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エーデルワイス 3 【犬飼】

 もし一つだけ願いが何でも叶うなら、月の裏側を見てみたいと思う。
都市開発が成されて大型団地に変わった田んぼはもう二度と元の田んぼには戻らないし、一度剥がしたシールは粘着力が弱くなって使えなくなる。明るい都市から星が消える。命を殺して食べて、別の命へと繋ぐ。簡単で当たり前なことだけど、そのことにはなかなか気付けない。だって見えなくなったものを見ようとするなんて、そんな無謀なことしてる暇あったらアマプラで映画見るよね。
 彼と過ごした時間はどんな時も、アマゾンプライムより充実した楽しいものだった。それなのに発展を拒んだのは、途中で壊してしまうのが怖かったから。感情は時間に奪われてしまう。私も彼もそのことをよく知っていたから、気持ちの相違がわかった時、黙り込んでしまった。その沈黙が決定打だった。私と犬飼はきっともう、元には戻れない。

大切なものが手の中から落ちて行くのをただ見ていることしかできなかった。もし月の裏側まで探しに行けば、無くしたものは見つかるだろうか。

**


『彼氏できました〜!ハイ拍手!』

スキップで登校してきた友人の一言で巻き起こらない拍手。朝一番でこのテンションの人には着いて行くなって、小学校で習った。しかしそれよりも、みんな驚いたのだ。彼女が前の彼氏と別れたのはほんの1〜2週間前のことだった。

「ペアリング早すぎ。Bluetoothか」
『来週スイパラ行くけどお前は来んな』
『そんなことして人として恥ずかしくないの?絶対行ってやるから』

ハブ宣言をされたにも関わらず彼女は一切動じることなく、逆に挑戦的な態度で前の席に腰かけた。流石彼氏持ちは面構えが違う。

「で、どこの馬の骨なの?ディープインパクト?」
『アーモンドアイ?』
『バ先の先輩だよ馬鹿野郎ども。前の人と上手くいってない時にずっと話聞いてくれてたの』

流石モテる女は違う。私達の弄りなんてもはや羽虫の音である。

『マジか大穴じゃん』
『ほんそれ。私もまさかこんなに早くリア充復帰できるとは思わなかったよね』
『発展の仕方が戦後の日本なんだよな』

日が昇って沈んでをゆるやかに繰り返すうちに、好きな人は前の人になっていく。きっと、悲しみを別のもので上書きする時、楽しかった思い出まで一緒に書き換えた方が楽になれるのだろう。
でも幸せならOKです。これは世界を平和にする言葉。誰かに執着しない心の広さはわざマシンのように一朝一夕で習得できるものではなく、麻痺するくらいに目まぐるしく繰り返される出会いと別れから目を背けなかった結果なのだろう。

「おめでとう、カップルアカウント開設したら連絡して」
『チャンネル登録よろしく!』

私はまだ、自分が相手にとってサイクルの一部でしかないことを虚しいと感じるから、いつも執着しすぎてしまう。いつか忘れてしまうとわかっていても、忘れたくないんだと思う。目に見えなくても確かにそこにあったもの。誰か1人のために費やした私の時間。

**


『犬飼体調不良らしいね』

ここ4〜5日、姿を見かけないと思っていた彼が学校にも来ていないと人伝に聞いたのは、金曜日の夕方のことだった。

「体調不良?」
『あれ、聞いてないの?仲良いのに』

加賀美ちゃんが悪気なくそう聞き返すと、喉の奥が詰まるような心地になった。犬飼とのことはまだ誰にも言っていない。彼の気持ちを聞いたあの日から2週間、今まで毎日のようにやりとりをしていたLINEは先週の金曜日を境に途絶えていた。

