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春の庭 前編 【隠岐】

「いってきまーす」

星座占い最下位の称号をゲットした朝8時15分。今から走って間に合うか間に合わないかの瀬戸際にある本鈴はいっそ潔く諦めて、今日は雲の様子とか人の家の植木を眺めながら優雅に登校することに決めた。遅刻確定、早速曲がらなくて良い道を曲がってみる。

学校に行くのが辛いとかそんな大層な悩みもないけどただ、前の席の人が背高くて黒板が見えにくいせいと本態性低血圧のせいで授業へのモチベが下がっている。

朝ご飯の匂いがする住宅街を歩きながら思ったのは、通学路に海が見える場所があればいいなってこと。みんなが理科室でブロッコリーのDNAを抽出してる間、何で揺れてるのかもわからない波を眺めながら1人でパピコ2本食べたい。そういうエモい時間の中で泳ぎたい。テストで100点取ったことよりもそういう経験の方が今後に大きな影響及ぼす気がする。
どんな動機で地球が回ってるのかを誰も知らないから、この場所が世界の全てなんかじゃないって可視化できる景色に沈む課外授業で私は自分のことをマジで普通の高校生なんだって思い知る。命は大事なものだし争いも望まないけど、壁の向こう側にいる会ったことない知らない人は生きてても死んでても同じだと思いましたって藁半紙に感想を書いて海に流したら、今日の授業はおしまい。

この気持ちをうまく言葉にできないんだけど、なんとなく、自分と社会との間に隔たりがあるような感じがして苦しい。友達もそれなりにいるしバイトもしてるし、男の子と付き合ったこともあるけど、どう頑張っても、自分は他の人に触れられないような気がする。綺麗にラッピングされた言葉の中身はたいてい空っぽで、そういうものを渡してくる人はいつも見返りを求めている。そんな風に、人をアクセサリーみたいに扱う奴等をいちいち信じたり期待するのも馬鹿馬鹿しくなってしまった。
道端で見た花は枯れて、雲は流れる。街は知らない間に開発されるし、人は死んだらいつか灰になって飛んでいく。生きるって期間限定。流しそうめんする時の水みたいに何処にも引っ掛からないまま、私もいつか地面に落ちて消えていく。

**


『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』

先生が教壇に立って教科書p.124を朗読する5限目。春の空は青く高く、花びらが舞う風と共に暖かな光が室内に入ってくる。窓側後ろから2列目、席替えで運良く当選した昼寝席での授業はもはや日向ぼっこ。よどみに浮かぶ泡沫は…と続いたところで、まどろみの中に漂っていた意識はポチャンと音を立てて落ちていった。


『おーい、起きろ〜』
「…ん」

名前を呼ばれて身体を起こすと、友人3人が私を取り囲むように立っていた。

『おはよ〜爆睡してたね』
「今何限?」
『もうとっくに授業終わってるわ』

どうやら心地良いお昼寝タイムはノンストップで放課後まで及んだらしく、教室を見渡せばここにいるのは私含めこの4人のみだった。

『よし、じゃあ早速じゃんけんするよー!』
「は?」

何の前ぶれもなく突然始まるじゃんけん大会。それぞれが構えを始めるともう戸惑ってる暇なんてない。

『はいじゃーんけーん、』

ポン!と勢いだけで繰り出したチョキは1人負けのチョキ。人を殴る時の勢いでグーを出した他3人は『マジ!?』と声を揃えて大笑い。起きた瞬間じゃんけん1人負けのこの状況、何もわからないけどハッキリと感じる嫌な予感。

『じゃ、学級委員会よろしく〜!』
『1Aの教室で30分からだって』

話についていけないまま椅子から立たされ鞄を持たされ背中まで押される。新手の寝起きドッキリかな。いやそんなわけあるか。このまま黙って流されるわけにはいかないから意思を強く持ってその場にぐっと踏ん張る。

「待って一旦整理させて。何これ」

落ち着いて、とジェスチャーするけど3人はもうすっかり他人事だと思っているようで、開放感溢れる表情で口々に話始める。

『うちのクラスの学級代表が今日休みだから誰かが代わりに委員会出席しないといけないらしくて〜』
『でも誰も行きたがらないから寝てたうちらに丸投げして全員ダッシュで帰った』

