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エーデルワイス 5 【犬飼】


雨上がりは遠くの景色がよく見える。桜の木の緑がさらさらと風に揺れ、雲間から地上に向かって真っ直ぐに光が射す。
任務終わりのブレイクタイム。本部のラウンジでカフェオレを飲みながら、窓の外を眺めていた。何もすることがない時に思い浮かぶのは、履修登録のことや今日の夕飯のこと、あと3キロ痩せたいとか、カラオケで歌える曲を増やしたいとか、彼は今日どうしてるかなとか。

受験、卒業、入学と忙しい日々を過ごしているうちに季節は巡って、花見をする余裕ができた頃に桜はもう散り始めていた。何もできないまま気持ちだけが焦って、あたたかい時間と揺らめく景色の中で、穏やかな眠気に襲われる。机に頬杖を突いてしばらくうとうとしていると、視界の端で、向かい合わせの席がカコンと動いた。

「浮かない顔の人発見〜グミ食べる?」
「カフェオレ飲んでるからいい」
「大丈夫、これカフェオレとの食べ合わせ抜群のグミだから」

登場3秒で人を苛つかせるなんて、すごい才能の持ち主だな。もう一度断わるのも面倒でしぶしぶグミを一粒受け取ると、犬飼からはゆるい微笑みが返ってくる。今日は随分とご機嫌みたいだ。そんな顔しても、ぶどう味のグミとカフェオレの相性は良くはならない。

「久しぶりだね」
「ん。いうて先週の金曜会ったじゃん」
「ゆっくり話せなかったし。前までは毎日のように会ってたから余計にね。どう?学校楽しい?」

犬飼の質問に、私は「うん」と首を縦に振った。三門市内の大学に進学した彼とは違い、私は電車に乗って隣の県の大学まで通っている。春からは防衛任務のシフトが被ることも少なくなった。

「電車通学結構大変だけど、慣れるまでって感じかな。学校は楽しいよ。犬飼はどう?」
「俺もまぁまぁ楽しいよ。高校の時より知り合いも多いし」

彼の通う大学はボーダーの連携校で、在籍する正隊員も多い。器用な彼のことだから、人脈を上手く活用して充実した学生生活を送っていそうだ。目を合わせると、犬飼は私と同じように机に肘をついて人懐っこい笑みを浮かべる。やっぱりいつもより表情が柔らかい。

「なんか今日、嬉しそうだね。良いことでもあった?」

聞けば、窓の外に視線を移して「まぁね〜」と落ち着いた調子で目を細めた。目は口ほどに物を言うって、このことだな。

「弟子の成長を実感できたってとこかな」
「若村くん?彼、いい人だよね。親切で礼儀正しいし」
「あれ、何。話す機会でもあった?」
「自販機で新しい500円硬貨使えなくて困ってたら、助けてくれて」
「え〜何やってんの。でもまぁ、そう。案外しっかりしてるんだよ」

若村くんのことを誇らしげに話す犬飼は、師匠って感じがして、なんだか知らないうちに大人になったみたいだった。きっと2人はお互いに影響を与え合って、良い関係を築けているのだろう。

「ところで。そっちは、何か悩み事?」
「いや、別に…」

不意に話が回ってきて反射的に首を振ったけど、やっぱり話したいような気もして、途中から言葉を探す。彼が落ち着いてるように見えるのは、私が焦ってるせいかな。

「…まだ犬飼に何もしてあげられてないなって思って」

どんどん進化して変わっていく彼に比べて、私の方はどうだろう。歩幅を合わせて貰ってばかりで、その恩さえまともに返せていない気がする。
反応がなかなか返ってこなくて、そっと顔を上げて様子を窺うと、彼は驚いたような顔でこちらを見ていた。

「何言ってんの?もういっぱい貰ってるのに」
「…うん」
「なんかイマイチ納得してないね?」
「うん」

だって犬飼は、私のことかなり贔屓目に見てるからなぁ…優しくされても素直に受け止めることができず、釈然としない態度を取ってしまう。でも、彼は言葉の表面よりもその中身を掬い取ってくれる人だ。

