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全世界が綺麗で暖かくなっていたある日 【犬飼】

スマホの通知音に起こされて、ゆっくり寝返りを打った。まだ電気をつけていない部屋の中にはカーテンを通して柔らかい光が差し込んでいる。
すぐ隣にいる彼はもうちゃんと着替えていて、寝転んだままスマホに視線を落としていた。

「…いまなんじ?」

起きたばかりでまだ完全に掴みきれていない意識を手探りで探す。私が起きたことに気付くと彼はスマホを向こうに置いて、私の頬に手を伸ばした。

「12時半」

暖かい手のひらに撫でられて、正常な意識を掴み取る。

「え!?うそ、何で起こしてくれなかったの…」

昨日は彼が泊まりに来て、今日は確か、外に出かけてお昼ご飯を食べようねって話をしていた日だ。9時頃には起きるつもりで、昨日もちゃんと23時に寝たはずなのに…
今から出掛ける準備したら、きっとお昼を過ぎてしまう。

「ごめん、一回起こしたんだけど起きなくて。それにぐっすり寝てたから」
「そっか…こっちこそ約束してたのに、ごめん」
「ううん。いいよ。また別の日に行こう」

頬に当てられていた手がこめかみを通って、優しい手つきで横髪を耳の後ろにかける。俺も入れて、というように体を寄せてきたから、毛布の中に入れてあげた。

「……夢見てた、出掛けてる夢」

ぽつりと呟けば、猫に話しかけるみたいな声で「どこ行ってたの?」って聞いてくる。「山」って答えると「あははっ、山かぁ」なんて面白がって笑った。

「山に向かう電車に乗ってるんだけど…途中で寝ちゃって、気づいたら野球場にいて…焦った」
「山行こうとしてんのに野球場はキツい。てか夢の中でも寝過ごしてたんだね」

常に語尾に(笑)がついていそうなゆるゆるの口調で応答されるから、私も何だか思考がゆるくなって、起き上がる気力が完全に失せてしまった。

「もう今日はここで生きることにする」
「流石にそれはヤバいって。起きてくーださい」

ぺちぺちと頬を叩く手から逃れて彼の首元に顔を埋める。こうなったら、コイツを巻き込んで二度寝デートをキメるか……現地集合現地解散、夢でまた会おう。

「泥のように入眠…」
「だぁめだって、コラ〜こーゆー時だけくっつかないの〜」

なんて言いつつ、しっかり背中に手を回してくる。

「あーあ、俺の言うこと全然聞かんじゃん…」
「お布団大好き同好会にようこそ〜」
「強引な勧誘すぎない?てかこれはマジでセコいって」
「あと5分〜」
「いや寝起き悪すぎでしょ……さっさと出ないと、出してあげらんなくなるよ」

いつもより低い声を出して耳元で囁くから、思わず飛び起きる。

「おはよう世界!」
「あははっ、やっと起きた」

コイツ…私の扱い方を完全にわかっている。

「お昼ご飯どうする?何か作ろうか?」
「やったー!犬飼の炒飯大好き!」
「なんか俺炒飯しか作れない奴みたいになってない?」
「米炒めてるとこしか見たことないっす」
「えーオムライスとかも出来るし」
「はい、オムライス大好きです!」
「おっけ、任せといて」

結局また米を炒めている、とは言わず手を挙げてオムライスに1票投じる。2人で毛布の呪縛から逃れてから、彼はキッチンへ向かい、私はベッドを整えてから洗面所に向かった。

しばらく経って、全ての支度を終えてリビングの扉を開けると既においしい香りがいっぱいに広がっていた。この匂いの香水を毎日枕につけて眠りたい。

「いらっしゃいませー」
「オムライスだ〜!」

テーブルの上はもう準備万端で、犬飼は私が戻って来るのを座って待ってくれていた。
白いお皿に盛られた無地のオムライスを見て察するに、ケチャップはお好みでつけるスタイルらしい。

「うわ〜美味しそう!」

席に座って、ぽってりした可愛らしい黄色のオムライスと対面する。優しいバターの香りをほんのり吸い込んで、お腹が鳴りそうになる。
ソワソワを抑えきれず食べていい?と視線を向けると、頬杖をついてこちらを見つめていた犬飼とバッチリ目が合う。

「美味しくなる魔法かけて♡」

彼はオムライスと一緒にケチャップを私の方に差し出して、可愛らしくお願いした。
私にはこういうフリを受けて立ってしまう習性があることを彼は多分もう知っている。

「いいでしょう」
「やった〜」

**

「マジで有り得ん…何であんなことさせたん、早々に止めてよ…」
「多分俺の走馬灯で一番長いシーンあれだと思う」
「人生しょうもな、興行収入三千円の走馬灯」
「俺からの需要は常にあるのでまたやってください」
「もう一生しない」