4人の中で一番意識が起きてる状態に近かった者からの証言。全校集会の集合完了最下位常連のクラスが、まさかそんな時だけ団結力を発揮するなんて。

「このクラスゴミみたいな奴しかいないん?」

流石にムカついて思ったことを口に出せば、3人は頷いたり笑ったり『それな』って言ってみたり、順番に相槌を打つ。授業中に筆箱の中身で作ったショボいドミノみたいだな、なんて思っている間にもドミノは倒れ、会話はどんどん前へ進む。

『けどま、無防備に寝てた我々も所詮ゴミゴミランドの住人ってわけ』
『え〜でもさ、授業中の居眠りは自らに責任と代償を課すわけじゃん?あいつらは他人に面倒なこと全部押し付けて責任逃れしたんだからそもそも犯してる罪が違くない?』
『そーだよ。ここで逃げるってことは火事の時とかも絶対うちらのこと見捨てるじゃん』
『それこそ別の話では』
『何言ってんの。避難訓練で出来ないことは本番でも出来ないんだよ』
『それは納得』

でも結局、3人も他と同様で私に面倒ごとを押し付けることに成功しているから真の仲間ではない。まぁもし私がそっち側にいたら同じ態度を取っただろう。ほんと、ゴミ箱みたいなクラスだな。

「こんなクラスの代表として行くの恥ずかしい」
『いやいや、あんたがこのゴミゴミランドを良い方向に導いてくれるってウチらは信じてるよ』
『不安になったらいつでも連絡してくれていいからさ』
『マジで応援してる。終わったら打ち上げしような』

心にもないことを平気で口にする女たちに押され、とうとう私はわけの分からない集まりに出席する羽目になってしまった。


校舎内で若干迷って指定された教室に到着したのは32分。騒めきが廊下まで聞こえるくらいにはもう人が集まっていて、入った瞬間洗礼のような視線の集中攻撃を受けた。

『2年生おそ〜い。もうほとんど集まってるよ』
「すいません、2B代理です」
『代理だからって遅れて来ていいわけじゃないからね』
「はーい」

いや、こんなのちゃんと来ただけで表彰レベルでしょ。耳をちくわのようにして、教師からの説教は右から左に流しておく。

『名簿に印つけて、自分のクラスの席に座ってくださーい』

教壇のところに突っ立っている生徒会の呼びかけに応じて、名簿の2-Bに蛍光ペンでサッと線を引いた。色がついていないのはあと1つ、隣のクラス2年A組。下には下がいるもんだなぁとちょっと安心しながら席に着く。

『おそ〜い、貴方が最後よ』
「うわマジか。遅れてすいませ〜ん」

最後の1人は5分遅れて到着した。もう全員が着席して静かにしてる中、遅れてきたわりには堂々と入ってくる。

『もういいから早く座って』
「はぁい」

先生に申し訳無さそうに会釈するその人を見て、3年の生徒会長が『え〜!』と嬉しそうに声を挙げた。

『ちょっと待ってウケるんだけど!隠岐くん学代?え、2Aの人事大丈夫そ?』
「いやいや俺代理で来ただけですって、女子に押し付けられました」
『えーかわいそー笑笑』
「ほんまですよ〜」

委員会そっちのけで仲睦まじげに話をする2人に、目敏い女教師が横から水を差す。

『ちょっと君、遅れて来た自覚あるの?貴方も生徒会長なんだから後輩の見本となる行動をしなさい』
「すいませーん」
『ごめんなさーい。じゃ、今から委員会始めまーす。きり〜つ』

間延びした号令でだらっと起立して、適当に礼して座る。遅れて来たA組の子が隣の席に座る時、こちらに軽く会釈をしたから同じように返した。配布されたプリント冊子を捲りながら会長の話に耳を傾ける。

『今日は今度のクリーン清掃についてお知らせがあって学代さんに集まってもらいました〜。土曜授業の日の午後から学校周辺や近くの公園を地域の人たちを交えて清掃します。各クラス学級代表と保健委員は必ず参加、有志の参加も大歓迎だからクラスに伝達よろしくおねがいしま〜す』

学年の垣根を越えて交流を深める目的もあるから参加者はなるべく多い方がいいな〜とアピールする生徒会長の思いを踏み躙るわけではないけど、誰が好き好んでそんな面倒なことするんだろう。私なら絶対行かないけどな、というのがゴミゴミランド側の意見だ。
しかも決行日が土曜授業の放課後なんて、そんなのフードコートかサイゼリアで友達と昼ご飯食べながら駄弁るのに使うための時間でしょ。
詳細が書かれている冊子を眺めながら行かない意思を固めていると、隣の人が人差し指の関節を使ってコンコンと長机をノックした。何してるんだろうと顔を上げてみるとバッチリ目が合う。