「そんなに、みんなが思ってるほど仲良くもないよ」
『ふーん』

勘繰るような間の後、形勢不利になりかけの私がそろそろ帰ろうかなと声を上げる前に、隊室に荒船が戻ってきた。これはグッドタイミング。

「どうも、お邪魔してます」
『おぉ、来てたのか』
「うん。けどもう帰るよ」

荒船隊が集まるまで加賀美ちゃんの喋り相手になっていただけだし、と鞄を持ち上げて出入り口に向かえば、なぜか荒船は目の前に立ち塞がってきた。

『悪いがこの後暇なら、ちょっと頼まれてくれ』

**

退勤後、私は日が沈む方角に向かって歩いていた。目的地は自宅、ではなく犬飼の家。
テスト前だから欠席分の課題を届けてやってくれ、と犬飼の担任から荒船へと託されたプリント冊子を、今度は荒船が私に託した。
今、犬飼に会ってもどういう顔していいかわかんないし、本当は行きたくなかったけど、荒船からの頼まれ事だから嫌だとも言えなくて引き受けてしまった。

道に迷うこともなく、案外あっさり辿り着いた犬飼家の前で立ち止まる。もし彼のご家族が出てきたら、私は犬飼くんの何ですって言えばいいんだろう。よく考えたら制服違う子が課題プリント持ってくるのっておかしくない?どんな説明すれば変じゃないかな…そんな風にもやもや考えて緊張してる自分にも何だか妙にムカついてきて、えいっと勢いでインターホンを押した。

『はーい』

ガチャっと軽快に玄関の扉を開けて出てきたのは少し年上の女性だった。面影があるから、きっと彼のお姉さんだろう。きょとんとしたような顔で、じっと見つめられる。

「あの、私、犬飼澄晴くんの…」
『彼女!?ちょっと待って澄晴呼ぶね、』
「違います!呼ばなくていいです!頼まれてプリント渡しに来ただけなんで!」

病人を叩き起こそうとするお姉様を呼び止めて、プリントの束をほぼ無理矢理突き出すように渡す。

『あ〜なる!そういうことね。ごめんごめん、ありがとう』

えへへと恥ずかしそうにはにかむ顔はやっぱり彼と重なって、初めて会った人なのに親しみを感じた。

「澄晴くんの具合はどうですか?」
『あぁ、一昨日までガチ病人だったけどもう元気になったよ。来週からは学校行くって』

ガチ病人というワードセンス…しかしまぁ、元気になったのなら良かった。彼が体調を崩すなんて珍しいから。

「そうですか…お大事に。では、失礼します」
『持ってきてくれてありがとね〜!』

手短に用事だけを済ませて、背後で扉が閉まる音を聞いた。途端に肩の力がふっと抜ける。身体の中心に集まったエネルギーは夕焼けに吸い込まれて、青い夜の隙間に落ちていった。
この平穏な帰り道を少し味気ないと感じるのは、彼に会うことに慣れ過ぎたからだろうか。私は彼に会いたくないと思いながら、自分でも気付かないところで逆のことを考えてるのかな。


その日の夜、彼から『ありがとう』と一言LINEがきた。未読にしたままどんな言葉を返すか考えていると、『電話してもいい?』と通知が重なる。
画面に表示されるいつもの口調がなんだか懐かしいように感じて、思わず「いいよ」と返したくなった。でも私が既読をつけるより前に、メッセージは取り消されてしまった。
無かったことにされた言葉に見て見ぬふりをして、翌朝やっと気付いたように彼の『ありがとう』へ『うん』とそっけない二文字を返した。

**

予報通り、今日は午後から激しい雨が降った。日が暮れた頃に任務が終わり、本部基地を出る頃には時刻は21時。幸運なことに雨足は随分弱まっていた。
街灯の光が雨粒をスポットライトのように照らして、静かに煌めいている。無料のプラネタリウムみたい。誰かが隣にいれば言ったような言葉を、一人だから飲み込んだ。
風が少し強く吹いていて、傘を開くかどうか悩んだけど、風邪を引きたくないから結局開く。

「い〜れて」
「うわ!?」

タイミングを見計らったように後ろから傘の下に潜り込んできた犬飼に驚いて、傘から手を離してしまった。でも彼の手が素早く重なって、地面に落ちることはなかった。
犬飼澄晴はまるで待ち合わせしてた人と合流する時みたいに当たり前の笑顔で、私の顔を覗き込む。

「傘、俺が持つね」

何事も無かったようにいつもの軽い調子で接してくる彼に違和感を覚える。本当は、久しぶりに会ったら私の方から体調を気遣うような言葉を送ろうと思っていたのに、そんな言葉も出てこない。