無事自爆したところで、頭を抱えていた両手を離して“いただきます”をする。困った時は食べればいいというのは、過去の経験から学んでいる。
そしてヤケクソで放り込んだ一口目は、私の邪気を全て吹き飛ばした。

「めっちゃ美味しい…何これやばい」

心の中にぽっと明かりが灯るような味がした。
お母さんには申し訳ないけど人生で食べたオムライスの中で間違いなくこれが一番美味しい。

「マジ?うれし〜」

もう…スプーンが止まらない。コミュニケーションを取ることも忘れてぱくぱくと食べ進める。
これはわかってる側の人間しか作れない味だ。犬飼…君は、わかってる人だったんだね。

「こんなん世に出したら街のオムライス屋全部潰れるでしょ」
「米炒めるスキルだけで掴める胃袋チョロすぎん?」
「チキンライスの味付けがドンピシャに好き…鶏肉が入っていることに送る感謝…」
「最後に魔法かけたのもデカイんじゃない?」
「ちょっと黙っててもらえる?」
「シェフへの態度ひど」

何で食べ物って食べたら無くなるんだろう。こんなに美味しいものをこの世から消してしまうなんて、生きるって残酷。しかしこの最高のオムライスが私の血となり肉となるのは悪くない感じがする。

「おいしい……もし私が刑務所に入ったら毎日これを持ってきて欲しい」
「多分料理中に流れる俺の涙で超しょっぱくなってるだろうね」

犬飼はもう、突っ込むことをやめて食べる方に専念し始めていた。私もこの奇跡の味をしっかり味わって食べることにした。

食後の幸福感と僅かな寂しさを感じながら2人で後片付けをして、ソファーに腰を落ち着けた頃には時刻は14時を回っていた。

「夕飯食べていく?」
「はい、ご馳走になります」

昼食を食べたばかりにも関わらず夕飯は何にしようか、冷蔵庫の中には何があったっけ、とご機嫌で考えていると、犬飼が『あとで買い出し行こうね』と笑った。彼はたまに私の心が読める。

「犬飼ってすごいね、思ってたよりなんか色々すごい奴だったことが今日判明したよ」

ご機嫌だからまったく具体的じゃない褒め言葉でさえ躊躇いなく投げかける。今は考えることよりも、とにかく彼を褒めたいという気持ちが先行している。

「めちゃめちゃお気に入りですね。夕飯もオムライス作ってあげようか?」
「全然食べれます」
「俺が嫌です」

私が「あれなら3食でもいける」と主張すれば、彼は「立派なオムラーじゃん」と眉を下げて可笑しそうに笑った。

「そんなオムライス好きなんて、全然知らなかった」
「あのオムライスだから良かったんだよ。正直私の中で起きたよね、オムライス革命が」
「…嬉しいからまた今度、作ってあげる」

犬飼が照れてる時のいつもの仕草をしたから、何か恥ずかしいこと言ったかな…と自分の言動を思い返していると、手の甲に彼の指先がそっと触れた。

「…可愛い」

今まで何度も聞いてきたその言葉も、幸せそうな顔で言われるとやっぱりいちいち嬉しくなる。こんなに柔らかく笑える人なんだと、昔はちっとも思わなかった。

頬に手を添えられて、きゅっと目を閉じれば唇に熱が重なる。何を考えていればいいのかわからず、ぼうっとしてるうちに頭が溶けそうになる。

音もなく唇が離れて、そっと瞼を開けると犬飼はまだ近くで私を見つめていた。好きって目の中に書いてあるような、柔らかくて甘い表情。

「な、なに」
「…幸せだなぁと思って」

名残惜しそうに頬に触れる手が離れた。

「……もっと、これからいっぱいあるよ。幸せなこと」
「うん」

幸せな時に寂しそうにするところが少し前までの私に似ていて、大丈夫だよと言いたくなる。
犬飼は甘えるように肩に寄りかかって、静かに目を閉じた。会話もないし、目も合わない。そんな何も起きない時間でさえ長く続けばいいと思うのだから、私はこの人のことが本当に好きなんだと思う。

「澄晴くん、」
「はぁい」
「…呼んでみただけ」
「いくらでも呼んでください」
「…」
「いや黙るんかい」

何だか無性に面白くなって声をあげて笑うと、彼も釣られて笑った。楽しいねってわざわざ口に出して確かめなくても、もうお互いの表情を見ればわかるようになった。

「君がいるから私は毎日幸せです」

簡単じゃなかったね、ここまで来るのも。
一番好きな人の一番好きな人になるって、私が思ってたよりずっと難しかった。でも、絶対に無理だって言い張ってた君が何故か最後まで諦めなかったね。