「すいません、2枚目って両面印刷ですよね?なんか俺のやつ片面しかなくて」

こそこそ小声で相談してきた彼のプリントを確認してみると、確かに裏面がない。
仕方ない、ここは私がひとつクレームを入れてやろう。

「せんせー、ここミスプリ〜」
『はーい、ちょっと待ってね』

パッと手を挙げて訴えると、先生がすぐに新しいプリント冊子を持ってきた。一応表裏を確認してから隣に流せば、彼は申し訳無さそうに眉尻を下げて受け取る。

「すいません」
「ん、いーよ」

会話が難無く終了して、視線を前に向けると次は会長と目が合った。すぐに逸れたし特に気にするようなことでもないけど、今度合ったら指ハートしよう。

しばらく話に半分耳を傾けながら落書きに興じていたけど、隣の奴がやたらこっちを見ているような気がして、書き辛くなって手を止めた。何なんだろう。

「…」

顔を隠すように隣との間にわざと肘をついてそっぽを向く姿勢をとってみても、まだ視線を感じる。もしかして顔に何か付いてるのかなと頬を触ってみても何もないし、とうとう本格的に怖くなった私は頑なにそっちを見ないようにして過ごした。こうなったら我慢勝負だ。
ただ早く終われと願いながらペンをくるくる回すこと20分、説明がやっと終了。鞄に持ち物を突っ込んで、逃げるようにそのまま帰宅した。
とにかく今日は謎の委員会に行かされた挙句、謎の恐怖体験を味わった散々な1日だった。星座占いって結構当たるのかも…。


**


『ぶっちゃけ別れたいんだけど、彼氏っていう存在を手放せない自分がいて…』
「それ誰が幸せなん。さっさと別れろ〜」
『だって非リアになりたくないんだも〜ん!彼氏はいらないけど彼氏持ちのステータスは保持した〜い』
「はは。そのステータスふるさと納税の返礼品で貰えたらいいのにね」

木曜日の夜、私は友達の彼氏の惚気を聞きながらコンビニへ向かっていた。目の前にいたら殴られるようなことを言えるのが、電話の良いところだ。

『あのねぇ〜こっちは夜1人でコンビニ行くの怖いあんたのために電話繋いでやってんの!話くらい真面目に…』
「え、ごめんなんて?ちょっと電波悪くて」
『山奥のコンビニでも行ってんのか?』

形勢が傾いてきたし、もうすぐコンビニに着くのでそのまま声を遠くにしつつそっと通話を切る。一応明日のことを考慮して、トークルームを閉じる前におやすみのスタンプを送っておいた。
晩御飯を食べた後、家からわりと距離のあるコンビニまでわざわざ出向いたのはこのコンビニチェーン限定で販売されてるマンボウを象った菓子パンを買うため。
その可愛いとも奇抜とも言えない微妙すぎる見た目のせいで発売から1年が経とうとしている今、SNSで話題になるなんてこともなく、コンビニパン界隈の荒波の中でこの商品が生き残っているのはもはや奇跡としか言いようがない。マイナーすぎてなかなか取り扱いがなく、今日も近辺のコンビニをはしごすること3軒目でようやく出会えた。
これこれ、とパンコーナーでマンボウを2匹捕まえたところでふいに苗字を呼ばれる。覚えのない声に反応して、視線を向けた先にいたのは予想外の相手。

「こんばんは〜」

被っていた帽子をずらして律儀に顔を見せてくれたその人は、昨日隣の席に座ってた彼の雰囲気と重なった。

「あー…ミスプリの人?」

名前がわからないからそうとしか言えなくて、それを聞くと相手は人当たりのいい笑顔を浮かべる。真正面からちゃんと顔を見たのはこれが初めてだ。

「隠岐孝二っていいます。昨日はどうもありがとう」

「ちゃんとお礼言えてなかったの気になってて」と目を見て話してくれる彼には悪いけど、昨日のこともあってビンビンに警戒心を抱いてしまう。山で熊と出会った時みたいに、さりげなく1歩後退り。

