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エーデルワイス 4 【犬飼】


人の少ない夜道をまた、犬飼と2人で歩いていた。
私たちの関係は真昼の星で、相変わらずよく見えない。でも彼はいつもと何一つ変わらぬ顔で右隣にいた。
もし私がもっと強い女だったら、「男なら車道側を歩きやがれクソ野郎!」と彼を蹴飛ばして側溝に落としていただろう。でも実際の私はこんなのだし、彼もあんなのだから、持ち場ひとつ入れ替えることにすら機敏に違和感を感じ取りそうで、何も言えない。恋人でもないのにそういうことを一緒に確認してしまうわけにはいかなかった。

「なんか今日の月めちゃくちゃデカくない?」

その一言で、やっぱこいつ何も気にしてないのかもしれないな、と感じる。夏目漱石に翻訳して貰えば何でもロマンチックになりそうだけど、これだけは例外だと思うよ。空を見上げると、月はめちゃくちゃデカかった。

「何あれ怖っ。あの天体が宙に浮いてること、豪華客船が水に浮かんでることと同じくらいわけわかんないんだけど」
「あははっ、国語力でカバーできることって多いよね〜」
「喧嘩売ってる?」

マジで年中無休でムカつく奴だ、犬飼。私が病気になったら原因は全部コイツからのストレスだろう。わざわざ帰路を外れて家まで送ってくれている彼への感謝も忘れ、敵意を込めて睨みつける。

「ねぇ。俺がもし月に行くって言ったら着いてくる?」
「前澤と剛力の話しようとしてる?」
「先駆者のことは一旦忘れてもらって…例えば、まだ誰も行ったことなかったとしたら」

何を言い出すんだこの人は…呆れて身体の力を抜くと、肩の傾斜に沿ってスクールバックの肩紐がずり落ちる。私は呆れをアピールするためにあえてそのままにしたけど、彼が何も言わずに引き上げて元の位置に直してくれた。

「…それって事前に特殊な訓練とかもする想定?」
「そこは論点じゃないでしょ、明らかに」

余計な一言を添えてくれちゃう犬飼のサービス精神にはいつも舌を巻く。人を馬鹿にすることに関して、彼の右に出る者はいないだろう。
宇宙がどんな色してるとか、月面がどんな質感だとかは遠い話すぎて全く想像つかないけど…月に着く前にロケットの中で喧嘩して超気まずくなる私たちは、目を閉じればすぐ頭に浮かんでくる。それくらい近くにあるような気がした。

「…そんなのわかんないよ。たらればの話で心理テストみたいにこっちの気持ち測ろうとするの、良くないと思う」
「いや、ただの雑談じゃん。余計なこと考えなくていいのに」
「余計なことじゃない。私は犬飼のこと都合良く振り回すつもりないんだよ。どうやったら傷付けないでいられるか、いつも考えてる」

何をどう形容すればいいか難しくて、言葉を探しながら話す。聞くや否や犬飼は額を手で押さえながら「はぁ〜〜〜〜」と、私にもわかるくらいあからさまに息を吐いた。不快に思って眉をひそめていると、チラリと目配せするようにこちらを見る。

「……抱き締めたい」
「ボコるよマジで」

犬飼のスイッチが何処にあるのか本当にわかんない。このタイミングで何にときめいてるんだコイツは。まぁ狂ってる人の考えてることなんてわかるはずないですけど…
とにかく彼との間に拳8個分くらいの距離を取って離れる。これは殴っても届かない距離だ。
そのまましばらく歩いて、私の家の屋根が見えてくる頃には、距離は拳3個分まで縮まっていた。手を伸ばせば届くだろうけど、私も犬飼もそれをしない。

「もう、一緒にいられるなら何でもいいやって思ったりもするけど…たまに気が気じゃなくなる。俺の他に彼氏とか絶対作んないでね」
「できると思う?犬飼とばっかり一緒にいるのに…」
「そんなのわかんないよ。いつまで一緒にいられるかすら、わかんないのに」

