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エーデルワイス 2 【犬飼】


家から本部まではちょうど太陽が昇ってくる方角を向いて歩かなければならなくて、朝焼けが目に染みるから中学の修学旅行で買った白フレームのおもちゃサングラスを着用する。
4月とはいえ朝6時半に外に出ると余裕で寒い。みんなはまだ寝室で暖かい夢を見ているのだろう。自分以外の人とは滅多に遭遇しないからこんな格好ができるわけだけど、たまに犬の散歩してるおじいちゃんとコーナーでかち合って光の速さで俯く。
そういうスリルを味わいながら出勤して、今日は食堂の自販機で飲んだことないジュースを買ってみた。

「うわまずっ!」

ぶはっ!と吐き出したくなるのを我慢して何とか飲み込んだ一口。口の中に気味の悪い後味が広がる。誰の支持を得てこのジュースが自販機2列を領有しているのか、不思議で仕方ない。

「あー、それ俺の好きなやつじゃん」
「えぇ、嘘でしょ…犬飼おはよ」

お前か、こんなクソまずジュースに課金してる悪人は。
犬飼はあからさまに眉を顰める私を特段気に留めることもなく、「おはようございまーす」と簡単に挨拶しながら自販機に小銭を投入した。

「今からカフェオレ買うけど換えっこする?」
「いや、もう一口飲んじゃったし」
「お互い紙パックだしストロー換えれば問題ないでしょ」
「…まぁ犬飼がそれでも良いなら、正直助かる」
「ん、俺の優しさに拍手〜」

まだ9割中身が入ってる紙パックを傍に置いて言われた通りに拍手をするけど、エンドレスソロパートだから手を止めるタイミングを見失う。そのまま続けていると犬飼が付属のストローを袋ごと千切って、紙パックだけを此方に投げて寄越した。

「ぅわっ!」

何の予告もなしで、拍手してる人にいきなり物を投げるなんて正気じゃないと思う!
奇跡的にキャッチには成功したけど、喜ぶよりも先に顔を上げて睨みつける。何でこういう意地悪をするかな。もう少し丁寧に扱えないのか。
非難の視線を浴びても彼はお構いなしで激マズの方をちゃっかり回収。「ナイスキャッチ」なんて笑ってストローを抜き、私が持ってるカフェオレの方に刺した。

「今日早番?」

そのまま何気なく会話がスタートする。文句を言うタイミングも逃したし、今日は彼の雀の涙ほどの慈悲の精神を汲んで許すことにしよう。とりとめもない質問にそうだよ、と頷いて返す。

「この時間帯が一番キツくない?5時半に起きたし」
「うーわ早っ。けど健康的でいいじゃん。生活習慣見直せよっていう上層部からのお告げかもよ」
「大の大人が雁首揃えて私の心配なんてしなくていいんだよ」

こちらの不満を吹き飛ばすように犬飼がけらけら笑っても、こいつ朝から元気だなぁ羨ましいわという30代後半低血圧持ちのような感想しか出てこない。
下らないことを考えながら甘めのカフェオレを飲んでいると、目を弓なりに細めた彼に「何?」って耳を引っ張られた。笑いながら痛めつけてくるとは…

高2の秋に出会った犬飼とも何やかんやで交友関係を持ったまま、高校3年生になった。最初のうちはお互いすれ違っても挨拶すらしなかったのに、今では本部で見かけたらどちらかが話しかけるし、一緒に帰ることも増えた。犬飼とは会話が続くから、一緒にいると時間が過ぎるのが早い。

「ストーリー見たよ。新作のパイ美味しかった?」
「美味しかったけど熱すぎて口の中火傷した」
「そそっかしいな。てか俺も昨日非番だったから呼んでほしかったんですけど」
「誰も犬飼のシフトとか知らないから。誘って欲しかったらグループラインに予定表貼っときなよ」
「塩〜」

昨日は久しぶりの非番だったのに、同じく休みで暇を持て余したボーダー仲間数名に拉致されてマックで永遠と新しいトリガーの話やボーダー内の噂話に付き合わされた。
犬飼と仲良くなったことが1つの例であるように、私は以前に比べるとボーダーの人たちと関わりを持つようになった。根を張る場所を見つけたのかと言われるとまだそうでもないけど、以前より本部に居る時間が増えたのは否定できない。