「それは別にいいんだけど。私、君に名前教えたっけ」

教えていないはずの名前を当てられたこと、ほとんど絡みなかったのに学校の外で声をかけられたこと。警戒する理由は充分揃ってる。

「あーごめん!プリントの端に書いてるの見て…うわ、確かにこの状況普通に考えてめっちゃ怖いな。びっくりさせてごめん」

会ったのは昨日が初めて。会話もほとんど必要最低限の受け答えのみ。それなのに、一度見ただけの私の名前と顔がフツウ一致する?記憶力どうなってんだ。
でも今のところ、彼の表情の変わり方とか話し方からして害のあるタイプではないのかもしれない。

「2回も謝んなくていいよ。記憶力いいんだね」

警戒心丸出しの私を何とか穏便に宥めようとしてるのが、なんだか可哀想に思えてフォローを入れると、相手は心なしかホッとしたように肩の力を抜いた。

「一応言い訳だけさせて。昨日、手の甲に何かメモしてたやん?」

彼は突拍子もないことを言って私の手の甲を指す。たしかに、昨日ここにメモをしていた。内容は確か…

「“赤ペン0.5 ”、“三角定規”ってやつ?」
「そうそれ!奇跡みたいな話やねんけど…これ見て」
スッと差し出された彼の手の甲には、“赤ペン0.5”、“三角定規”。一言一句、何なら油性ペンでメモしてるところまで昨日の私と完全一致。

「そんなことある?」
「な、びっくりやろ?昨日、プリント貰った時にたまたま気付いて…めちゃくちゃ言いたいと思ってかなり視線送ったんやけど、結局タイミング無くて…」

どおりで視界の端でうるさくしてたわけだ。普通に声かけろよ、と思うけどそんなに仲良い人でもないし当たり前か…何か、わざと無視しちゃって悪かったな。

「あんなに見られたら逆に怖くてそっち見れないから。もはや見たら負けだくらいの気持ちでいた」
「え〜やっぱり気付いてて無視してたん?何となくそうかなって思っててんな〜」

やっぱり、って。わかってたのにリベンジしてくるパッション理解不能すぎる。

「でも今日言えて良かったわ、後悔で一生これ消されへんとこやった」

私が若干引き気味になっているのもお構いなしで彼は得意気に手の甲を見せて笑っている。

「怖いな。ちゃんと今日消しなよ」
「はーい」

昨日お風呂で頑張って擦って消したのに、こんなことなら残しとけば良かった。

「じゃあ、そろそろ行くね」

このままダラダラ立ち話を続けても仕方ないし、ちょうど話題が尽きたタイミングで場を切り上げる素振りをみせる。

「あ、引き止めてごめんな。どうぞ買ってきて」

よく見ると彼はもう片手にレジ袋を下げていた。わざわざ話しかけるために戻ってきたのか。恐るべし突っ込みへの執着。

会計を終えて店を出ると、ゴミ箱の横に突っ立ってスマホをいじっていた彼がパッと顔を上げた。まだ居たのか、私はさっさと帰ってテレビ見ることで頭がいっぱいなのでお先に失礼します。

「じゃあね」

別れの合図に軽く手を振るけど彼は振り返してくれない。ニコニコと笑顔を浮かべたままスマホをポケットに入れた。

「送って行くわ。ここ警戒区域近いから」

あ、ミスったかも。
牛乳に墨を一滴落としたみたいに、テレビを楽しみにしてたぬくぬくふわふわ思考が灰色に染まる。これは家まで着いてくるパターン。ちょっと予想外、自分の勘信用しすぎた?

「大丈夫、ダッシュで帰るし」

マジで不要ですから!と手のひらを彼の方に向けて最上級の断りを入れる。ここまでされたら流石に身を引くだろう。逆に、これで効かなかったらおしまいだ。

「そういう問題じゃなくて、夜に女子1人で出歩くのは普通に危ないやろ。家の場所知られたくないなら近くまででもいいし、なるべく薄目で歩くから」

穏やかな口調と表情。見るからに温和そうな雰囲気を纏う彼は、一応こちらへの配慮はするけど主張は取り下げない。意外としぶとい姿勢で向かってくるんだな。ていうか薄目って何?そんなの真冬のシアージャケットくらい意味ないでしょ。この程度で説得されてじゃあお願いします、ってなる奴が一番危なっかしい。

「たしかに私も不用心だったし、帰り道でネイバーとか不審者に出会したらまぁやばいけど。でも正直言って君のこともまだそこまで信用してないし、手厚くしてもらう義理もない」