犬飼が私と同じ台詞を少し違う風に言う。解決できない問題が目の前にあって、それをどうにかしようとする犬飼と、時間に身を任せるしかないと思う自分。今は互いの軌道が偶然交わってるだけで、結局何もできないまま、これから離れていくのかもしれない。想像できないことをぼんやり考えながらもう一度、空を見上げた。
幼い頃から毎日見上げていたこの街の空が、結局どこに繋がっているのかを私たちはまだよくわからない。みんなもう普通の生活をしてるけど、また明日ねって手を振った相手と本当に明日会えるのか、たまに疑ってしまう。
幸せと背中合わせにある不安。そちらにばかり気を取られて、私は大切にしたいものを大切にできてないのかな。取り返しのつかないものを失ったり、失わせることはやっぱり何よりも怖いし…
今度は落ちてたことにすら気付いてなかった鞄の紐を、彼がまた黙って直す。このための拳3個分の距離なのかもしれない。目が合うと犬飼は少し悲しそうに笑ってた。でも別れ際、次の予定の話をする時にはもう、いつも通りを取り戻していて、この人は強いなと思った。

その日ベッドの中で、月に行くかという問いのことを改めて考えてみた。本当は、なんとなくわかってることだった。
同じ時間を重ね、目と目を合わせるうちにいつしか、私たちは互いの心を1つにしてしまった。だから半分ずつでは、もう……


**

待ち合わせを朝の5時半に設定するイカれた男と落ち合うため、4時半に鳴るアラーム。5時半になる直前に家を出ると犬飼はもう家の前で待っていて、「おはよう」「早すぎるわ」という定番のやりとりを予行練習なしにキメる。
太陽もまだ眠っていて、家の前の道には街灯の明かりが点いていた。湿ったコンクリートの匂いが冷たい。

「ちょっと前まで雨降ってたみたい。足元気をつけて」
「うん」

ぼんやりと明るくなってきた遠くの空を見ながら、駅の方角に向かって歩き出した。
日の出を見よう、ってはじめに言い出したのは私だった。いつもより早起きして作った時間で会うだけのつもりが、彼は丸一日の時間を空けて予定を立ててくれた。
私の手の中にある全てを彼にあげたとしても、彼に貰う物の方が遥かに多い気がする。ふと右隣を見れば、彼はぼうっと空を眺めていた。

建物に遮られた地平線から朝日が昇り、地球上に光の線が伸びてゆく。毎日当たり前に起きる現象のはずなのに、この光景は百年に一度、一生に一度のことくらい特別に感じる。瞼の裏に焼き付けようとしても、あまりにも眩しくて出来ない。なんでもないふりをして、「綺麗だね」なんてありきたりな言葉を吐けば、犬飼も、「うん。綺麗だね」って馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返した。

駅前のマクドナルドに入って、朝マックを食べる。マクドナルドって結局何時から開いてるんだろう…なんて考えながら、ソーセージマフィンを大口で食べてる犬飼を見てた。

「なぁに。ひと口欲しい?」
「いや、要らないス」
「そうスか」

彼は変な敬語を真似して、にやにやと中途半端に笑った。何も言い返さぬままに、プラスチックのフォークとナイフでホットケーキを切り分ける。

「俺らが初めて朝マックした日、覚えてる?」
「覚えてるよ。5個入りのナゲット犬飼に3個あげた」
「そんなことばっかり覚えてるのどうかと思うよ」

1個あげたら2個目も勝手に手を伸ばした犬飼のことは流石に忘れない。地球がひっくり返っても彼は末っ子だ。

「私あの時、まだ犬飼のことちょっと怖いと思ってた。言いたいことズバズバ言ってくるし、なんかこっちの心読まれてるみたいで」

切り分けたパンケーキにシロップをつけてから、ぱくりと口に運ぶ。好きな女が可愛いものを食べてる最高のシーンのはずなのに目の前の彼は、怖いと思ってる奴と朝マック行くの?みたいな軽蔑に近い眼差しを向けてきやがる。

