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君を信じてみたい 【王子】

 初めて聴く音楽みたいな毎日を、知らない街を散歩するように生きていく。目標というほど明確ではなくて、夢というには大袈裟すぎる。こんな風に生きたいっていう希望。あるのはそれだけ。

「将来なりたいものとかあるか?」

 夏休みまであと3日。クーラーが効きすぎている教室で、私は27才男性高校教員と未来の話をする。数字の羅列となって可視化され、A4サイズに印刷された私の知能が机の上にペタリと横たわった。ドクター、脈がありません。

「素敵な大人とか?」

 青々しい答えに先生はうーんと眉根を寄せて頭が痛そうに唸った。なんだか申し訳ないなと思うけど、わざとらしい反応だな、とも思う。

「…たしかにそれは立派な夢だな。社会に出ても素敵じゃない大人は多いし。その目標を掲げる君には観察力があると先生は思います。で、具体的にどんな進路を考えてるか教えてくれ」
「先生。そうやって丁寧に逃げ道を塞がないでよ。もしも私に行きたい学校とか就きたい職があったら、先生に心配かけるような点数とってないよ」
「だよなぁ〜」

 先生が背を曲げてぐでん、と机に項垂れるのを見て、私も机の下で足を組んだ。姿勢ひとつで、場の緊張感が一気に緩まる。

「数学1点ってマジでどういうこと?テスト中寝てた?」
「あと99点取れば100点だったのに、惜しかったと思います」
「そうですか…親御さんは何て?」
「人を納得させるより自分を納得させなさいって」
「素敵なご両親だな……」

 私の口答えに対して、先生はわかっているのかいないのか、ため息混じりに笑った。

「まだ高二だし、やりたいこととか見つけるの難しいかもしれないけどなぁ…勉強くらいは頑張っておかないと後でやりたいことが見つかった時に困るかもしれないぞ?」

 たしかに。私は部活にも入っていなければ、夢中になれる趣味や特技もない。勉強もこの通り。生意気だし、社会に出て使えるスキルなんて待ち合わせていない。けど…そうやって今の自分を否定してしまうのも何だかなぁと思う。

「先生。私、毎日さくっと生きてるんです。こういうのなんていうのかわかんないけど…学校来て授業受けたり、バイト行ったり、インスタ更新したりしても、結局何も進んでなくて、同じところをぐるぐる繰り返してるだけな気がする。だから昨日のこととかどうでもいいし、先のことなんてもっとわからないですよ」

 でも本当は、何かに対して一生懸命になってみたい。わざわざ言葉にしたりしないけど…誰だって一度くらいは考えた事あるんじゃないだろうか。教室の中は冷凍庫みたいに涼しいのに、先生はハンカチで汗を拭う。そして、話題を微妙にずらした。

「教師の俺が言うのもなんだけど、お前は素直で真面目すぎるんだよなぁ…どう見ても答え丸写ししてる宿題を堂々と出してくるのなんて、お前くらいなもんだよ」
「そんなわけないじゃないですか。答えなんて写したことないです」
「なるほどな、あくまで白を切るつもりか」

 いくらたるんでるとはいえ、先生の前で悪行を肯定するはずもなく、私はすかさず容疑を否認した。その嘘をあっさり見抜いた先生は、鞄から新品のノートを取り出して「はい」と受け取るよう私に促した。嫌な予感。

「追加課題です。毎日なんでもいいから日記書いてこい。1日1ページ。いいな?」
「そんな、答え写せないじゃないですか」
「開き直るな」

 「はい、じゃあ終わり。気を付けて帰れよ」と先生が言えば、ぬるっと面談が終了。何で私だけこんな面倒な課題を…なんて聞く余裕すら与えずに、寒すぎる教室から蒸し暑い廊下にポイっと吐き出された。
 将来の夢とか素敵な大人とか、なんか荷が重い言葉だよなぁ。とりあえず、家に帰ってカップラーメンを食べながら明日どうするか考えよう。

