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エーデルワイス 6 【犬飼】

全身を駆け巡った熱もほとぼりが冷めて、今はただ目の前でホットケーキをもっふもっふ頬張る彼を眺めていた。4枚目。食べ過ぎだと思う。

「別に全部食べなくたっていいよ」
「だめ。俺の誕生日ケーキだもん」

こんなに食い意地を発揮している犬飼は今まで見たことがない…焼肉に行った時ですら、「俺もうお腹いっぱ〜い」って最初の方に離脱するのに。
ホットケーキタワーをお披露目すれば、彼は『誕生日ケーキを用意してくれた』と都合良く解釈してくれた。とりあえず角が立たないようにそういうことにしたけど…夕飯前にこんなに食べて平気なのかな。誕生日だし、家族がご馳走とか用意して帰りを待ってるんじゃなかろうか。だとしたら、こんな偽センイルケーキを食べさせてお腹を満たしてしまうのは申し訳ないような気もする。

「余ったら持って帰ればいいから」

やんわり流されてくれないか、と声をかけると、彼は4枚目を食べ終えて、空になった皿の上にナイフとフォークをカチャリと置いた。

「…そうしてもいい?」
「いい!むしろそうして欲しい」
「不甲斐ないよ…俺の胃袋がモデルサイズなばかりに」

つまらない戯言は無視して、ホットケーキを包むためのラップとジップロックを準備する。彼は少し恥ずかしそうに、視線を部屋の端に逃していた。志だけはフードファイターの高さだったようだ。そんなプライドは燃えるゴミの日に出して捨てたらいいと思う。

余った分のホットケーキを1枚ずつぽてぽて包んで、纏めてジップロックに入れる。彼は作業が終わったタイミングを見計らって、隣に移動してきた。
何か言いたげな顔をしてるから、残りの片付けは後回しにして「どうしたの?」と聞いてみる。肩が触れ合う距離に座り直すと、こちら側に首をこてんと傾けて、体重を預けられる。ちょっと重いけど、彼は普段からこんなことをするわけじゃないから文句は言わずに受け入れる。

「ねぇ…俺たちって恋人?」

私たちは確かに、他の何にも代えられない気持ちを分かち合っていた。見たこともない感情に戸惑ったり、居心地良く感じたり、終わりの時を恐れて過ごしていたけど…大切にしたい気持ちを曖昧にしたまま生きるのは、もうやめようと思う。今日こそは、しっかり目を合わせて話すんだ。

「私はそうなりたいと思ってる」

ゆるやかに波打つ心臓の音。この音はきっと、彼にも響いてる。まるで真昼の空に星が輝くように、犬飼の瞳はキラキラと揺れ光り、瞬きをすれば煌めきが零れ落ちた。あぁ、この瞬間は何気ないけど、きっと何度も思い出してしまうだろう。そう思って、私は言葉を続ける。

「ずっと、曖昧にしててごめん。自分の中で犬飼の存在が大きくなればなるほど、変わることが怖くなっていったの。友達の方が永遠に仲良しでいられるだろうなって、自分がショックを受けたくなくて、犬飼の気持ちを大切にしてあげられなかった」

大切にしたいだなんて思うだけなら簡単で、実際の私は自分が傷付かないことに必死になりすぎた。取りこぼしてきた想いの数々は星になって、もう手の届かないところから私たちを見下ろしている。

「でも、出来なかったことを数えて後悔したり、先のことを恐れて何もしないのはもうやめる。私は今、目の前にいる犬飼のことが好き。本当に言いたいのは、それだけなの」

未来にはすごく明るい光の当たる場所や、底の見えない穴が空いている場所がある。でもそれはきっと、今から恐れなくてもいい。案じていても避けられはしない。彼と出会った日みたいに、全部突然やってくるんだ。

話し終えると同時に抱き寄せられて、彼の香りに包まれる。全然違う人なのに、まるで自分の一部のような気がする。そんな不思議な温もりの中で目を閉じる。

「俺がうんって頷いたら、もう、戻れないよ」
「そうだね」
「きっと、離してあげられない」
「面白いじゃん。やってみようよ」
「あははっ、もう。ばかぁ」

今はただ、優しくて暖かい声に耳を澄ませていたかった。犬飼はくっついてた身体をそっと離して、いつもみたいに顔を見合わせて笑う。

「恋人になってくれる?」
「ねぇ、それ俺の台詞だってば」
「返事は?」
「なる!!!」

あははっ!と満開の笑顔で笑って、今度は力一杯に抱き締められた。抱き締め方が意外と荒っぽい。でもその遠慮ない力の込め方が、素直に嬉しかった。



**

「送って」

玄関まで見送るだけのつもりが、彼の要望に応じて家まで送ることとなった。まぁバースデーボーイだから仕方ない。彼女みたいな甘え方だね、とかは絶対不機嫌になるから言ってはならない。