「…まぁたしかにズバズバは言ってたね。俺はもうあの時既にかなり仲良くなれてると思ってたし?」

おいおい拗ねるなよ…こっちは朝の平和なマクドナルド店内で口論するつもりはないんだ。喉に詰まりそうなホットケーキをアイスティーで流し込んで、犬飼の尖ったハートを優しく包み込める都合のいい言葉を探す。なかなか出てこなくて苦戦してると、彼は待ちくたびれたようにポツリと呟いた。

「はぁ〜…なんか気持ち全然伝わってない気がしてきたんだけど……」

そりゃあ全部はわかってないと思うけど、全然なんてことはない。私だって私なりに色々考えてるんだ。犬飼、ショックで軽率な発言しちゃうのやめてもらおうか。ホットケーキを咀嚼しながら言うことじゃないから放っておくけど。

「…マ〜ジで、俺のこと放置してポッと出の男と急に付き合ったりしたら呪うから!」
「怖っ!やめてよそんなこと言うの」
「知ってると思うけど、俺あんまり心広くないよ」

もうとっくに食べ終えた犬飼が、正面から私をじっと見つめる。そうだよね……こんな所で勝手に拗ねて、呪うとか言って脅してくるような人が心広いわけない。

「あとで、もっとちゃんと話そう」

面倒なことを後回しにする、というわけではないけど…大事な話をするのは少なくともここではない。私からの提案を受け、彼は目を逸らして「うん」とたった一言返事をする。進んで欲しくないような時間を確かに進めながら、私たちは朝食を終えてマクドナルドを後にした。


電車に揺られること2時間。三門市から出て、私たちは県外の海沿いの街まで出てきた。
プラネタリウムを見るために、科学館へと続く長い坂道を登る。

「こんなところまで来たの初めて〜」
「俺も。なんか空気澄んでる気するね」
「わかる…マイナスイオンってやつかな。わりと水辺だし」

足を止めて来た道を振り返ると、眼下に海が見える。
陸の果てにある海がやがて空へと繋がる境界線は、虹のたもとみたいに辿り着けない場所。海のない三門市では見ることができない景色だった。海と空の青さに見惚れていると、隣で彼が指を差さずに「見て」と口だけで言う。視線の先の空には飛行機が飛んでいた。

「わぁ、飛行機。久しぶりに見た」
「三門の近くはもう飛ばないからね」

それだけ言って、犬飼は雲に隠れて見えなくなるまで飛行機を見送っていた。話題にしたことは一度もなかったけど、彼の横顔を見ていると、きっとあれが好きなんだろうなと予想がつく。それにしても、海と飛行機のコラボレーションとは…
私たちが住む街では決して見ることができない景色がこの街に当たり前にあって、世界の広さを改めて感じる。

「将来、こういうところに住むのも悪くないかも」

再び科学館に向かい歩き出したタイミングで何気なく呟いた。聞いてなかったわけじゃないと思うけど、彼は別に何も言わない。私も返事を求めていないし、それで良かった。

まだ朝の10時なのに、夜空を見に行く。科学館のプラネタリウムはなんと高校生まで無料で、私と犬飼は学生証を持ち歩いていた自分自身に心の底から感謝することとなる。
本日一番乗り、朝10時からの投影に間に合ってプラネタリウムの中に入る。科学館に来た時からなんとなくこの展開には予想がついていたけど、私と犬飼以外のお客さんがいなかった。こんな朝から険しい坂道を登って星を見に来るような浮かれた奴は私たちくらいだということだろう。
座席は映画館の椅子に似ていて、「このあたりがいいんじゃない?」とか相談しながら選び抜いた私たちが考える最強の席に2人並んで座る。

「うわ、リクライニングめちゃくちゃ倒れる」

席に着いた犬飼が後ろに体重をかけると、背もたれが160°くらいまで倒れた。私も早速真似をして倒してみる。

「すごい。これ私寝ちゃうかも」

椅子を倒したまま横を向けば、思ったより近くで目が合ってびっくりする。おっと、これは不覚……彼も一瞬だけ私と同じような顔したけど、すぐにからかうような笑顔に変わった。