「あーあ。俺も同じ学校が良かったなぁ」
「マックなら荒船とか蔵内と行けるじゃん」

憐れんで軽くフォローを入れると、犬飼はちょっと間を空けてから首を横に振った。

「盛り上がりに欠ける」
「殴られるよマジで」

犬飼は一体どんな脳内シミュレーションをしたのだろう。…まぁ私も荒船とか蔵内と二人きりでマックには行かないだろうけど。

「じゃあ彼女と行けば?」
「それも無理、先週別れて今自由の身です」

いいですか女子諸君、彼女いないことを自由の身とか言う男と絶対に付き合ってはいけませんよ。
破局をこんなにも簡単に言い流してしまえる犬飼のことを私はまだよくわからない。だって先月、彼女とデート中の犬飼に偶然会った時は結構楽しそうに笑っていたんだ。

「この前カラオケの受付で会った時は仲良さそうだったのに」
「それいつの彼女?先週別れたのはその子の妹の友達」
「え…元カノの妹の友達と付き合ってたってコト!?」

引きすぎた故のちいかわ構文。声が大きくなる私に比べて、犬飼のテンションは等速直線運動の時間と速さの関係みたいに一定を保っている。

「告白したの俺からじゃないし。顔は可愛かったんだけどなぁ」
「そこに愛はあるんか?」
「ないから別れたんだろ」

心がふわふわのかき氷みたいだ。軽くて、触ろうとすると溶けていく。なんで女の子はあんなものやこんな人のために列を作るのだろう。インスタ映えも愛のない関係も10年後にはタバコの吸い殻になっちゃって寂しいだけなのに。

「てか俺ともマック行こ〜よ。パイ食べたぁい」

脱線した話は力技で戻すと名高い犬飼氏は、ついに身体をこちらに傾けてごね始めた。

「いいけど都合あう?」

自分の力でしっかり立てと肩を押し返して、片手でスケジュールアプリを開く。押し返された彼も同じようにスケジュールアプリを立ち上げて予定を口頭で照らし合わせていく。

「来週の水曜なら暇」
「残念、私は防衛任務」
「ん〜…じゃ金曜の夜!」
「見たいテレビあるから無理」
「…俺の優先順位低くね?逆にいつなら空いてるの」
「月曜と木曜の放課後、あと明日」
「全部俺が空いてない日なんですけど…こんなに合わないことってある?」

まさかの全滅。もう荒船と蔵内誘って行った方がいいんじゃない?と私が諦めるより3秒早く、彼が思いもよらない提案をする。

「朝は?」
「朝ぁ?」
「うん。ちょっと早めに集まってパパッと食べれば学校も間に合うし」

正気かこいつ。登校前に遊ぶなんて行動力がレベチすぎる。面倒くさがり生まれ出不精育ちの私にとっては有り得ないことだ。今まで犬飼みたいなタイプとの付き合いがあまりなかったから知らなかったけど、こんなギリギリの隙間時間さえ予定を埋めるなんてびっくり。

「まぁ、そりゃ朝ならいつでも空いてるけど」
「え、ガチで行くよ?月曜でもいい?」
「いいよ」

って言ったけど正直起きられるかどうか心配だ。…ええい、物は試しだ。頑張ってみよう。月曜の朝に【犬飼】と打ち込んでアプリを閉じる。

「はい決まり〜ちなみに雨天決行だよ」
「はいはい了解」

恐るべし新作パイへの執着。美味いというより甘いが強かったけど、楽しみにしてるから彼には言わないでおこう。
犬飼がジュースを飲み終えたのと同時に、私も紙パックを潰した。

「じゃ、任務頑張って」
「犬飼もね」

手短に挨拶を済ませて、切り取られたように逆方向に別れる。廊下の隅っこを歩きながら朝マックのメニューを検索した。


**

朝7時現地集合。6時半に起きた時は正直どうなることかと思ったけど、犬飼とほぼ同着でマックの前で落ち合った。
注文を終えると4人席に向かい合って着席。私が素早くソファー席を乗っ取ったため、犬飼は硬い椅子に腰を落ち着けた。
朝マックって何でこんなに安いんだろう。改めて真剣に考えていると、彼からはまったく別の話題が飛び出した。

