなっていた。この手の話は犬飼と私のノリが合わないから楽しくない。
右脚に重心を傾けて腕を組んでみたり、わざとらしく態度を悪くしてさっさと帰れアピールをしてみた。

「でも、それ説得力あるよね」

ふとした時、1分1秒で場の空気が変わる瞬間がある。特に犬飼は場面をコントロールするのが上手い。話し方や立ち方1つでころっと簡単に変えてしまうのだ。
今も。何が言いたいんだろうとその瞳を見ていると、手と手が重なった。暖かい。

「俺もそうだよ」

何か言うタイミングを逃したまま、彼の手が離れる。
ふと手元を見ると、無残な折りたたみ傘が立派な傘に早変わりしているではないか。

「え、どういうこと?」

聞いても答えてくれないまま、傘を開いて犬飼は軒下から出る。呆然と後ろ姿を眺めている私に、彼が振り返って言う。

「実はこれ欲しかったんだよね。どこにも売ってなくてさ」

開いている傘があまりにもボロボロすぎて全然雨を凌げていない。みるみる雨に降られて濡れていくのに、笑ってるのが彼の不思議なところだ。

「あははっ、犬飼めっちゃかっこいいね」
「どうも〜走って帰りまーす」

ノリで格好つけてもこればっかりは流石に無理があるみたいだ。「気をつけて」と一応呼びかけたけど、すぐに走り出してしまった彼に聞こえたかはわからない。

立派な傘を開いて歩く帰り道、さっき犬飼がついたバレバレの嘘が頭の中を反芻する。これは傑作。多分、私は折りたたみ傘を見るたびに今日のことを思い出すだろうな。

その日犬飼に貸してもらった傘は返すタイミングを失ったまま、事実上の借りパク状態で雨の日に活躍し続けて、いつしか我が家のベテラン傘へと出世を遂げた。




告白


夕方の河川敷、ゆるやかな斜面になっている芝の上に腰を下ろして、さっき買った雪見だいふくのもちを過去最高に伸ばしていた時だった。

「好きだよ」

彼の言葉は、何かが壊れる音に似ていた。


**

犬飼は私がアイスを食べ終えるまで黙って待っていてくれた。

少し前から彼の気持ちにはなんとなく気付いていたこと、それをずっと言わないでいてくれたらいいなと思っていたこと、私にその気は無いこと。溶けたアイスが手についた時みたいな、美味しくて幸せなものがたちまち不快感に変わるような変な感情が上手く言語化出来ずに胸の中に渦巻いて、結局形にならずに沈澱する。

「そういうの、困る」

ぶつけたい不満は山ほどあるけど多くが喉に詰まって、濾過されたような短い言葉しか出ていかない。どうせ何を言っても彼が傷付くだけで私は何も得をしないのだ。

「困ってよ」

と、いつもの調子で言う犬飼の笑顔はいつも通りではなかった。そんな顔されると悲しくなる。
もしかして彼は、私よりも遥かに前から困っていて、どうしようもなくて、一緒に困って欲しいという意味で今笑ったのだろうか。そうだとしても、勝手に苦しんでる人に同情なんかしてやらない。

「友達でいてくれると思ってた」

どうしても今は優しく出来なくて、彼にとってはきつい言葉を投げかける。
友達の中でも、犬飼は少し特別な存在だった。確かめるような言葉は一度も口に出さなかったけど、心を許し合えたような気がしてたし、男女だからといって恋愛感情を持ち込んだりしない人だと、根拠もなく信じていた。

「ごめん。それだけで満足できなかった」

何だそれ、ごめんで済む問題にして欲しいのかよ。自分自身が何を言いたいのかどうしたいのか、ハッキリしない態度を責めるように目で訴えてみても視線が合わない。
言葉が詰まった喉を通すように息を吸って、決心する。

「期待させるようなこと言って傷付けたくないから、ハッキリ言うよ」

彼の瞳に怖い顔した私が映る。本当はこんな顔したくないのに、この場面で躊躇うような優しさや不甲斐なさは結果的に相手を傷付けることにしかならない。

「犬飼と恋愛はできない。するつもりがない」

彼はゆっくり、静かに目を細めた。

「だと思った」
「は?」

自惚れではないけど彼なら少なからず食い下がってくるだろうと思っていたから、予想外の返しに間抜けな声が出た。

わかってたなら、好きなんて言わなければ良かったのに。沈没するってわかってるのに船を出す理由、ある?