「いや…何でいるの?」

こんな突き放すみたいなことを言ってしまう自分が悲しかった。初めて会話を交わした日の音や色を、私はいまだに忘れることができず覚えている。きっと犬飼はそんなことあったっけって笑うと思う。

「話したくて、待ってた」

湿っぽい空気の暗い夜道で、彼の声はやけに透き通って聞こえた。その綺麗さに苛立ちを覚えてしまうのは、私が思い出を大切にしすぎているからだろう。これ以上壊したり、汚したりせずに、なるべく綺麗なままガラスのショーケースに入れてしまっておきたいのに、彼は手を加えようとする。

「体調、戻ったの」
「うーん、まだ完全には」
「そんなので出て来ない方が良いよ」
「あはは、それ二宮さんにも同じこと言われた」

目線を空中に投げて弱ったように笑う犬飼の横顔を、何も言わず見つめる。彼の不調の原因が自分にも責任があるのではと思っていたから、何も言えなかったのだ。

傘を盗られて、閉じることもできなくて、しばらく沈黙を背負ったまま同じ歩調で歩いていると、犬飼がふとこんな言葉を落とした。

「焦ってるのかも」
「なに?」
「俺より良い人なんてごまんといるよね」

地面の水溜りに映った光を眺めながら彼は寂しげに呟いた。和泉式部とかならこの光景で歌とか詠んだのかもしれないけど、私は、今更何言ってるんだコイツと思った。
世の中にはうんざりする程たくさんの人がいる。その中で私たちは、わざわざお互いを選んで、限りある時間を使って一緒にいたんじゃなかったの。

「絶対ないって言われたのに、諦められなくてごめん」

雨はもうやんでいた。でもそんなことはどうでもよかった。

「…ずっと好きでいても許してくれる?」

続けて言葉が水溜りに落ちていく。こんなにも真っ直ぐ思ってくれている人に私は同じものを返せない。ただ、その言葉が作った波紋が、私の心を少しだけ揺らすのだ。
何処かで一歩間違えて、たちまち脆い関係になってしまった私と犬飼。やりなおしボタンが見当たらない。それでも前に進むしか有り得ない世の中だから、息をするのがこんなに苦しい。

「犬飼。もうここは私たち2人だけの世界じゃないんだよ。例え他の人から目を背けても、どうにもならないよ」

自分の上位互換はたくさんいる。本気でそう思っていた。私が私を大切にしないから、慰めるための言葉は彼を傷付けていると気付かなかった。きっともう、あの時既に私たちはお互いが特別だったんだ。でもその特別をどう扱いたいかが、2人で違った。

「なんで俺、一番好きな人に拒絶されちゃうんだろー…」

彼は吹っ切れたように力無く笑っていた。別の感情を抑え込むためにそんな顔しているのだとわかっていても、私は気付かないフリを貫く。

「会いたいのに、会えば苦しくなるから、辛い…」

傘の中で、初めて彼が吐いた弱音を聞いた。この直径1mにも満たない小さな空間が、私たち2人の世界だった。


**


私はあれから、彼からの連絡が来ることはもうしばらくはないだろうとなんとなく覚悟していた。しかし、その予想は大きく外れる。
何者かによって横流しされた防衛任務のシフト、学校の時間割、持ち得る全てのカードを駆使して犬飼は予定を合わせて必死に会いにきた。
今朝も送られてきた『放課後会える?』ってLINEを放課後まで放置してると、授業が終わった頃に電話がかかってきて鳴り止まない。

『ねぇ、なんかあんたのスマホさっきからずっと鳴ってない?』
「通話キャンセルしても取るまで永遠にかかってくるんだよね」
『やばいじゃん、ウシジマ怒ってるんじゃね』
『とりまミスド行く?最期かもしれないし奢るよ』
「持つべきものは友」