言葉が出ないみたいに黙りこんだ犬飼に私も寄りかかる。
お腹も胸もいっぱいですね、でも私は夕飯をお鍋にしようと思っているので、覚悟してください。

少しの間、この部屋に真っ白な時間が流れた。換気のためにちょっとだけ開けている窓から穏やかな風が入ってきて、カーテンを揺らしている。

「…ずっと、俺にもこんな将来があったらいいなって憧れてた。でも、出来そうにないって心のどっかで諦めたりもしてて」

頭の中に昔の彼が浮かぶ。たくさんの人に好きだと言われて生きてきても、心の中では一人だと感じていて、その気持ちを誰かに打ち明けることが出来ずに溜め込んでいた。

「今日みたいな日が俺の人生に1日でもあってくれて…本当に良かった」

“やっと救われた”っていうような顔をするから、今まで彼がどんな気持ちで生きてきたんだろう、と胸が締め付けられる。
私は人の心が読めないし、彼が今何を考えてるのか知りたいと思っても完全にはわからない。
だから、彼がすごく深いところまで一人で落ちていってしまったりしないようにと、手を繋ぐ。

「こんな日がきっと何回も訪れるよ。いつか当たり前になって、気付かなくなるくらい」

だから、いつか訪れる終わりの日のことを考えて、一人で悲しんだりしないで。幸せになる程不安になる気持ちは、私にもわかるよ。

「…うん、ありがとう。ごめんね、情けないとこ見せて」

自分の手でそっと目尻を拭って、ちょっと不器用に微笑んだ。

「おいでよ澄晴くん。どんなことがあっても、私は君の一番の味方です」

腕を広げてウェルカム体勢に移行すると、嬉しそうに距離を詰めてきた。ぎゅっと強く抱き締められて、私も彼の背中に手を回す。私より大きい、すこし骨張った背中。彼が背負っているものを私も一緒に背負いたい。

「毎日、一緒にいたい」
「うん、私もそう思う」

彼は我慢してたものを吐き出すように言葉を紡ぐ。

「…一緒に住みたい」
「うん、それがいいね」

ずっと、言いたかったことを言うみたいに。

「キスしてほしい」
「うん、…ん?」

いや、だんだん調子乗ってきたなコイツ。と気付いた頃にはもう遅くて、ニコニコ嬉しそうに笑った彼が目の前で待機していた。
え、…私からしたことないのに?いきなり本番ですか?いや、でも…いつも犬飼からっていうのもフェアじゃないよね。よし、こういうのは勢いだ。やってやろうじゃないか。
じろじろ見られると癪なので彼の目を片手で覆って、そっと唇を落とした。
よし、よし、よくやった私!成功です!
自分の勇気を褒め讃えながらいそいそと顔を離そうとしたその時、後頭部に彼の手が回って、ぐっと引き戻された。
いつもより雑に重なった唇。突然のことに目を閉じるのも忘れていると、彼の目を覆っていた手が外されて、急に視線が絡んだ。どうやら私、罠にかかってしまったようです。
恥ずかしさに耐えかねて目を逸らすと、そっと唇が離れて彼が優しい声で囁く。

「目、合わせて」
「む、無理ィ……」

そんな目で見つめられてるなんて自覚したら、顔から火が出そう。

「無理じゃない」

それは諦めるつもりがない時の声だった。観念して視線を戻すと満足そうに目を細められて、また唇が重なる。目は口ほどに物を言うって、これだ。この人は私のことがめちゃくちゃ好きなんだ。



私の体温と彼の体温が同じになるくらい、長い間くっついていた。唇が離れると、溢れ出す恥ずかしさに耐えかねて、ぐりぐりと犬飼の首に顔を埋めた。
彼がしたのに比べたら、私のキスなんかただのお遊びだった。思い出しただけで顔が熱くなる。くそう、なんか腹まで立ってきた。

「犬飼のアホ」
「あれ、名前で呼んでくれるタイム終了した?」
「安売りはしないタチです」
「安売りて笑」

優しく頭を撫でられて、心拍数が落ち着いた頃に体を離す。彼はご機嫌な顔で私を見つめ、『約束、忘れないでね』と言った。忘れるもんか。君が泣いたことも覚えててやる。

「さぁて。良い天気だし、外でお散歩でもします?」
「します!」

笑顔の彼に手を引かれて立ち上がる。晩御飯の時間までにお腹を空かせなければ。

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