「最近髪ちょっと切ったよね。メイクも変えたし。好きな人でもできた?」

こいつ……
いつも一緒にいる女友達でも気付かないくらいの微妙な変化に気付きやがった。鬱陶しさ8割、気付いてくれてちょっと嬉しいのが2割。総じて、放っておけよというマイナス評価。

おそらく、私は犬飼に軽く見られている。性格の悪いところを隠そうともしない物言いや、正面に座ってても平気で足を組んだり肘をついたりするところ。他にも思い当たる節はいくつもあるけど、何より頭の回転、運動神経、コミニュケーション能力、何をとっても彼は私に勝っている。つまり彼は巨峰で私はデラウェア。こんなに大きい態度になるのもまぁ当然と言えば当然だろう。

「ウザ」
「うわ図星だ。ねぇ〜聞かせてよ、誰?イケメン?足速い?どんな匂い消しゴム持ってる?」

かなり前のめりに煽ってくるスタイル。効果のない誤魔化しの言葉とソーセージマフィンはアイスティーで食道に流し込む。

「小学生女子の価値観捨ててこいや。フツーに、ちょっと前に同級生に告白されただけ」

何でこんなことをコイツに言わなくちゃならんのだ。まだ学校の友達にすら話してないのに。犬飼は“告白”と聞いてより一層面白がって表情を明るくする。

「ヤ〜〜バ!OKした?」
「まだ保留にしてる」

予定外に正直にぶっちゃけてしまって微かな自己嫌悪に浸ってるうちに、彼は頬杖をついてすっかり相談を受ける体制に入ってしまった。

「へぇ。決め手に欠けんの?」

恋愛のプロの眼である。タロットカードまで出てきそうな勢いだ。これはもう、大人しく降参して洗いざらい話すのが吉。

「全然考えたこともなかったんだよね、その人にそんな目で見られてるって」
「でも今は意識してるんだ?」

犬飼の視線が手入れしてトップコートを塗った私の爪に注がれる。表面に浮き出た心を読まれている気分で、何でこんなことをしてしまったんだと自分に呆れる一瞬。隠すように手を机の下に落とした。そして巡ってくる私のターン。ドロー、言い訳を召喚。

「好かれてることを知ってからその人を意識し始めるのってさ…後出しっていうか…催眠っぽくて嫌じゃない?でも実際の私はまんまとそれにハマってて、多分このまま付き合っても上手くいかない。頭のどっかで終わりが見えてるから、もう始めたくもないっていうか…」

容赦なく刺してくる眼差しが居心地悪くて、出来ることなら私たちの間に板を一枚挟んで視線を遮断したい。

「君さぁ、その人と結婚したいの?」
「は?別にそこまでは、」
「じゃあしのごの言わずに付き合ってみればいいじゃん」

最後まで聞かずに、言葉の上に声が重なった。流石、朝から遊ぼうなんて言える男はスケールが違う。今までも、この人と自分は違うって感じるようなことはいくつもあった。
どんな場所へ行っても彼は以前に来たことがあって、この道が何処に抜けるとかGoogleマップ見なくても知っていた。時々デザインが変わる右手薬指の指輪や、白いカッターシャツの襟元に微かについてるファンデーション。目に入れる度に現実に引き戻されて、彼から突き放される。

「犬飼と私は、考え方が違う。そんな簡単に言わないでよ」

声に気持ちが篭る。彼は無神経だ。お邪魔しますもなしに土足のまま家に上がってきて、注意したら『小さいこと気にすんなよ』って返してくる。私の中に踏み込むなら、せめてこちらのルールに従って欲しかった。

「バーゲンセールみたいに揉みくちゃになって他の人と奪い合っても、恋なんて所詮シーズンものだよ。わかる?季節ごとに新しいのを試せばいいんだよ」

そんな先人の教えみたいなことを聞いても心まで理解が届かない。
ただ私はみんなの早い者勝ち、楽しんだもの勝ち、とかそういうノリが気持ち悪くて近寄りたくないだけなのだ。ヒトの人生に勝ち負けをつけるのって一体誰なんだろう。周りの評価?自分の思い込み?空気を読んで自分自身に勝ち負けをつけないと仲間はずれにされてしまうのか。
見栄を張ったり、しょうもないプライドで城を作って誰も寄せ付けないのも滑稽だけど、自分の値段を安くして誰かに消費してもらうような生き方もしたくない。