「まぁ…焦らなくていいよ。あと200年くらいなら俺、余裕で待つし」
「…化石になっちゃうよ」

机の上に置かれた彼の片手に私が手を重ねると、犬飼は表情をふわりと和らげた。

「そうなったら君が自然史博物館に寄贈してくれるんでしょ?」
「なんでそんなこと覚えてんの…」
「嬉しかったから」

変なことばっかり覚えてるんだから…
飛び出す絵本の今開いてるページが今日なら、過ぎてしまった日々は立体感を失って、今日を閉じればまた明日が巡ってくるのだろう。
頭の中は勝手にアップデートされるアプリみたいで、私自身が望んでいなくても記憶は自動で整理される。何でもない1日は忘れたことさえも忘れてしまい、永遠もいつか一瞬になって、大切にしていても時が経てば過去の1ページになる。
大切にしたいという気持ちにはいつも寂しさがセットで付いてくるから、どうすればいいのかわからなくなる。きっと一度でも手を繋いでしまえば、離す瞬間が怖くなると思ったんだ。

繋がずに重ねただけの手から、彼の温度が伝わってくる。
自分一人では感じることがなかった気持ちを彼が教えてくれる。彼が触れたところから、自分を守ってた硬い鱗が剥がれ落ちていく。

「犬飼は最初から遠慮無いし、言い方もキツくて怖かった。でも私は…それがちょっとだけ、嬉しかった」

感動はいつも、雷が光ったり打ち上げ花火が上がったりするような明瞭なものではなくて、ふとした日々の瞬間に散らばっているものだった。気まずかった空気、自然に外された視線、ふざけて作ったメロンフロートの色や堪えきれなかった涙の熱さ。視線の先は違っても、心の中には出会った頃から広がってきた2人の世界があった。

「…ストップ。これ以上なんか言われたら、俺たぶん我慢できない」
「何を?」
「普通に泣きそう」
「あははっ、ごめんごめん。この後任務?」

うん、と頷く彼にハンカチを渡す。犬飼はそれを受け取ると、何かを掬い取るように目元を拭って、勢いよく立ち上がった。

「再来週、俺の誕生日。祝って」
「自分から言う人珍しいね。わかった。祝うよ」
「約束!」

ん!と突き出された小指に、思わず笑って小指を絡める。なんだこれ…小学生みたい。
人混みの中に消えていく背中を見送って、もう一度窓の外に視線を向ける。遠くの空に虹を見つけると、彼にも教えてあげたかったなと思った。



**

朝の5時半に公園集合!なんて言われても、もう驚かなくなっている自分が怖い。忘れないように玄関に準備していたプレゼントを持って、家を出た。まだ街灯が灯ってるくらい外の空気は薄ぼんやりとしていて、ひんやり冷たい。息を吸い込むたびに身体がすっきり冴えていくように感じた。

地域で一番大きなこの公園は、敷地内に丘や池、植物園やカフェまであって、土日は家族連れが集まる人気スポットだ。でも早朝すぎるせいでほとんど人もいなくて、行き道は犬の散歩をしてるご老人しか見かけなかった。
待ち合わせ場所の植物園の前に着くと、犬飼はもうそこに居て、しゃがんで花壇を眺めていた。近づいて「おはよう」と声をかけると、「早すぎるよね〜おはよう」っていつもの笑顔でこちらを見上げる。

「見て、スズラン咲いてる」
「ホントだ。本物見るの初めてかも」
「俺もどう森でしか見たことなかった」
「綺麗な村にしか咲かないやつね」
「それそれ。よし。じゃあ、ちょっと歩こっか」
「あ、待って」

立ち上がろうとした彼を咄嗟に止めて、ポケットからスマホを取り出す。

「バースデー記念に写真撮っておこう」
「あはっ、何それ」

犬飼は呆れたように笑うけど、カメラを向ければ「カッコよく撮ってね」とノリノリでピースサインを作った。

「良い笑顔」
「待ち受けにしてもいいよ〜」
「魔除けになりそう」
「おい」

軽口を叩き合って、公園内を散歩する。とりあえず池の周りをぐるりと歩いてから、ゆるやかな丘を登って朝日を眺めた。
澄んだ空色の風が吹けば、彼の髪はきらきらと光に透けて輝く。周りが静かで、心の中もストンと落ち着いていた。今日はなんだか、息が楽にできる。

「犬飼、誕生日おめでとう」
「あはは、今言うんだ。ありがとう」

言葉と同時に用意してた紙袋を突き出すと、彼は面白そうにニヤニヤ笑って受け取って、中身を見るとそのニヤニヤは驚きの表情に変わる。それからすぐに、もう一度笑顔を浮かべた。