息抜きしないとノイローゼになりかねない。犬飼のことは一旦忘れよう。スマホは鞄の中に放り込んで、友達2人を引き連れ放課後ミスドコース。
最近任務が詰まっていたから、友達と放課後に寄り道するのは久しぶりだ。無駄に高いテンションで歩きながら、バイト先に訪れた変な客とか、見たい映画の話で盛り上がる。ころころ話題を変えながら歩いて、正門を出てすぐ右に曲がったところで、ガードレールにもたれてスマホを触ってる犬飼を見つけた。
なんだあいつ。なんでいるんだ。なにしてるんだ?地獄の番人?ここまできたらストーカー?
とにかく友達2人の間に入って腕を組み、人を盾としたフルガードで鮮やかに素通りをさせていただく。

『え、なに急に』
『両手に花じゃん』

自分で言うな。声を出したらバレる恐れがあるため突っ込みは何とか飲み込んで、無事に彼の前を通過してから、ふぅ…と肩の力を抜く。間も無く、その肩にぽんと手が置かれた。

「ねぇ、何で電話出てくれないの」

全然普通に余裕でバレていた。まぁでも正直、こうなるような気はしてたよね。だって彼は連絡を放置すると学校まで来るような、一筋縄ではいかない男。振り返るタイミングで、肩に乗せられた手を払う。

「今、友達といるんだけど」

いきなり現れて友達の前で問い詰めたりされるのは、流石に気分が悪い。自己中にも程があると思う。彼の突飛な行動にムカついて冷たい態度で突っぱねた。しかし思ったより反抗期の娘っぽさが出てしまった。

「ごめんね、でも俺はずっとアポ取ろうとしてたよ」

何だ、こいつ。無視した私が悪いって言いたいのか。敵意を込めて睨むと彼は私から視線を逸らすように、友達の方へと目を向けた。

「急に邪魔してごめんね、はじめまして。この子と同じでボーダーやってる犬飼澄晴です」

急に愛想のいい他所行きの笑顔で挨拶するから、恐ろしくて半歩後ろに引けば、その分の距離をしっかり詰められる。別にこっちを見るわけでもなく、自然にそうする犬飼が怖かった。

『何このイケメン!』
『あんたのウシジマやばいよ!早く金返しな!』
「借りてないわ!」

早速犬飼マジックにかかった女2人は、興味津々で彼と私を交互に見た。ていうかいつまでそのネタ引きずるんだ。

「あはは、どんな勘違いされてんの。みんな今から帰り?」
『うん、これからミスド行く!』
「え〜いいな〜新作美味しそうだよね」
『イヌカイくんもくる?何か用事あって来たんでしょ?』
「うーん、そうなんだけど…多分俺が行くと空気悪くしちゃうよ」

最初から行く気満々で話を振ったくせに、彼は私の顔色を伺う素振りをしながら話を進めた。くそ、本当に白々しい男だ。私にはわかる。これは私の許可を待っているのではなく、友人からの同情を期待しているのだ。

『え、何?もしかして2人喧嘩してんの?』
「喧嘩はしてないけど…この前告って振られたんだよね」
『はぁ!?誰が誰に!?』
「俺がこの子に」
『ちょっと待ってちょっと待って、お兄さん!?』

リアルラッスンゴレライ発動の瞬間。私はもう何を言っても無駄だろうと口をつぐんで、この先の展開をどうすればいいのか一人で考えていた。
私がここで帰ると言えば彼は追ってくるだろうか。例え来なくても、きっと友人2人が彼に取り込まれる。それは後々面倒臭いし、今はとにかく、犬飼が余計な企てをしないように見張っておくのが良いかもしれない。

『何でうちらに内緒でそんな青春の1ページめくっちゃってるのアンタは!』
『とりあえず話はミスドで詳しく聞かせて』
「本当に俺行っても大丈夫?」

逃げないように私の腕を両側から2人が掴んで、犬飼は最終確認を取るように顔を覗き込んだ。

「犬飼の奢りね」
「うん、勿論」

少し前まで、私達は2人で何処へだって行った。そこに他の人が入ってきたことに違和感を覚える自分が、どうしようもない。まるで私の気持ちが私の意志ではないみたいだ。犬飼と会うのは、私も苦しい。