「犬飼はどうして自分のことまで、使い捨てみたいに言うの」

彼の親でもないのに悲しい気持ちになってしまった。彼が人に大切にされないから自分のことも大切にできないなら、そんな世の中間違ってる。でもきっとそうではなくて、彼は気付いていないんだ。恋愛の話をする時、本当はいつも笑顔がぎこちない。きっと彼は…

「別にいいんだよ。女の子にとってのPRADAやGUCCIにならなくても、ユニクロとかWEGOの方が沢山着て貰える」

比喩を用いて正しいことを言っているようだけど、私からすればその主張は全然正しくなかった。異議あり異議あり。人を服のように扱うなんて、間違っています。

「犬飼がそう考えてても、私はそうは思わない。人間は大量生産大量消費の一部分じゃなくて、一人一人がこの世に生まれ落ちた唯一無二だよ。犬飼だって死んだら化石になって、自然史博物館に寄贈されるんだから」

勢い任せに言い返す。自分ですら不意をついたと思ったのに、目の前の彼は顔色ひとつ変えない。流れるように視線を逸らして話を纏める。

「いずれにせよ、相手のためにも返事は早くした方がいい」

脱いだ服を丸めて投げ捨てるような軽さで言い捨て、彼はソーセージマフィンをはぐっとひと口食べた。
この話はもうここで終わり。そう区切りをつけるみたいな沈黙が訪れる。

「何見てんの」
「こわ。ちょっとくらい見てもいいじゃん」
「駄目でーす。ナゲット1個ちょうだい」
「犬飼マジで私のこと舐めてるね。ほら、食べなよ」
「わーい」

お言葉に甘えてナゲットを1ピース摘んだ彼の手元にソースの入れ物を持っていってあげる。無条件降伏、私という犬を飼ってらっしゃる犬飼さんはソースをつけたナゲットをぱくりと一口で召し上がった。
全国のわがままボーイに振り回されちゃう人々に送るマジの同情。とりま今度の日曜日に集まって然るべきところに訴えに行こうぜ。裁判長、こいつ新作のパイ結局頼んでないんですよ。

「別に舐めてるわけじゃなくて、気抜いてるだけだから」

本来、後付けの言い訳には何の説得力も感じないものだけど、犬飼は私ごときにわざわざ嘘をつくほどサービスが良くもない。失礼な扱いを受け流しながらマフィンをかじる。

「女の子とか後輩の相手するのに普段から惜しみなく消費してるエネルギーをさ、俺もどっかで充電しないと使えないわけ」

なるほど、私を踏み付けて遊ぶことで充電していると。くそ、喧嘩売ってんのか?

「君といると何もしなくていいから楽だよ。嫌われるとか好かれるとかそういうつまんないこと考えなくても話ができる」

しかし、それは私もそう思っていたから言ってる意味はよくわかる。
でも犬飼が“つまんないこと”なんて言うと思わなかった。じゃあ、貯めたエネルギーを誰かに注ぎ込むのは一体どうしてだろう。嫌われるとか好かれるとかをつまんないって言うのなら、それに振り回されてる自分もつまんない奴だってことになる。彼は鋭い言葉で自らの心まで引っ掻いていることに気付いているのだろうか。やっと言ってくれた本音が自分の未来まで諦めてるみたいな物言いで、なんか勿体無い。

「私みたいな人は沢山いるよ。犬飼がそういう気分で話せるのが今は私ってだけで、これからは上位互換みたいな人たちがいっぱい出てくる」

まだまだこれからだよ、諦めんなって元気づけようとした。けれど犬飼の表情は冷め切ったまま、変わらない。

「それ無自覚?」
「え?」

呆れるを通り越して苛ついてる声。眼差しも、友達に向けるようなものじゃない。たとえドッヂボールで敵チームになったとしてもそんな視線で人を刺したりしないだろう。とにかく、あ。って思った時にはもう遅くて、ボールが体に当たって跳ね返る。え、審判、私アウトになったんですか?