「別に、どうこうしようなんて思ってないよ。ただ言いたくなったから言っただけだし、何も返してくれなくてもいい」

ふい、と視線をまた空気中に投げて、最初から何にも期待していないかのように言う。近付きたいのか遠くにいたいのか、それともどうでもいいのか、やっぱりわからない。
私が知ってる彼の冷たい部分に久々に当てられた気がして、胸の奥がぐっと苦しくなった。
犬飼は気持ちを持ったまま、表面的にでも友達を続けるつもりなのかな。

「やめなよ、そういうの。辛くなるだけだって」

明らかに傷付いている彼を目の前にしても、向けられた気持ちに応える気が微塵もない自分がいて、今まで築いてきた信頼も何だか全部嘘だったように思える。
一番酷い奴って多分こんな感じなんだろうな。もっと強い気持ちがあると勝手に思い込んでたけど、やっぱり私には何もないみたい。

犬飼はかなり長い間黙っていた。その間、探るように横顔を見ていたから、彼がこっちに視線を戻すと必然的に目が合う。その目には迷いも戸惑いも感じなかった。

「付き合う対象になれなかったからって、簡単に気持ちが消せるわけじゃないと思うんだよね」

彼の瞳に写った私をまた見つける。
彼の見えてる世界に私以外の人は何人いるのだろう。私しかいなかったらどうしよう。自意識過剰とかではなくて、彼の表情を見るとそれくらい不安にさせられる。

「嫌いになったら離れてもいいから、それまでは友達でいてよ」

目は合っているはずなのに、犬飼が今どこを見ているのかまったくわからなかった。ずっと目線が合う対等なところにいたと思っていたのに、今の彼の物言いはそうじゃないみたいだ。

「それは私が決めることだよ」

このタイミングでそれを認めてしまうと、彼の気に食わない態度まで肯定してしまうことになる。そんなやり方じゃ友達ですらいられない気がした。

「…そっか。じゃあ俺もやっぱり頑張ることにする」
「頑張らなくていいよ」
「それは俺が決めることだから」

パクるなよ。さっき自分が使った言葉だから、見事に何も言い返せなくなってしまった。この流れが誘導だとしたら怖いな。でも多分犬飼のことだからそうなんだろうな…
まぁ私にはその気がないんだし、彼もどうせすぐ飽きるだろう。勝手にしなよとしか言えない。

「俺のこと、わざと避けたりしないでね」
「避けないけど距離は置く」
「ひど」

友人関係を裏切って好きになった君もなかなか酷い奴だよ。これからどうやって接すればいいのか、ちょっとわからない。

「酷いのは俺もか」

視線だけで言いたいことを察した犬飼が自嘲気味に笑った。その顔を見るといつも悲しくなる。

誰かがわざと避けたりしなくても、どうせ、自然と空いていく距離を私達は繋ぎ止めることが出来ないのだろう。

やけに道のりの長い帰り道、私達はとうとう一言も話すことができなかった。




飲み会お迎え係


高校時代の友人らが集まった楽しい飲み会。久々に会ったメンツに近況をこってりたっぷり絞られて、飲み会がお開きになる頃にはアルコールのせいとか関係なしにへとへとになっていた。
正直呼ぶかどうか迷ったけど、家を出る時に『迎えに行かせてね』と念を押されていたので、しっかり約束を守って彼に連絡を入れた。

もうそろそろかなと時刻を確認した時、ちょうどお店の引き戸がガラガラっと音をたてた。バイトの『いらっしゃいませー』という声が店内に響いて、間もなく座敷の障子がガラリと開く。

「こんばんは〜!彼女がお世話になりました〜!」

ご機嫌な笑みを浮かべて、お迎え係兼彼氏は調子良く挨拶をキメた。
さっきまでスマホを見たり、ハンガーにかけた上着をとったりしてた友人が一斉に入り口の方を見て彼の名前を呼ぶ。

「「「「イヌカイだ〜!」」」」


**


全員が会計を済ませて居酒屋から出ると、彼女たちは道の端に固まって目をキラキラさせながら私と犬飼を取り囲んだ。

「わーこの光景ほんと懐かしい」
「JKの頃を思い出すわ〜」
「やばいね、時の流れ」
「私らがイヌカイの恋愛相談乗ってたの何億年前?」
「その節はどうも〜!おかげさまで念願の彼氏ポジから失礼します!犬飼澄晴です!」
「わ〜〜!まじでおめでと〜!」
「出世したねイヌカイ!」