ストレートな言葉をあえて選んで、心のシャッターを閉める。他人との距離の縮め方にギャップを感じるのは彼に限ってではないけど、自分と他人の線引きが曖昧な人とは気が合わない。彼は、開かずの金庫を前にしたような困り顔でへらりと笑う。

「うーん…なんて言うんかな…義理とか好意で言うてるわけじゃなくて、俺これでも一応ボーダー隊員やから市民の安全守るのは仕事のうちやねんな?だから、なるべく協力してくれたら助かる」

見えないけど鋭い、触ることができないけどなんとなく冷たいと感じるその言葉を聞いて気付いた。人当たりのいい印象を抱いた笑顔は自己表現ではなく、うまく立ち回るためのものだってこと。
最初から貴方に好意はないですって芽を摘まれた瞬間、彼を囲む壁に初めて触れた。耳をすませば鼓動が聞こえそうで、あんな笑顔よりも一層人間らしい。おかしいかもしれないけど、その壁があることに安心してる自分がいる。
この人は態度にこそ出さないけど、本当は私に心を許していない。だから、今の言葉には説得力がある。

「真面目なんだね。友達でもない人がこの後どうなったって知らないフリできるのに」
「うん。まぁ、そやね」

皮肉を言っても、表情はまったく変わらなかった。ちょっとくらいムカついてくれてもいいのに、どうしてそんなに当たり前みたいに聞いていられるのだろう。

「正直なとこ、君がこの後危ない目に遭っても俺に何の関係もない」

文章中から答えを抜き出す国語のテストみたいな話し方。問いかけの意図を理解して、求められた言葉を用意するくらい彼は楽勝でできるのだろう。
でも私だって、今まで何度も問われて解いてきた。ここでコイツに負けたくない。何とかドロンする流れに持っていかなければ。

「関係ないなら、」
「でも、もしほんまに何かあったら後で気ぃ悪いやん」

ほっといてよ、と続くはずだった言葉を彼が落ち着いた調子で遮る。瞬間、頭から氷水をかけられたような気分の底に落ちた。身体からいきなり魂だけが抜け出して、自分を外から見てるみたいな感覚。途端にさっきまでの自分を馬鹿馬鹿しく思う。
彼は今、警戒されていることも理解した上で面倒を買って出たのに、私が頑なに断るから『勝手にこの辺りで被害に遭われちゃ迷惑』って意味で言い返してきたんだ。しかもめちゃくちゃオブラートに包んで。
対して私は、彼を害悪男と決めつけた上でムキになって、本性を見抜いてやろうとわざと苛立たせるような皮肉を言った。しかもそれも失敗に終わる。
誰が見ても浅はかなの私の方じゃん。何この差。やばくない?とにかく、これは本当に早く謝ったほうがいいやつだ。

「ごめん。そういうことまで考えてなかった。私かなり感じ悪かったよね。ごめんね、あんまり気にしないで」

彼だって、こんなことわざわざしたくないはず。流石に自分のことしか考えてなかった。

「あははっ、2回も謝らんでいいよ。今日初めて喋ったような奴のこと信用できひんの当たり前やし、なんも間違ったことしてへんから。俺の方こそ気遣わせてごめんな」

さっき私が言った言葉を真似して彼が笑うと、場の張り詰めていた空気がどうしてかゆるく柔らかになる。私の気持ちが変わらないうちに彼が「じゃあ行こか」と先に一歩踏み出した。でも、

「あ、待って。家の方向知らんわ。こっちで合ってる?」

すぐに立ち止まって助けを求めるように振り返る。さっきまでめちゃくちゃ危険な男だと思って警戒してたから、間抜けな姿を見せられると途端に拍子抜けしてしまう。これも計算でやってるならかなりえぐいけど。

「見事に逆方向でーす」

**

「でも正味、ペンホ民ほとんど意地になって使ってる説はある」
「それは否定できない。てか思ってたんだけど今年卓球ガチ勢多くない?流行ってるの?」
「あ〜学期末の球技大会も卓球するみたいやしなぁ」
「え?バスケとかドッジじゃなくて?」
「なんか今期の体育委員、全員クラスでじゃん負けして嫌々なった子らしいで」
「ある意味奇跡じゃん」

会話が行き詰まって気まずくなるだろうなと予想していた帰り道。思いがけず、私達は自然な空気感で会話をしていた。ていうか何で体育の話になったんだっけ。会話のキャッチボールが激しすぎて思い出せない。