「何処見て話してんだよって結構思うことあるんだよね。先のことばっかり考えて今を充分楽しんでないって言うかさ…何を考えるかは個人の勝手だけど、正直そういう態度とられると白ける」

まるで私が加害者のように、容赦なく不意打ちでひと突き。頭の中が真っ白になる。身体の芯からドン引き。マックで朝からお説教?注文したのはキツい言葉付きのアンハッピーセットじゃなかったはずだけど。
彼に言われずとも、私がこの世で一番の私の被害者で、毎日この悪癖にはうんざりしている。考えたくないことまで考えてしまってもそれを人に簡単に話せないから、心を遠くに置いて楽になろうとしてるのに。犬飼はどうして、目を凝らすようなことするんだ。

「文句言いたいだけ?それとも心配してる?」

怒ったり泣いたりより先に質問できた私は偉い。今年高校三年生になりました。同じ日本語でも、人によっては翻訳が必要だって英語のテストで学びました。

「荷物多そうだね、捨てれば?って言ってんの」

犬飼はいつも優しさが素直じゃなさすぎる。受け取り方が間違ってたことに、今回は失う前に気付けて良かった。
やっぱり彼は私のためになることを言ってくれる人で、そこに敵意はあっても悪意はないのだろう。そうじゃなかったら今すぐこいつの胸ぐらを掴んで汚い池の水面に叩き付けてやる。

「なんていうか…上手くは言えないんだけど」

彼と向かい合って固く締めた紐を解くように、自分の心に繋がってる言葉の糸を手繰り寄せる。

何気ない日常の中に幸せを見つけてしまうせいで、ゆるやかに変化していく日々が、新しく始まることのために終わりを迎えるものばかりだと気付いてしまう。陽だまりの中で寒さを感じて、好きって言葉が寂しく響くから、楽しいことしててもすぐ悲しくなる。
こんな風に制服着て学校行ったり、大したことないことに大笑いしたりする時間って永遠じゃない。今店内に流れてるバンドの新曲も20年後には古くなって、時が経つと私達はいつもの場所に来なくなる。それぞれ新しい環境で、新しい出会いがあって、恋をして、家族を築いて、いつかは走る足を止めて、トリガーも手放す。
今感じてるものがもう手に入らない一瞬のものなんだって何年後かにわかっても、それは星の光みたいにもう終わったものなんだよ。だから私は、悲しいって、寂しいって、みんなと一緒にいる時に感じる。それが、辛い。

言葉が、気持ちが、ばらばらに分解されて溢れていく。心の中にあるものを今全部声にして彼に向けて発信したのかもしれない。確認せずに発送したせいで何を送って何を送らなかったのか、区別がつかない。
今まで自分でさえ無視しようとしてきた気持ちはちぐはぐで、不透明で、目に見えないから真っ直ぐ届く自信がない。でも彼は茶化さず真剣に聞いてくれた。