パチパチと道端で突然巻き起こる拍手が、通りすがる人たちの何事だという視線を集めて居心地が悪い。しかし私以外の人間はそんなこと全く気にせずに、むしろ前のめりで話を続ける。

「ねぇ〜もう喧嘩とかしてない?」
「ちゃんとイヌカイに優しくしてんのか〜!?」

疑いの眼差しは主に私に向いている。いや何でだよ。
きっと私以外の全員が状況を面白がっているのだろう。犬飼はふざけて肩を抱き寄せてきた。

「ちょ〜ラブラブだよね〜♡」
「うるさい」

顔を覗き込んでくる彼との間にすかさず手のひらでバリアを張る。友人たちが保護者参観のように腕を組んで見守っているものだから、側から見てバカップルな行動は何としても避けたい。
冷やかされるかと思ったけど、彼女たちは何故か感慨深いという風にうんうん頷いていた。

「あぁ〜〜何か感動っていうか…これが親の気持ち?」
「イヌカイも表情だいぶ柔らかくなったよね」
「うん、昔は営業マンみたいな胡散臭さがあったけど、今は完全に幸せの具現化みたいな顔してる」
「これが好きな女を捕まえた勝ち組の顔か…」

いきなり散々な言われ様だな。でも彼の鉄メンタルではこんなのかすり傷にもならないのだろう…かと思いきや。

「あはは、みんな彼氏出来た?」
「くそっ、いい気になりやがって」
「恩を仇で返すな!」
「犬飼えよ」

お祝いムードから一転、所々でイヌカイ批判の声が挙がる。
ていうか今わざと地雷踏みに行ったなコイツ……私の呆れた視線に気付くと、彼は悪びれもせずに笑って今度は見せつけるようにするりと腕を組んできた。

「きっとみんな、すぐに良い人見つかるよ多分。知らないけど」

彼女たちにとって、今の犬飼の笑みは嘲笑のように見えているだろう。彼はそれなりに態度の悪い男なのであながち間違っていないのかもしれない。

「片想い拗らせすぎて消しゴムのカバー裏に好きな子の名前書いてたのバラすけどいいの?」
「イヌカイは好きな子の誕生日プレゼント買うのに1ヶ月前から悩んでました〜!結局ウチらの助言フル無視したものを買ってました!」
「放課後カラオケとかマックで偶然鉢合わせてたのも全部我々と口裏合わせてたからです」

犬飼が1攻撃したら100で返ってくる大暴露大会が始まった。全部初耳学に認定です。

「……犬飼マジ?」
「いや知ってんじゃん、俺が超必死だったってことくらいさぁ…」

過去の奇行を目の前でバラされて、珍しく照れてしまったらしい。犬飼が左肩にべったり引っ付いたまま体重をかけてきた。重たい。

「参ったか〜イヌカイ〜」
「まだまだネタはあるんだから」
「も〜勘弁して、俺が100パー悪かったです!」

まさかの形勢逆転を受けた犬飼の秒でプライドを捨てる姿を見ていると、段々と可哀想になってきて流石の私も彼を払い退けることができない。そろそろフォローしてあげようかな。

「まぁまぁ、たしかにさっきのは犬飼の性格が悪かったよ」
「俺の味方してよ!むしろ一番酷いじゃん」
「ふふふ〜」
「…う…可愛いねぇほんと」

これはもう許すしかない、と犬飼は目を逸らした。チョロい奴め。

「クソ〜ウチらの暴露を口実にイチャイチャしやがって!」
「一生そこで仲良くしてろ!」
「私らはタクシーで帰る!さらば!」

チンピラみたいな捨て台詞を残して走り去っていくのかと思いきや、彼女たちは意外と正気のままタクシーに乗せられて帰っていった。

台風が去った後、私は犬飼と顔を見合わせて笑って、散歩がてら家まで一駅分歩いて帰ることにした。

「あの子たち相変わらずだったね」
「うん。犬飼が誰かにいじられてるの久しぶりに見た」
「ほんと。話してる時に昔の感覚蘇ったよ」

彼と軽く繋いだだけの手を、私の方から指を絡めて繋ぎ直す。あの頃とは違うよ、なんて歯痒くて言えないから。

「あは、大好き〜」
「察し良すぎでしょ」

彼は小さなことでも機敏に感じ取って、こんな動作1つで表に出せなかった気持ちを受け取ってしまう。

「どうしよう、家着いても離したくないって駄々こねるかも」
「手繋ぐくらい、いつも普通にやってるじゃん」
「そうだけど〜2人になった途端甘えてくるとこが可愛すぎて心臓ギュッてなる」