「なんで俺の欲しいものわかったの?」
「エスパー」
「やば。今めちゃくちゃ喜んでるのも伝わってる?」

眉を下げながら口元を隠すのは、彼が照れてる時に必ずやる仕草だ。このまま見つめ合ってるとなんだか色々バレてしまいそうで、「うん」と頷くついでに目を逸らす。

「ありがとう。大事にする」

少しゆっくり息を吸って、もう一度遠くの景色を眺めてみた。遠くの記憶が重なって、デジャヴが起こる。彼といればこんな当たり前のことだって、奇跡みたいに耀くのだ。

「ねぇ、ホットサンド作ってきたんだ。一緒に食べよう」
「え!ほんと?食べる食べる!」
「胃袋がっしり掴まれてくださーい。向こうにベンチあったよね。行こっ」

池のほとりのベンチを示して、彼はひらっと軽快に身を翻した。もう手を引かれなくとも、私は彼に着いていく。それがどういうことか、自分でもわかっている。

目的のベンチに腰を下ろし、ほかほかのお茶と犬飼お手製のホットサンドを頂く。パクッとひと口かじると、ふわふわの玉子焼きとチョコレートの甘味が口いっぱいに広がる。なんだこれ。

「なんでチョコ入れたの?」
「まぁ、普通じゃ面白くないからね」

褒めたわけじゃないのに得意気なシェフ。独特なセンスの持ち主だな…特別な材料を使ったり、手の凝ったことをしてるわけじゃないのに、記憶に刻まれる朝ごはんだ。
ほぼ同じタイミングで食べ終わってから、「ごちそうさまです」と彼の方を向いて手を合わせると、同じポーズで「お粗末さまです」なんてお辞儀された。

食事がひと段落しても立ち上がらずに、時間の流れるままゆっくり過ごす。木の葉が落とした陰の涼しさと、斜めから射し込んでくるお日様の光の半分ずつに身を投じた。

「サークルとか入った?」
「うーん…新歓は誘われて何個か行ってみたけど、どれもノリが合わない感じがした。犬飼は?」
「あーね。俺はもともと入る気ないし、新歓すら行ってない」
「え、そうなんだ。何か入るのかと思ってた。夜に集まって星見る系のサークルとか」
「妙に具体的〜…そっちこそ、サークルとか興味ないと思ってた」
「まぁ活動自体は特に興味ないけど…他の人との繋がりは何かしらあった方がいいかなと思って」

私は大学に知り合いが少ないし、防衛任務でやむを得ず休むこともあるだろうから、他の人の力が必要な時もある。勿論それだけのために知り合いを作りたいわけじゃないけど…きっと1人で過ごすより、誰かと過ごした方が日々が彩るから。

犬飼は最初こそ意外そうに話を聞いていたけど、次第にその表情は緩まって、納得したような微笑みに変わる。

「なんか、変わったよね」

ひらひら舞い落ちた言葉は水面に落ち、心に触れた一点から、静かに波紋が生まれる。

「昔は、一人でも平気そうな顔してたのに」

視線を遠くに置いて、彼は私の肩に頭を預ける。なんとなく地面を見ると、私の影も犬飼の影も全部、木陰に飲み込まれて大きな1つになっていた。

「…あの時、ほんとは俺も、一人になりたかった」

主語なんてなくても、感覚で憶えていた。その声の向こう側、耳を澄ませば雨音が聴こえる。

「でも君に見つかった」

私たちは同じ時間を思い浮かべる。お互いにまだ何も持っておらず、何も知らなかった。目の前にいたのに見逃してしまったあの日の彼を、今、ようやく見つけた気がした。

「ほんとに…あの一瞬の油断がこんなことになるとは…」
「ねぇ、今のって感傷に浸る流れじゃなかったの?」
「俺がそんなダサいことするわけないじゃん」

いきなり返された手のひらにムカついて体を横にズラすと、全体重をこちらに傾けて座ってた犬飼はぐでっと崩れた。みっともなく転けても、マイペースにへらへら笑ってる。

「だって実際、あの日のせいで俺の人生めちゃくちゃだよ」
「めちゃくちゃ楽しくなったって?」
「そうそう、それが言いたかった」

私が姿勢を戻せば、彼は何事も無かったようにもう一度肩に頭を乗せてきた。二度目の回避は諦めてそのまま会話を続行する。

「サークルさぁ、別に…無理に入んなくてもいいんじゃない?」
「え〜そっちの方がメリット大きい?」
「いや。色んな人と仲良くされると俺が勝手に…羨ましいなって思うから」
「あー…」
「なに、その反応」
「いや。何も」
「うわだる、絶対なんか失礼なこと思ってた間じゃん」
「そんなことないって。痛い痛い!そこ骨!やめい!」