「言えたじゃん。ちょっと成長したね」

ただ彼がわかる、って言わなかったことが本当に有り難くて、ここがマックの店内だってことも忘れて安息の溜息を吐いた。朝マックって神秘的。

「誰にも言わないでね、恥ずかしいから」
「ほんとそれ。心の内思いっきりぶっちゃけるのも程々にしなよ」
「急にウザいわ犬飼、もう絶交ね」

やっぱり私ばっかり喋っちゃってフェアじゃない。よく考えたら何でこんな奴と仲良くしてるのか謎すぎる。

「ごめんって。今度アンパンマンチョコ奢るから許して」
「アンパンマングミ派だし」
「あの紙が美味いんだよね」
「わかる〜!」

あまりの懐かしさにテンションが上がって前のめりの姿勢になると、彼がニッコリ笑って私はハッと口を抑える。またコイツのペースに乗せられてしまった……

「やっぱり犬飼マジックすごいわ…」
「あははっ、俺に取れない機嫌はありませ〜ん」

足を組み直して得意げに笑った犬飼に、ナゲットの最後の1ピースを捧げて降伏。私は君には敵わない。


**


季節は巡り、マックは期間限定の新商品を次々発売しながら、高校最後の夏休みが始まって1ヶ月経った。

「宿題終わったー?」

昼ごはんの冷やし中華を食べてる時に話しかけてきたのは犬飼澄晴。今日はこんな風に色んな人の心を傷付けて回っているのだろうか。しかしその技、生憎私には効かぬのだ。

「なんと!終わってま〜す」
「答え写すの大変だったでしょ」
「慣れたらマジ作業ゲーだよ」

私の駄目っぷりを信用している彼はさらりと名推理をして前の席に座る。こちらもとうの昔にその辺りのプライドは放棄したから、意味のない嘘はつかない。

「明日非番でしょ?遊びに行こ」
「別にいいけど、私最近犬飼とばっか遊んでるんだよね」
「俺もだよ。てか夏休みほぼ毎日会ってるし」

4月から私達の関係に何か大きな変化があったかと言えばそうでもない。ただ遊ぶ回数が増えたとか、帰り道に彼が家の前まで送ってくれるようになったとか、そんな欠伸が移るような些細な変化だ。
私の個人的な変化も特に無くて、パン屋で週2程度バイトして、その他の時間は学校とボーダー。相変わらず彼氏どころか好きな人すら出来ない。
大きな変化があったのは犬飼の方だ。夏休みが始まる少し前から彼の手から指輪が消え、通学鞄に付いてたストラップが一掃された。よく話題にしていた恋愛の話も自然と無くなって、私のことを下の名前で呼ぶようになった。合わなかった予定が頻繁に合うようになり、あそこに行きたいとかこれを食べたいとか、そんな目的が無くともたった一言、「遊ぼう」と誘ってくれるようになった。

ちゅるちゅると中華麺を啜りながら、この夏休み犬飼と何度遊んだかを思い返してみる。
マックには何度か行って、回転寿司、フードコートにも行った。コメダ珈琲で大きいカツサンドをシェアして食べて、ファミレスのドリンクバーでは「元取ってるところ見たことないよ」って馬鹿にされた。ゲオにもイオンにも涼みに行ったし、ホームセンターの魚コーナーで水族館に行った気になったりもした。ボーダーの同年代の子たちと手持ち花火を楽しんだ帰り道、コンビニに寄ってパピコを半分こして食べたっけな。

「あー、見てたらお腹空いてきた。俺もなんか買ってこようかな…」
「噂によると新メニューが美味しいらしいよ」
「あー…からあげ丼でしょ?でも俺揚げ物はいいや」
「じゃあからあげ抜いて貰えば」
「たこ焼きたこ抜きよりタチ悪い客になっちゃうじゃん」

淡々と突っ込みを入れて、犬飼は席を外した。何を買ってくるだろうか。きつねうどんあたりが怪しいと予想していたのに、数分後帰ってきた彼のトレーには冷やし中華が乗っていた。

「影響されすぎでしょ」
「自分でもちょっと恥ずかしい」

いただきます、と手を合わせる真向かいでご馳走様でしたと手を合わせる。まだ時間があるし、もう少し彼と話そうかな。

「最近オートミール粥にハマってるんだよね」
「あー、ウチも姉ちゃんがやってた時期あった」

1週間も続いてなかったけど。なんてさりげなく姉を嗤う犬飼。私も彼の姉を反面教師にしなくちゃな。

「レンジで作れるし食べやすくていいよ。鶏ガラの素入れたらもう私の勝ち」
「良かったじゃん、無人島に持って行くもの決まったね」

興味なさそうに聞きやがって。いや、食べてる時に話しかけるこっちが悪いかもしれないけど。
喋る気力が削がれてしまって、ポケットからスマホを取り出し予定を確認する。始業式は3日後だ。なんとその日も午後から防衛任務がある。私も多忙になったものだな…最近は非番の日も自主的に本部に行って特訓したり、犬飼に外に連れ出されたりしているから家でダラダラしている時間がほとんど無くなった。完全に彼のフットワークの軽さに影響されつつある。

「犬飼ってさ〜私とばっかり遊んでて大丈夫なの?」
「平気。俺ボーダー推薦貰うし」
「いや、別にその辺は心配してないけど。ほら、他の友達とかもいるでしょ?」
「うん、いるよ」