「せっかく貸切なのに、無意識で隣に座っちゃったね」
「…ね」

なんだか恥ずかしいような感じがして、あまりそっちを見ることができない。もはや犬飼ごときに恥ずかしくなることなんてないと思ってたんだけどな…プラネタリウムの投影が始まるまで、気まずくて何も話せなかった。

投影はまず、夕方の空から始まった。雲が流れて、暖かいオレンジの空がだんだん紺に染まっていく。ドーム一面が夜空になれば、ちらほらと星が瞬くのが見えた。解説の人が星と星を結びながら、子守唄を口ずさむような優しい調子で冬の大三角とオリオン座を紹介する。これだけでも充分に綺麗な空なのに、どうやら今投影されてる星は実際に存在する全ての星のほんの一部らしい。『街の明かりで今は見えなくなっているけど、本当は空一面に星が輝いているのです』ふむふむと大人しく聞いていれば、『ですので今から、街の明かりを全部消してみましょう』なんてクソでかスケール事案をさらりと言ってのけるから不意打ちで笑いそうになった。反応したのが私だけなら流石に黙っていたけど、犬飼も隣でちょっと肩を揺らしていたから後でネタにしようと思う。
どうやら街の明かりを消す作業は誰にも見られてはいけないことのようで、解説の人が3秒数えるまで私たちは目を閉じているよう命じられた。薄目で覗くこともなく、大人しく言いなりになって3秒間、瞼で目を塞ぐ。
『それでは目を開けてください』と言われてゆっくりと瞼を開けば、視界いっぱいに飛び込んできた星空に思わず声が出そうになった。ドームの広さとか距離感が全部狂って、まるで本当に大自然の中で仰向けになって寝転んでるみたい。
きらきら光る星の海という非現実的な景色に160°で身を落とす。そんな時でも隣には犬飼がいる。この空間でたったそれだけが現実味を帯びていた。

プラネタリウムの投影が終わり、場内が点灯すると身体を起こして、「良かったね」「うん、良かった」と言い合って立ち上がった。星は言葉より先に生まれたものだから、この感動はきっと言語化出来ないし、する必要がない。
館内の時計で確認してみると、時刻はまだ11時を示していた。普段の休日なら今頃起きているのに、早起きすると1日が長い。私はいつも勿体無いことをしてるのかもしれないな。

科学館の展示ルームでは隕石の欠けらを見たり、月と地球での重力の差を感じる体験をして、館内を隅から隅まで堪能し終えた頃にはちょうどお昼時になっていた。
お昼ご飯を求めて、坂道を下った先の駅周辺の繁華街へと向かう。駅前は充実していて、駅ビルや駅地下にも色々とお店があった。でも私たちは少し外れたところにある商店街のアーケード下で偶然見つけた、落ち着いた雰囲気の喫茶店に入った。

ほんのり薄暗い店内ではオレンジ色のランプが灯っていて、入り口でカランコロンとベルが鳴れば、カマーベストを着こなしたウェイトレスさんが『いらっしゃいませ』と奥から出てくる。木製の螺旋階段を上がり、ワインレッドのカーペットをもすもす踏み鳴らして、2階の窓際の席に案内された。
ステンドグラスの窓から差し込む陽で、机の上には色とりどりの透明な光が散らばっている。
席に着くと早速、広げたメニューを2人で覗き込んだ。しばらく悩み、犬飼がナポリタン、私がオムライスを注文した。

料理を待つ間、何の話をしようかなと考えていると、彼が頬杖をつきながらこちらを優しい表情で眺めていることに気が付いてギョッとした。

「な、なに」
「別に〜?」

そんな目で見られると、どんな顔すればいいかわからなくてこの場から逃げたくなってしまう。とりあえず、視線を店内のインテリアに逃がして気を紛らわせる作戦でいくことにした。