**


『付き合うって、そんなに難しいこと?』

この前新しい彼氏が出来たばかりの友人の一言は、私の触ってほしくないところにしれっとグッサリ刺さってきやがった。何も言えずにポンデリングを一粒千切って、指でもちもちしている私の代わりに犬飼が答える。

「難しいことだよ」

彼は薄っぺらく笑っていたけど、全然笑っているようには見えなかった。でもその顔を見て、あぁ懐かしいな、なんて考えたこと、絶対に言えない。偽りのない素顔。それが何になるっていうんだ。時間をかけて見つけても結局無料のものじゃないか。100均の商品の方が高価だ。私はマジで、心から信頼できる友達になるって恋人になるより難しいことだと思ってたんだよ。

『そんなに真面目に拗れるほどお互いのこと大切にしてるのに、何で駄目なの?』

友達がストローの袋を指先で結びながら聞いた、かなり踏み込んだ質問。今まで犬飼本人でさえこんなこと聞いてこなかったから、言葉に詰まる。だって彼は私が告白を断った時、まるではじめから結果などわかりきっていたように、『だと思った』って言ったんだ。

「大切だから、適当なことしたくないんだよ」

本当は彼を傷付けたり、自分が傷付くことよりもっと怖いことがある。今まで誰にも見せることができなかった弱い心を、下手くそな言葉と震えた声でしか話すことが出来なかったのに、彼は受け止めようとしてくれた。そのことを忘れたり、無かったことにしたくない。
したいことよりもしたくないことの方が多いから、何もできない。

『まぁ保守的になるのもわかるけどさ。それで2人とも傷付いてんなら本末転倒じゃない?』
『はぁぁ〜〜くそ、焦ってぇな!!ごちゃごちゃ言わずにお前ら2人いっぺんキスしてみろ!多分何かわかるわ!』

ずっと黙って話を聞いていた方の友達がバン!と机を叩いていきなりキレ始めた。

「え、ホントに友達?」

犬飼がドン引きしている隣で、私も同じくドン引きしている。

『ごめんね、コイツの言うこと気にしないで。…でも私も正直それがいいと思う』

この人たちマジで私の何だったっけ。呆れて何も言えない。

「…どう思う?」

ちらりとこちらを窺う犬飼に、もっと呆れる。

「は?聞く必要ある?するわけないでしょ」
「だよね。いや、俺が普通じゃないのかなと思って」
「呑み込まれるな」
「はい」

やっぱりここに来たのは間違いだった。犬飼よりもこの2人の方がよっぽど害悪だ。それに、第三者が介入すると私と犬飼の関係がどれだけおかしな形をしているのか、嫌でもわかってしまう。

『理屈で色々考えるよりも、好きになれるかどうかなんて案外生理的なものかもよ?』
「そんな原始人みたいな考え方嫌。人類は時代と共に進化を遂げるんじゃないの?」
『足速い男とか背高い男がどうして女にモテるかわかる?本能で強い遺伝子を求めてるからだよ。生理的感情の言い訳として理性があるのよ。高尚な言葉で取り繕ってみても結局、私達の意識の根底にあるのは子孫を残すことなのよ。命のサイクルから外れるのは不可能ってわけ』

意味わかるようで全然わかんない。くそ、超帰りたい。なんだこの集まりは。犬飼が私のこと好きで付き合いたいと思ってても私にはそのつもりがないから付き合えない。その話がどうしてここまで飛躍するのか。…考え方が自分と違うと、理解と処理に時間がかかる。
何を言えばいいのか頭をフル回転させて考えていると、犬飼が先に言葉を放った。