何だその返事。会話する気あるのか?あんまりなさそうだな。彼が聞かれた以上のことを答えないから、なんとなく感じてた違和感を具体的な疑問符に変えなければならなくなった。

「前までは色んな人と遊んでたのに、最近そうでもないじゃん。どうしたのかな〜って」

たしかに私といると楽だと言ってたことはあったけど、それはどこかで使うエネルギー補給のための息抜きということが前提だった。じゃあ彼は今、どこでそのエネルギーを使っているのだろう。もし何か理由があってこっちに逃げてきてるなら、話を聞いてあげたいと思う。そんな私の心遣いをよそに、彼は水を一口飲んで、私じゃなくて冷やし中華に視線を落とす。人と喋る時は目を見ろよ。

「別に心配されるようなことは何もないよ。ただ最近は遊ぶ人を選んでる」

彼から発信されたものが私の心の中にある感情に当たる。心の中ではハッとしてもいきなり顔には出ないから、何か反応を返そうとした。でもその前に犬飼が顔を上げて目が合う。

「君ってさ、仲良い人としか遊ばないらしいね」
「らしい、って。見てたらわかるでしょ」
「うん。前までは確かにめちゃくちゃ付き合い悪かったもんね」
「結局悪口に繋がるんかい」
「最後まで聞いて」

珍しくどんなテンションで言えばいいか迷ってる犬飼は、自分でもわかんないんだけどって顔に表示する。

「俺も、自分のこと好きな人じゃなくて、自分が好きな人と居る方が何倍も楽しいってことに気付いたんだよね」

だから結構、思い切った。
彼はそんな言葉を使って人間関係の断捨離を報告した。
まず私が残されたことが意外だったって言う様な反応をしたいけど、実はそうでもなかったりする。だって私も私なりに犬飼を大切にしてきたから。

「なんかありがとう」
「いーえ」

初めてこんな友達が出来た。
私には将来性も計画性もないからこの先のことなんてわからないけど、犬飼とならきっと大丈夫だろう。あんなにも苦労して自己紹介をしたし、彼もそんなわたしを真っ直ぐな目で見つめてくれていたんだ。

出会ってから季節がもうすぐ一周する。その中で私たちが重ねてきた時間も、見せ合った心の内も簡単には消えないし、交換した言葉はお互いの中に根付いてそれぞれ成長を遂げる。これからも彼とはずっと良い関係でいられるような気がする。

根拠もないのに積み上げた自信は次の日、ある出来事をきっかけにたちまち壊れていった。


**

昼に摂取したカロリーを消費すると息巻いて、犬飼と散歩を初めてから気付けば何時間も経過していた。アプリで歩数を確認してすっかり満足した私達は性懲りも無くコンビニでアイスを買ってしまう。
河川敷のゆるやかな芝生の斜面に座ってアイスを食べる至福の時間。沈みゆく夕日が水面に反射してキラキラ眩しい。犬飼とは特に何も話さずに、道を駆けていく小学生たちの笑い声や、もう一踏ん張り頑張ってみる蝉の鳴き声を聞いていた。
雪見だいふくは溶けかけが美味しい。だからいい具合になるまでじっと辛抱した。しかし今、時は満ちた。棒を真ん中に突き刺すといい手応えがして、そのまま持ち上げてひと口かぶりつく。もちの部分が過去最高に伸びる。犬飼にもこの感動を共有したくて声にならない唸り声をあげた。
私はこの時、伸びたもちしか見てなかったから彼がどんな顔していたのか、もう一生知ることができない。

「好きだよ」

遠くの方でガラスが割れた音がする。黒板を引っ掻く音、赤ちゃんの鳴き声。そんな例えをしたくなるくらい、その言葉を彼の口から聞きたくなかった。




犬飼は私が食べ終わるまでずっと黙って待っていてくれた。アイスは味がしなくて、食べ終えても言葉が何も出なかった。

本当は、違和感も不安も何処かに潜んでいた。男女2人でこんなに仲を深めておいて、こういう感情を持たない方が寧ろおかしいのかもしれない。でも彼には、私と一緒に頭おかしくなって欲しかったんだ。