「そんなあからさまに目逸らさなくても」

私の挙動に対して犬飼は肩を揺らしてくすくす笑う。なんか揶揄われてるみたいで居心地が悪い…

「犬飼がガン見してくるからでしょ…マジで何なの?」
「いや、何かデートみたいだなぁと思って」

な…何を今更…これまでだって色んな所に2人で行ったじゃないか。こんな少しの待ち時間だって、私のことなんか見ずに平気でスマホ弄ってたじゃないか…
軽く引き気味の気持ちが姿勢にも表れて、身体を少し後ろに仰け反らせていた。背中に、リクライニングしない硬い木の背もたれが当たる。

「わざとそういうこと言ってるの…?」

彼の言葉の意図が『友達ごっこするつもりで来たわけじゃないから』って牽制しているようにも取れて、さっきまでリラックスしてた心が硬直する。

「何でもするよ。俺、本気だもん」

それって目的のためなら手段を選ばない映画の中のダークヒーローしか言わない台詞…口に出して突っ込みたいけど、そんなことが許されているような雰囲気でもなかった。

けれど確かに、普通の人なら怖くなってやめちゃいそうなことでも、犬飼は構わずにやっちゃいそうで、私は彼のそういうところが怖かった。基本的にドライで、大概のことは割り切っているけど、ある一部のことに対して彼は自分の全てを注ぎ込むようなのめり込み方をする。どこか狂気的で、ヒロイック。犬飼に限らずボーダーにはそんな人が多くて、私はその思考に共感することがいまだ出来ずにいる。

人を簡単に吹っ飛ばせる武器、手足が千切れても痛くない作り物の身体、緊急脱出機能。技術の発展とともに私達は便利な道具を使って、出来るだけリスクを負うことなく、トリオン兵と戦闘して街の平和を守れるようになっている。でも、どんなに優秀な技術者がいても心だけは作り物にできなかった。
例えばボーダー隊員になると、訓練を重ねるうちに、高い場所から飛び降りたり、人を撃つ時に感じるはずの恐怖を無くしてしまう。それは決して褒められるようなかっこいいことでは無くて、自分を守るために備わっている大切な感覚が鈍くなるということ。異常な光景に慣れて、適応しようとするうちに心のねじが取れてしまう。そうやって自己防衛の枷を外していって、ようやく危険を顧みない行動を起こせるようになる。それが人命を救っているのは確かだ。それでも私は、自己犠牲を恐れない強さで形作られた正義なんて、悲しいだけだと思う。

ねぇ、犬飼。何でもするなんて簡単に言わないで。二人一緒にいるために、君一人だけが背負い込む必要なんてないんだよ。そうやって無意識に、私を置いていかないで。


**

お昼ご飯を食べた後、街を少し散策して、帰りに乗る16時の電車までまだ余裕があったから、二人で浜辺を散歩することにした。
少し先を行く彼がつけた足跡を上書きするように踏んで歩く。靴を濡らさないように、波が来ないギリギリを攻めた。
何だか今日は、あまり会話が続かない。波の音が沈黙を掻き消して、言いたいことさえ隠してしまう。暇だから、彼といる時に後ろで静かに流れてるサビしかない曲に耳を澄ませてみる。あー、こんなことしてる場合じゃないって言ってますね。

「やい。犬飼澄晴」
「え、何。急にフルネームで…」

振り返った犬飼の困惑した顔。お前は全然イケメンなんかじゃないぞと言ってやりたかった。

「隣歩いてよ。話しづらいじゃん」
「あ、はい。わかりました…」

因縁をつけてやれば、彼は素直に右隣に来た。もしデカい波が来たら私が先に濡れてしまう位置だった。

「犬飼さ、これからどうするの」

歩きながら息を吸うようにそっと聞けば、彼がいつもの調子でさらりと答える。

「推薦貰ったし、大学進学してボーダー続けるよ」
「それはもう知ってる。将来的なビジョンの話だよ」

パーソナルなところにまで首を突っ込んで聞き出そうとする面接官のポジションに就いて犬飼の調子を崩しにかかる。案の定彼は困ったように腕を組み、考える素振りを見せた。
彼が私のことをどれだけ好きかとか、その気持ちは本物なのかとか、そんなことにはあまり興味ない。
今、犬飼がどんな未来を思い描いてるのか。何を必要としてるのか。私はただ、それが知りたい。