当たり前を大事にできることが彼の素敵なところだ。溢れるように笑う彼を目撃する度に、私はこの人が好きだと何度も繰り返し思っている。

「犬飼変なところでときめくの、ほんと謎」

釣られて笑ってると、彼はちょっぴり不満気に「…犬飼」と自分の名前を呟く。どうしたんだろう。顔を覗けば、彼はわざとらしく口を尖らせて言った。

「人前では全然今まで通りでいいけど、せめて2人の時は下の名前で呼んでほしいな〜」

まさか今とは思っていなくて、ついにこの要求が来たかと構えてしまう。
何度か下の名前で呼んだことはあるけど、彼をからかう時にふざけて呼んだりしたのがほとんどだ。付き合いが長いからこそ今更変え難いと思ってなかなか踏み出せずにいた。

「私が呼んだらネタみたいになるって」
「ならないよ」
「でも犬飼って呼ぶことへの愛着があるし…」
「何それ笑 でも俺は名前で呼んでるよ?フェアじゃなくない?」

確かに……いやいや、簡単に言いくるめられちゃ駄目だ。ここは1つ、実力勝負に持ち込もう。

「よし、じゃあ家まで競争しよう。犬飼が勝ったら2人の時は名前で呼ぶ。私が勝ったら犬飼は明日1日ずっと英語で喋ってね」
「いや俺のペナルティーだけレベチ。今回は負けてあげないよ。いいの?」
「よーいドン!」
「うっわセコ!!」

フライング気味に走り出せば、彼が慌てて追ってくる。
こういう馬鹿なことしてると無条件に楽しいのが、どうかアルコールのせいじゃありませんように!

家の近所まで来た時、ふと星の光に気が付いて、走る速度を緩めて見上げているとその隙に犬飼が横を通り抜けた。夜道に私を置き去りにするほど必死になってる彼は珍しい。その勢いは、そんなに名前で呼んで欲しいのかと呆れるほど。

「わ〜〜〜い!俺の勝ち〜〜!」

玄関で今にも喜びの唄を歌い出しそうなくらいはしゃいでいる澄晴くんの横をすり抜けようとすれば、肩を掴まれて引き止められた。

「はい、ぶっつけ本番でどうぞ」

彼の両手が頬を包んで、熱い眼差しからもう逃げられない。

「す…澄晴くん」
「もう一回♡」
「澄晴くん」
「あ〜〜可愛い〜!あと10回お願いします!」

調子に乗るなと吐き捨て、彼の手から無理矢理脱出。ソファーに崩れ落ちてまだ誰の体温も移っていないクッションに顔を埋めた。こんなことで恥ずかしがっていれば馬鹿にされるのわかっているのに、どうして顔が熱くなるの。空気読めよ。

ソファーが彼の体重分沈むと、気配を近くに感じて体をそっちに傾ける。腰のあたりに手が添えられて、隙間がなくなるくらいぴったりくっついた。

「…何か英語話して」
「𝑩𝑰𝑮𝑳𝑶𝑽𝑬───」
「あははっ、英検5級合格おめでとう〜」
「サンキューベリーマッチ」

彼はふざけながら、私の体をゆっくりソファーに倒していく。頬や目の下にキスされてくすぐったい。

「眠そうだね。お着替えして寝ましょうか」

涙袋のあたりに彼の手が触れると、じんわりと暖かくて瞼がとろけそうになる。
身体に乗しかかっていた体重が完全に無くなる寸前、袖を掴んで引き留めた。

「口にしないの」
「…もっと欲しくなっちゃうから、我慢する」

眉を下げて微笑む彼を見て、ちょっとくらい素直になってみようと思った。

「2分までなら…いいよ」
「はい?何その奇跡の2分。ちょっと待って心の準備します」
「よーいドン」
「も〜〜〜〜」

律儀に時計を確認してるのが面白くて笑っていると、頬に手を添えられた。それが合図だと、私はもう知っている。

「澄晴くん」

至近距離で見つめ合って名前を呼べば、澄晴くんは撃ち落とされたように私の首元に顔を埋めた。

「…むり、おれキスで止まれる自信ない」
「じゃあ寝よっか」
「ドライすぎん?…やっぱする」
「はい、じゃあどーぞ」

二度目の挑戦、至近距離で見つめ合う。今度は彼が、とびきり優しい声で私の名前を呼んだ。





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