「それなら、なおさら出来ないよ」

意外にも、犬飼が拒否の言葉を口にする。

「理屈がわかっていても、きっと心がついていかない。代わりになるものがあるって知ってても、結局何にも代えられない」

あの時の私の何気ない一言に、今やっと返事が返ってきたみたいだ。そして、私と犬飼はいつからか同じ思想を持っているようだ。

「やっぱり、犬飼は他の人と一緒には扱えない」

終わりたくない。だから、始めたくない。
出来るならずっと楽しいことだけ考えていたかった。私の心は取り残されて、変わっていく君の心に追いつかない。

「大切と好きって、何が違うんだろうね」

犬飼は相手を安心させるみたいにまたへらりと笑ってみせた。遠ざかる心を繋ぎ止める方法を、私は知らない。きっと彼もわからないのだろう。



**

『団体割引って偉大だよねぇ』

食堂でかけそばを啜る私の正面で、王子一彰は頬杖をついてため息を吐くように呟いた。

「またこれみよがしに…」

明らかに私に聞かせるための独り言。そこまで絡み強くない相手に普通こんな態度とれる?とれるか、だって王子一彰だもん。

『今週土曜の17時に予約するからね』

どうやら拒否権は消えたらしい。はいとYESしかない選択肢。

「はいはい」
『スミくんも誘ってあげて』
「王子が誘いなよ」
『断られちゃった』

どうしてだろうねぇ、なんて白々しく言われてやっと気付いた。私と犬飼の関係がギスギスしてることに、もう周りは結構勘付いているのだろう。だからこの人はわざわざ私のところに来たのか。

『まぁ君が適任ってだけで、誰も君の役目だなんて思ってないよ。ただ、スミくんが来ないって事前に知ってたら、どうせ君は気を遣って欠席するだろう?欠員が2人もいるといよいよ団体割引が効かなくなるんだ。わかるかい、これは深刻な話だね?』

頷いたりして真剣に聞いてるフリをしながら、国語の教科書に出てきそうな喋り方だな、なんて呑気なことを考える。王子は他人と自分の線引きがすごくハッキリした人だ。だから私にも犬飼にも踏み込まず、自分の場所からわざわざ私に語りかける。団体割引って本当に便利な言い訳だ。チャンスを与えてもそれを自分の優しさにしない彼だから、こんなに暴君感満載なのに人からは嫌われていないのだろう。

「…わかったよ、言ってみる。ていうか…もしかしてわりとみんなにバレてるの?」
『いや、2人とも上手くやってると思うよ。まだ噂にもなってない。君たち基地内ではほとんど会わないようにしてるみたいだし』

見透かされているのは、きっと王子だってそうするからだろう。私情を持ち込んで組織内の空気を乱したくないというのは犬飼も私も同じ考えで、それはわざわざ言葉を使って確認しなくとも、当たり前にしなければならない配慮だ。

『でもだからこそ、察しの良い人にはわかるんじゃないかな。夏頃なんていつ見ても2人でつるんでたから』

グリとグラとかトムとジェリーみたいにね。なんて少し茶化しながら、彼は立ち上がる。そんなに面白くないけど私はそのことを態度に出してはいけないのだ。

『とにかく、スミくんも含めた人数で予約しておくから、せいぜい頑張って口説き落とすんだね』
「言い方」

そうして王子は、さらっと私に試練を与えて何処かへ行ってしまった。
先週ミスドに行ってから、犬飼とは一度も会わずに1週間が経った。テストだなんだで忙しいというのは会わないための口実で、彼は何度か連絡をくれたけど、素っ気なく返していればやがてそれも途絶えた。トーク画面を開いて会話の記録を見る。いつも1行未満で返しているから、こんな時に何を言えばいいのかしばらく考えてみても思いつかなかった。
こんな風に機械に頼るよりも直接顔を見て話すべきだっていうのはわかる…しかし、対面だと私も犬飼も立場を譲らないからいつも話が平行線上を辿る。だんだん苛立ってくるし、必要以上に冷たい態度をとってしまうことも多い。最近は一緒にいても気まずいだけだ。
でもだからと言って無視したり、見えないフリをするような避け方はしたくない。私に気を遣って犬飼が行かないって言ってるんだったら、それは違うよって言わなくちゃ。誰かのために自分の気持ちを抑え込むなんて間違ってるし、犬飼にはそんなことをして欲しくない。いつだって正面から彼と向き合っていたいと思う。その気持ちだけは、私がずっと揺るがずに持っているものだ。