「えぇ〜…好きな子とこれからも一緒にいたい、とかですかね…」

自信なさげにこちらに笑いかける犬飼の瞳の中を、私は訴えるように見つめ続けた。そこには見えているのに手を伸ばしても届かない景色が広がっている。

「犬飼の中に、私が居ない未来はないの?」
「ない」

彼の口からは当たり前のように私が一番に出てくる。一体私はどんな手を使ってこの人をここまで変えちゃったんだろう。最初はこちら側に少しも踏み込んで来ない人だったのに。

心が揺さぶられる。彼が本当に大切にしなくちゃいけないのは彼自身なのに、血迷って私なんかを一番にしちゃうから…私が代わりになって彼を、一番大切にしてあげられるのかな。…なんか荷が重そう。あんまり自信ないかも。
自分から振った話題なのに反応に困って、立ち止まって黙り込む。

そんな時、犬飼の言葉は海岸に寂しく響いた。

「答えなくていい。真に受けなくてもいいから、ちょっとだけ聞いて」

ついつい逃げたくなってしまうような優しい目で私のことを見つめる。

「もし仮に、俺たちが離れ離れになったとしても…辛いけど、俺は生きていけるよ。きっとまた別の人を好きになって、そのうち幸せな家庭を築いて、結局はこうなる運命だったんだなって自分を納得させるだろうね」

ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。でも、そんなことは本当にどうでも良かった。

「でも、どんなに幸せになっても…俺はふとした時に『君だったら』って思ってしまう。君から貰った物を一生捨てられずに、誰かを呼ぶ時、間違って君の名前を呼んで虚しくなる。朝マックも当然トラウマになるし、カラオケで一緒に歌った曲なんて、もう二度と普通の気持ちで聴けないよ」

犬飼の手が首の後ろに回って、私をそっと抱き寄せる。いつもなら避けるのに、背後が海で逃げ場がなかった。
そのまま泣きそうな声で、彼は静かに気持ちを告げる。

「離れるなんて無理だ。そんな辛い思いをしてまで俺に生きていけだなんて、言わないで」

誰にも見せないまま隠していた、彼の孤独に想いを馳せて涙が溢れる。
いつも君はこんなことを考えながら、私を眺めてたんだね。私はその視線の意味に、もっと早く気付いてあげるべきだったんだね。

いつの間にか私たちは、心を1つに共有してしまった。半分ずつではもう、生きていけない。

「後悔しても知らないよ」

上擦る声で泣いてるのがバレそうで、見られないよう、彼の胸元に顔を押し当てる。犬飼はじゃれるように頭をすり寄せて、「しないよ」と返事をした。

「不幸になっても、自業自得だ」
「そうだね。でも俺そういうの得意なんだよね」

なにそれ。意味わかんないよ、犬飼。

潮の匂いと雨の空気が混ざり合って、息を吸うと身体の奥がひんやりする。私たちが出会ったのも、こんな風に雨が降っている日だった。でも二人とも、その頃とはまるで違う。

「…犬飼、ありがとう。もう帰ろうか」
「うん」

風邪を引かないように声を掛けて引き上げようとしても、彼は返事をするだけで身体を離してくれない。…何だコイツ。返事だけか?

「雨降ってきたから離して」
「やだ。降られたい年頃だから」
「何それ。ふざけてないで、ほら。風邪引くから」
「そうなったら2人で病人お泊まりパーティーしよう」
「ボコるよ?」

背中をベシリと叩けば渋々腕が外れた。身体を離して歩き出せば、犬飼は子供みたいな笑顔で右隣から私の顔を覗き込んでくる。

「手を繋いでもいいですか?」

…なるほど。いつでも準備はできていた、と。

「だめ!」

断られたくせに、犬飼はすごく嬉しそうに笑ってて、本当に変な奴だと思った。
でも犬飼のそんな意味不明なところが、私は結構好きだった。

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