時刻はまだ17時頃で、外を歩いていると部活帰りの中高生や、犬の散歩をする人たちとすれ違う。いつもと何ひとつ変わらない夕方の景色、私と犬飼は雲の流れのようにゆっくりと帰路をなぞる。空を泳ぐ鯉のぼりを見つけて指をさしたり、靴底とコンクリートがぶつかって生まれる硬い音が心地良かったり…もっと変わると思っていた世界の色は、案外何も変わらなかった。
キラキラと輝きながら日は沈んでゆき、もうすっかり夕方と夜の中間の空になっていた。柔らかい風が木々を揺らせば、葉擦れが生まれる。そのざわめきはまるで雨音のようだった。ふと名前を呼ばれた気がして隣を見ると、彼が手を差し出してゆっくり微笑む。

初めて一緒に帰った日は、沈黙が生まれないように努力した。喧嘩して仲直りした後の帰り道は自然と口数が増えた。遠くまで出かけた日は、帰りの電車で肩を貸し合って爆睡した。何でもない仕草や口癖、並んで歩いた沢山の帰り道。何百回と重なってきた取り留めもない日々の出来事も、全てが大切な思い出になる。

込み上げてくる想いを堪えて、差し出された手を取った。ようやくって感じもするし、今更って感じもする。ずっと縮まらなかったあと数センチの距離は、手を伸ばせばあっさり届くものだった。

風に乗って、踏切りの音が聞こえてくる。知らない町へ向かう人々を乗せた電車、時速1700kmで回る地球、気まぐれな空の色。今ここにある空気や時間が瞳に染みて、ずっと私の中に仕舞い込むことができたらいいのに、きっとすぐ忘れてしまうのだろう。今日出会った光景がだんだん薄れていく感覚は、やっぱり少し寂しい。でも彼が一緒に進もうって、この手を繋いでくれた。

この瞬間をなるべく鮮明に覚えていたくて、隣を歩く彼に目を向ける。私の視線に気付いた彼は、少し恥ずかしそうに眉を下げて、わざと反対方向に目を逸らした。でもすぐにこっちを見て、力の抜けた笑みを浮かべる。

「これ…思ってたより照れるね」
「その顔やめて〜私まで変に緊張してくる」
「緊張?俺なんか必死に手の震え抑えてるから」
「なんでちょっと得意気なの?」
「いやいや…告白した勢いで今は強気になってるかもしれないけど、俺の方が断然クソデカ感情拗らせてるってことは忘れないで欲しいよね」

マジで堂々と何言ってるんだろうこの人。えぇ…って顔をしてみると、手をぎゅっと強く握られた。

「そんな顔も、大好きだよ」

外だから気を遣ったのか声を潜めて、目線を合わせてくる。手を繋いだ分、いつもより近い距離に柄にも無くドキドキした。犬飼の好意が温度になって、手のひらから伝わってきてるみたいに感じる。

「犬飼、」

急に歩みを止めて名前を呼べば、彼も一歩遅れて足を止める。春の香りが風に溶けて運ばれてきたような、柔らかな空気。2人の間では、時間もゆっくり流れていた。

「ありがとう」

詳しい言葉なんて何もなくて、ストレートに想いだけ伝える。自然と溢れる笑いはどうしようもなかった。彼と過ごす時間そのものが、私の喜びだった。

「俺の方こそ…あの日、声かけてくれてありがとう」

犬飼はそう言うと、内から感情が溢れるように笑った。表情筋、緩み過ぎだと思う。

最初は私たち2人とも、1人になりたかったはずなのに、いつの間にか2人で1人みたいになっていた。…盛大なやらかしだったよね。本当に、こんなつもりじゃなかった。でもこの距離なら、お互いに手を差し伸べられるね。

彼の家まであと少し。繋いだ手を離さないように力を込めた。もし彼が立ち止まっても、今度は私が手を引いて歩けるように。

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