今度は私の態度に腹を立てた彼がぐりぐりと頭で攻撃してくる。ジェラシーすごいな、なんて思ってたのがバレたか…ここは抵抗するよりも、さりげなく話題を変えて誤魔化すのがベスト。決意して視線を前へと向ける。

「この後どうする?」

聞けば、彼はぐりぐりを停止してようやく姿勢を戻してくれた。重圧から逃れて内心ほっとしている私と対照的に、犬飼は妙に真剣な顔でカミングアウトする。

「実は俺、この後7時から防衛任務なんだよね…」
「あははっ、馬鹿じゃん!予定詰めすぎ」
「だって、絶対祝ってもらいたかったし…」

だからって何も早朝に呼び出すことないのに。ゆっくり寝てればいいものを…本当に犬飼は馬鹿な奴だなぁなんて心の中で笑いながら、立ち上がってぐっと伸びをする。

「じゃあ、そろそろ行かないとマズイんじゃない?本部まで送るから一緒に行こう」
「え、いいの?やったぁ〜」

ここから本部まで歩いたとしてもせいぜい20分くらいだけど、もう少し一緒にいたかった。私も、今日は少しだけ特別な気分だから。

暇な日あったらカラオケ行こうよとか、マックの新作パイ食べたいよねとか、いつも通り話していたらいつの間にか本部基地へと続く通路の入り口まで来ていた。私は今日防衛任務の予定はないから、送るのはここまでだ。彼は足を止めると、妙に改まってこちらに向き直る。

「今日はありがとう。プレゼントも、久しぶりにゆっくり話せたのも、嬉しかった」

指先を軽く握られて、伝わってくる彼の温もりが、なんだかすごく心強いと感じた。

「これからも頑張るから、俺のこと見ててほしい」

日の光のように真っ直ぐな視線に射されると、身動きが取れなくなる。落ち着いて息を吸えば、春のあたたかい香りが風に乗って運ばれてくる。その温もりに心を解かれて、素直になりたい、なんて幼稚な思いが浮かんだ。うん、と声には出さず頷けば、きらきらの笑顔が返ってくる。

「じゃあ、いってきます」

解けた手がゆるく離れて、彼は私に背を向けた。認証装置にトリガーをかざせば、重たい機械音をたてて扉が開く。今まで何百回と通り過ぎてきた扉だけど、開くのがこんなにゆっくりに感じるのは初めてだった。どうせ振り返らないだろうけど、名残惜しいから姿が見えなくなるまでここで見守る。

彼の後ろで扉がゆっくりと閉まり始める。その時、何を思ったのか犬飼が振り返って、パチっと目が合ってしまった。ええい、今だ。言っちゃえ!

「私も好きだよ!」

春の風がさぁっと吹き抜けて、扉は静かに閉まり切った。



**

家に帰ってもう一度寝直して、起きたら14時だった。いつもなら寝起きは頭が痛いのに、今日はやけにスッキリしていて、携帯を見ても新着通知はなかった。

頭の中が静かで、それが返って落ち着かない。早起きしたせいで1日がとんでもなく長く感じた。いっそもう一度寝てしまおうか。でも、次起きた時も連絡が無かったら、落ち込んでしまうかもしれない。やっぱり活動して気を紛らわせたほうが良さそうだ。

ベッドから這い出ると、とりあえずキッチンに立ってみた。
一番大きなボウルを取り出し、ありったけのホットケーキミックスと卵と牛乳を突っ込む。それらを無心になってかき混ぜて生地を作ると、次は火にかけたフライパンで生地をひたすらに焼きまくった。
ぽかぽかと温かい気分になる香り。昔好きだった絵本の中で、しろくまがホットケーキを作っていたのを思い出す。あれを見て私はホットケーキに並々ならぬ憧れを抱いていたはずだ。いつの間にかそんなことは忘れてたけど…
焼き上がったホットケーキを何枚も積み上げていけば、絵本にも負けないくらい高いホットケーキタワーが出来上がった。さて……私は一体何をしているのかな?