**


気持ちは強いけど度胸はないので、いきなり犬飼に連絡することを日和った私は、彼に会うためにまず荒船から時間割の情報をゲットした。そして私の学校の方が早く授業が終わる水曜日の放課後、六頴館の正門近くで犬飼を待ち伏せした。思い返してみればやっていることが完全に同じである。
学校のチャイムが聞こえて、しばらく待っているとちらほらと下校する生徒が出てくる。なかなか時間が経ってくれなくて、彼もこんな風に私を待っていたのか、なんて思うとちょっと苦しい。
犬飼も友達といる時に私に声掛けられるの嫌かな。アポなしでここまで来た自分の謎行動力…なんか急にこれが正解なのかわかんなくなってきた。やっぱり一言くらい連絡しようかな。どんな言葉を送る?今門の前にいるよ。とか?メリーさん完璧再現じゃないか。ちょっとツラ貸せやとか言う?いや誰なんだ…会いたい、とか恋愛ソングみたいな言葉は絶対言えないし、言ってはいけないような気がする。でも、何か言わなくちゃ。
またもやもやと考えているとだんだん苛々してきて、勢いでえい!と通話ボタンを押した。
コールが5回鳴って、「どうしたの?」と、犬飼の声。

「あの、さ…」

いきなり言葉に詰まった私に、「うん」と電話口でも優しく相槌を打ってくれる犬飼。背後で聞こえる教室の騒がしい音の中から、『犬飼電話中?』って女の子の声をいちいち拾ったりして、心が遠くにいってしまいそうになる。

「ごめん、急に電話して…」
「ううん、大丈夫。でも、珍しいからびっくりした」

ガラ、と扉を引く音が微かに聞こえると、いつの間にか後ろで聞こえてた音も聞こえなくなっていて、彼がわざわざ場所を変えてくれたんだと察する。

「話したいことあって…今、学校の近くまで来てるんだけど…今日って会えないかな」

妙に上擦る声は、どうか機械のせいだと思ってくれないかな。クイズ番組の解答後みたいな沈黙が訪れて、通話ボタンを押した時の勢いが雲に隠れてしまうように、だんだんと自信がなくなってくる。あー、あの時自己中なんて思ったから、今超ブーメランで気持ちが重たい。

「会えるよ。すぐ行く」

雲の切間から地上に射す太陽の光のような返事の後、通話が切れた。安心するのはまだ早いけど、一歩前に進めた達成感と、安心感で強張った気持ちが解ける。

犬飼は言葉通りすぐに来てくれて、私を見つけるなり駆け寄ってきた。

「どっか座って話そうか。近くに公園あるけど」
「うん」

屋外を提案してくれる心遣いが今は逆に苦しかった。人生ゲームで何マスも戻ってしまったような気分。もう取り返しはつかない。
私と犬飼は団地の横にある、小さな公園のベンチに座った。さっき自販機で買った飲み物の水滴が手について冷たい。彼が何も言わないから、私は変に緊張しながら一言目を告げる。

「犬飼、意味わかんないよ」
「え、?」

留めていた感情が焦って勝手に出て行った。やってしまったなと思っても、感じたことを整理できるほど今は冷静になれなかった。

「迷惑かけるなら徹底的に迷惑な人になりなよ。中途半端に気遣われても、虚しいだけだし」

私が突然キレだしたから、犬飼は戸惑ったような表情を浮かべる。そしてすぐに何かを言うわけでもなく、少し考えてから聞き返してくる。

「俺が打ち上げ断ったの気にしてる?」
「してるよ」

もはや虚勢なんて剥がれ落ちて、剥き出しの感情をぶつけることしかできない。

「私も正直犬飼と会って話したりするの辛いけど、だからってどっちかがみんなの輪から外れたりするのは違うじゃん」

本当は悲しいだけなのに、怒ってるみたいな声が出てしまう。

「私とか他の人の気持ちまで、犬飼が一人で決めないで」

あれしないで、これしないで、って。私は彼にそんなことばかり言ってる気がする。

「…勝手なことしてごめん」

犬飼は少しやるせ無さそうに俯いて謝ってきた。私が責めたはずなのに、彼に謝られると心が痛むのは何でなんだ。私の心は狂ってるのだろうか。

「この前、ずっとどうしていいかわかんないような顔してたから…他の人といる時、俺がいると楽しめないかなって思って」
「確かに犬飼がいる場所で完全に気兼ねなく楽しめるかって言われたらそんなわけないけど、いないほうが逆に気になって楽しめなくなる。私に私のせいだって、思わせるようなことしないで」