「そういうの…困る」

やっと彼の方を向けば、犬飼は見たことないくらい寂しそうに、眉を下げて笑った。彼に対しての不満とか、投げつけたかった言葉が詰まる。

「困ってよ」

満を持しての告白ではなくて、もうどうしようもなかったんですって自白しているようだった。しかしこんなにも弱そうな犬飼を前にして、無情にも私は私の決まりを守ることだけ考えた。

「犬飼は、ずっと友達でいてくれると思ってた」

打ち明けてしまうことのリスクに彼が気付いてないわけがない。自分の一時の感情とこれからの私達の関係を天秤にかけて、前者に重きを置いたことが気に入らない。

「ごめん。それだけで満足できない」

気持ちは浴槽に落としたバスタオルみたいにだんだん重くなっていく。
ごめん、って言葉にこんなに傷付けられるなんて思わなかった。大切に握ってた小さな物を水中で手放してしまって、もう戻らない。このままじゃ言葉すら通じなくなるような気がした。

「やめてよ、犬飼。私達いっぱい2人で話したじゃん。自分が言ったことも覚えてないの?」

声が震える。あの時心の内を見せていたのが私だけだったのなら、そんなに悲しいことはない。

「全部覚えてる。信じてくれないかもしれないけどこれは、今までとは全く違う」

勝手に、そんな、新種の生き物を発見されても困るんだ。得体の知れないものに私の名前を付けないでほしい。

「引きずりたくないから、ハッキリ言うよ」

陽に透けた金色の髪がきらきらと風になびいて、どんな景色より綺麗だった。大切な人を傷付けるのと、大切な人に傷付けられるのはどっちの方が辛いと思う?どっちも辛いよ。身体が内側からビリって引き裂かれそうな心地だ。

「犬飼とは恋愛しない。するつもりがない。一生。この先ずっと。私達2人が最後の人類になっても」

2人でいる時、いつも他の人はいなかった。後ろでサビしかない曲が流れていたけど、それさえ聞こえないくらいに楽しかった。それも全部明日になれば過去形になってしまう。胸が苦しい。

「だと思った」

息を吐くようにそう言って、彼はゆっくり静かに目を閉じた。

「は?」

間抜けな声が出た。彼は勝算がなければ挑まない慎重な性格だから、この告白だって色んな勘違いが重なって迷い込んだだけの、一時の気の迷いだと思ってたのに。わかってたなら、どうしてわざわざ今の関係を壊すようなことするんだ。沈没するって事前にわかってるタイタニック号に乗る奴、何処にいるんだよ。

「俺が勝手に言っただけだし、何も返さなくてもいいよ」

最初から何にも期待していなかったようにただ短く吐き捨てて、彼は視線を空中に投げた。
犬飼の冷たい部分に久々に当てられると、以前よりも深めに傷が付く。

「そういうの、お互いに傷付くだけだよ」

彼が言い始めたことなのに、いつも私の方が先に終わりを見てしまう。こんなことになってしまった以上、もう2人ではいられないのだ。

「恋愛対象になれなくても、確率0%でも、簡単に気持ちが消せるわけじゃない。嫌いになったら離れてもいいから、それまではまだ友達でいてよ」

どんなに舐めた態度を取られても彼とはずっと対等でいたつもりなのに、今の言い方はそうじゃないみたいで悔しかった。

「それは、私が決めることだよ」

目が合うと、2人とも黙り込んで時が止まった。彼の瞳は手を伸ばしても届かない空の色。遠くに見える山の色。彼の心も、どうしようもないくらい遠くにあるんだ。

「俺のこと、わざと避けたりしないでね」
「距離は置かせてもらう」
「ひど」

先に裏切ったのは君じゃないか。これからどうやって接したらいいのかちょっとわからない。

「酷いのは、俺もか」

こんな時でも通じてしまう言いたい言葉が、音にすらなってないのにお互いに虚しく響き合う。自分のことを笑うみたいに笑って、彼はこちらを見るのをやめた。

お互いに避けたりしなくても、自然と空いていく距離を私達は繋ぎ止めることができないのだろう。

綺麗な夕日がこの世の終わりみたいに見えて、目の前で世界が真っ赤に燃えていた。その光景を黙って眺めることしかできなくて、時間が経つのがやけに遅く感じた。

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