洗い物の山を見てようやく我に返った。
ホットケーキタワーの最上階から、ほかほかの湯気が呑気に立ち昇る。なんだろう。ムカつくな…ホットケーキに腹を立てるなんて初めてだ。ホットケーキの方も、人間に腹を立てられたのはきっと初めてだろう。完全に八つ当たりだし、やけ食いだけど、私は一番上に積み上げた1枚を手掴みでパクッと食べた。インターホンが鳴ったのはその時だった。

口からホットケーキが半分はみ出ているけど、そんなことはもうどうでも良くて、誰が来たかも確認せずに勢いよく玄関の扉を開けた。

『宅配便でーす。宛名確認して印鑑お願いします』

最悪だ。宅配便のお兄さんが持ってきたダンボールの上に食べかけのホットケーキがぽてりと落ちる。それを慌てて口の中に戻すところまでしっかり見られていて、気まずい空気に押しつぶされながら印鑑を押した。

パタリと扉が閉まるのを見届けて、玄関に立ち尽くす。胸に手を当てると、心臓がドコドコうるさく叫んでるのが伝わってきた。さっきの一連の流れを思い出して羞恥に悶えていると、また立て続けにインターホンが鳴った。
…まさか、“怪しい奴がいる”とでも通報されて、警察が来たんじゃないだろうか。あぁ、どうしよう。確かに今の私は怪しい人だ。言い逃れはできない。この状況は何て説明すれば…

チェーンをかけて、警戒心MAXで外の様子を窺いながらゆっくり扉を開く。あれ…もしかして、と思った瞬間、扉の隙間から空色の目が覗いてきた。

「これ外して」

彼は人差し指でチェーンを触り、少し怒ったような声で言い放つ。咄嗟に、え、やだな…と思ったけど、従わないと面倒なことになるのは経験上わかっていたから、扉を一度閉めて、チェーンを外した。
どんな顔して次に扉を開けようかと悩んでいると、心の準備をする間もなく外側からガチャっとドアノブが引かれる。

「うわぁっ!?」

玄関に入ってくるなり彼は、覆い被さるようにぎゅうっと抱き締めてきて、そのままピタリと動かなくなった。突然の展開に驚いて、心臓がメーターを振り切って激しく音をたてる。

「犬飼…?」

黙り込んだまま、表情も見えないし、沈没しかけの船みたいに遠慮なく体重をかけてくるから、だんだんと不安になってきて声をかける。それでも返事がなくて、どうしたものかと彼の背中をそっと撫でると、より一層強く抱き締められた。

「苦しいって、流石にそれは」
「俺の方が苦しい」
「ご、ごめん」

背中を撫でていた手を浮かすと、「そういうことじゃないけど」って不貞腐れた声と共に、腕の力が緩まって身体が離される。顔を見合わせると、犬飼は複雑そうな顔をしていた。

「もう一回言って」

何が?なんてとぼけることが許される空気でも無くて、彼の訴えかけるような視線を受け止めることが、今の私が彼に唯一、してあげられることだった。

「…私も、犬飼のこと好き」
「どういう好き?」
「犬飼が私に思ってるのと同じだよ」

もうお互いの気持ちがすれ違わないようにハッキリ告げれば、彼の瞳の中に灯る光が微かに揺れる。

「一番の味方になって、傍で守ってあげたいって思う?」
「思うよ。この先何があっても、もうずっと変わらないとも思う」

表情を情けなく崩して、犬飼がもう一度私を抱き締める。声にならない気持ちに応えたくて、背中に手を回すと、彼は甘えるように首元に頭を擦り寄せてきた。

「あはは…すごい。プロポーズみたい」

明らかに突っ込むべき場面だったけど、その声が震えていて、くすぐったいからやめておいた。もう少しこのままで、落ち着いたらホットケーキを食べてもらおう。目の前の人の様子が明らかにいつもと違うから、返ってこちらは冷静になる。
しばらく互いの鼓動を感じていた。手のひらを伝って、バクバクと力強い心音が響いてくる。長い時間を一緒に過ごしてきたけど、彼をこんなに近くに感じたのは初めてだった。

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