この言葉が彼の行く手を阻むのはわかってる。でもそんな気遣いは自己満足だ。強く言い切ると、彼は力が抜けたようにゆるく微笑んだ。

「押してダメなら引いてみろってよく言うけどさ、俺あの考え方は利己的だと思うんだよ」
「何の話?」

意味不明な話題転換に首を傾げる。犬飼は空を見上げていて、私はそんな犬飼の心の中が知りたかった。

「あの戦法って攻めてるフリして本質は完全に受け身でしょ?本気の相手にそんなぬるいことするとかマジ有り得ないって思ってた。けど…」

いつもの砕けた口調と、何処か気怠そうな物憂げな表情。自分のことを語る時、彼はよくこんな顔をする。

「引き際間違えて、もう会いたくないってハッキリ言われるのめちゃくちゃ怖かったんだよね」

秋の匂いを運んできた風がついでに背中の汗を冷やして、体温が下がる。
敵対する彼の弱気な姿を見て、励ましたいと思ってしまうのは、この前何も言えなかった後悔がずっと心の縁にへばりついているからだろうか。優しさは逆に彼を傷つけてしまうかもしれないから、無責任なことを言うのが私も怖かった。でも、何もしなかった時の方が絶対後悔する。

「それなら、約束しようか」
「え?」

急な提案に、彼は不意をつかれたように聞き返した。

「会いたくないなんて、言わないよ」

たしかにもう、私たちは前みたいな関係には戻れない。でも、過去が思い出になったからといって現状から目を背けなくてもいいのかもしれない。私と犬飼はまだこうして、2人で話ができるんだし。

「思っても?」
「言わない」
「いやそもそも思わないでよ」

この空気でこんな図々しいこと言える彼はなかなかに面倒くさい人だ。でも私も負けていない。

「犬飼が思わせなきゃいいんだよ」
「あははっ、それは確かにそう」

久しぶりに彼の屈託のない笑顔を見て、身体は冷えてるのに心がじんわりと熱くなる。私は、ずっとこの顔が見たかった気がする。

「真剣に向き合ってくれてありがとう」

こんな風に彼にお礼を言われるなんていつぶりだろうか。最近暗い顔ばかりさせていたから、余計に嬉しい。釣られて、頬が緩むのを感じる。

「俺のことこんなに大切に想ってくれる人、他にいないよ」

ペットボトルの水滴がついた手のひらに、彼の指先が触れる。バッ!と反射的に手を上げて逃げると、ちょっと笑われた。

「かっ、勝手に触るな!」
「あ〜調子乗りました、すみません」
「ていうか犬飼の視野狭すぎ。もっと他にも目を向けなよ」
「ごめんね、こっち見るのに忙しくて。必死すぎて声震えてたの、ちょっとキュンとしちゃった」
「しばくぞ」

ほんと、調子良すぎ。なんだコイツ。自然と出てきたジョイマン。いや落ち着け私。変な空気になる前に話を戻せ。

「…土曜日、来るでしょ?」
「行ったら隣の席キープするけどいい?」
「駄目って言ってもするじゃんか…」
「そりゃそうでしょ」

ムカつく!でもこれが犬飼の通常運転の証だ。手を伸ばしたら届くけど、肩が触れない距離を保ったまま、私たちはそこに留まる。

「やっぱり俺、ここが1番好き」

不気味なパンダとエビフライみたいな形の遊具しかない、このショボい公園のことではないとわかっていた。でも私はわざと「変なの」って、何とも取れない返事をする。

一年前の雨の日、体操服を取りに戻ったせいで犬飼に出会ってしまった。この距離は、月に行くよりも時間がかかる。無駄な荷物を捨て、代わりに彼に会うまでは知ることがなかった感情を沢山抱えて。
季節がぐるりと巡るうち、日が沈むのも随分早くなった。赤い空が徐々に紫色に変わってゆく。そんな風に私を変えた、君の優しい気持ち。

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