「あそこの街灯まででいいよ」
「はーい」

少し先にある曲がり角の手前の街灯を私が指して、彼が了承する。話しながら歩く徒歩20分はあっという間だった。なんとなく訪れた沈黙のあと、彼の方を見るとバッチリ視線が合った。気まずくて私はすぐ逸らしてしまうんだけど。

「俺の名前言える?」

これまた突拍子もなく、こちらを試すような質問。こんなこと聞くのってきっと、人の内面に鋭いからだ。

「はは、当たり前じゃん」
「じゃあ言ってみて」
「ほら、あのお肉が柔らかくなる調味料の…」 
「誰が塩麹や」
「箒使って廊下を…」
「掃き掃除」
「桃太郎と一緒に…」
「鬼退治…ってわざとやろ?」
「あははっ、ごめんねごめんね〜」
「オチはU字工事か…」

彼の華麗な突っ込みテクニックのおかげで私のボケが気持ちよくキマる。息ぴったりの餅つきみたい。一緒にM1の予選出て第一審査で落とされようぜ。

「ボキャブラリーえぐ。自分、前世カニエウェストか何かなん?」
「どーも。カニエウェスト全然生きてるけどね」

彼が笑って私も釣られて笑う。彼と話してるとたまに、ずっと前から知ってる人だと勘違いしてしまうような一瞬がある。何でかな、笑いのツボが似ているのかもしれない。

再び訪れた沈黙、気がつけば約束の街灯はもう目前で。

「今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」

オレンジ色に灯る光の下で私達は立ち止まった。これから彼は今来た道を戻って、私は50m先の自分の家まで帰る。恐らくもうこれっきりになるだろう。直感的にそう感じたのは私だけでは無かったようだ。

「また学校で会ったら、話しかけていい?」

出方を探るような言い方だし、ただの社交辞令で言ったわけではないらしい。頷いてしまえばうっかり無防備な自分が引っ張り出されそうで、わざと曖昧な返事をする。

「話すことあればね」
「そこは嘘でも『いいよ』って返事するとこやん」
「あははっ、嘘でもいいの?」
「そういうわけでもないけど…やっぱまだ俺のこと警戒してる?」

彼はちょっと不安そうに顔を覗き込む仕草をした。“やっぱ”って。彼も私みたいに人が発した一言一句にいちいち引っかかって、言葉の箱を開けて中身を見ようとしちゃうタイプなんだろうな。

「いや、むしろ印象は良い方だけど」
「ほんま?」
「ほんまほんま」
「いや絶対嘘やわ、次話しかけたら『どちら様ですか?』って言う顔してる」

疑い深。さっきの私と張り合えるんじゃない?

「してないって。それどんな顔?」
「あははっ、ごめん今のはちょっと揶揄った。でも言質とれたし俺の勝ちやな」
「うーわ、マジでいい性格してるね」
「ど〜も〜。じゃあ、そろそろ行くわ」

思ったより簡単に手を振った彼にバイバイ、と振り返そうとして、ふと腕にかけていたレジ袋の存在を思い出す。

「あ、隠岐くん待って」
「え?」

2歩ほど進めていた足をピタリと止め、彼が驚いたように首を傾げる。

「これあげる」

レジ袋から取り出したマンボウパン1匹、差し出せば彼のキョトンとした顔から笑みが溢れた。

「何これ、殴られたタコ?」
「マンボウパン。侮らないで、めちゃくちゃ美味しいからね」

彼は受け取ったマンボウパンにもう一度視線を落とし、やばすぎやん、と愉快に笑う。

「ありがとう、名前も一発で覚えてくれて」
「次会った時は忘れてるかも」
「めちゃくちゃ天邪鬼やなぁ…忘れそうやったら手に書いといてな〜」

今日出た話題しっかりネタにしてくるあたり、この人絶対頭の回転速いタイプだ。呆れ笑いしながら今度こそ手を振って「じゃあね」と告げると、「これありがとう〜」とマンボウパンを顔の横で持って笑い、手をひらひら振り返して彼は暗闇の中に消えていった。

1人で歩く道はいきなり現実で、さっきまで不思議な体験をしていた気分。隠岐くんって本当に学校にもいるのかな。いやこの前いたけど。何かもう会える気がしないな。だから、あのマンボウパンは餞別ってことにしておこう。

棚引く雲に隠された月を見上げる。本当は怖いから、私の方から人との繋がりを切っているだけなのかもしれない。
でもそんなのわかったって、今更…。

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