**

「ねぇ、夏休みどこか行かない?」

夏休みまであと1日。休み時間、教室のクーラーが寒すぎて廊下に避難していると、教室の中から王子が話しかけてきた。わざわざこの距離感で話を試みるなんて、彼のマインドはおとぎ話に出てくるお転婆少女みたいだ。

「どこかって?」
「どこでもいいんだけど。行ってみたいところはある?」
「村人以外を拒む村の祭りとか」
「あはは、そういう映画でも観たの?行き先はぼくが決めるよ。とりあえず空いてる日教えて」

 行きたいところはあるかとこちらに聞いておいて、主導権を手放すつもりはないようだ。まぁ私としても決めて貰った方が楽だし異論はないけど…バイトのシフトやその他の予定を確認しながら、候補日をいくつかピックアップしてDMに送る。

「先に言っとくけど、どこ行くにもお金は折半だよ。王子が全部持つとかナシ。わかった?」
「わかった。約束するよ」

 あらかじめ注意喚起をしておくと、王子はうんと頷いて応えた。先手必勝という言葉が偉大だというのは、彼と関わるうちに学んだことだ。自らの成長を感じて勝手に胸が熱くなっている私を他所に、王子はメッセージに既読をつけると「決まったらまた連絡するね」とご機嫌に笑って教室の中に引っ込んだ。
 時計を確認し、私もそろそろ教室に戻ろうかと思った時。どこからか名前を呼ばれた気がして、ふと近くの窓から中庭を見下ろすと、校舎裏のベンチに誰かが立って手を振っていた。なんだか見覚えがある。あれは…ひとつ下の後輩だ。

「せんぱーい!!やっほー!」
「こら〜、そこみんなが座るところだから」
「あ!すいませーーん!!」

 注意すれば、周りにいる友人たちに笑われながらも後輩は大人しくベンチから降りた。彼は中学の頃の部活の後輩。高校で部活に入ってない私にとっては、唯一顔見知りの1年生だ。車のワイパーみたいに全力で手を振り続けている姿が健気で、こちらも窓から顔を出して手を振り返す。

「ねぇ先輩!俺と一緒に夏祭り行こー!」
「夏休みの間はフィリピンに留学行くからパス」
「どうせ嘘でしょ!わかってますよー!」
「こっちこそわかってるんだよ、OKされるかどうか友達と賭けてるんでしょ」
「俺がそんなことすると思います!?先輩怖い漫画の読みすぎですよ!」

 流石私の後輩。教育がしっかりしている。普通ならこの辺で真面目に断るところだけど…周りに彼の友達が固まってるせいで地味に拒否しづらい。年下だし、付き合いも長いしなぁ……どうしたものかと視線を横にずらすと、いつの間にか教室から出てきた王子が隣で様子を見学していた。

「うわ、王子いたの」
「あのうるさいの、誰だい?」
「中学の後輩。ややこしいから向こう行ってて」
「ひどいなぁ」

 彼の背中を押して教室の中へ戻るよう促してから、もう一度窓の外を見る。後輩はまだ諦めずにこちらを見上げて返事を待っていた。

「とりあえず後でDM送ります!ちゃんと返信くださいね!」
「はいはい」
「あざーす!」

 しつこい奴め。ここは一旦折れてDMで断る作戦でいこう…なんて悠長なことを考えていると、王子が後ろから腕を回し、ぐっと体重をかけて背中にのしかかってきた。つ、潰される…こっちにもしつこい奴がいるのをすっかり忘れてた。

「ごめんね。ぼくと約束してるんだ。諦めて」
「待って!先輩彼氏いたの!?」

 サラリと言い退けた王子に、後輩は見事に誤解して戸惑いの表情を見せる。コイツ…ややこしい言い方しやがって…しかし私も別に良い人ではないから、王子と後輩には悪いけど、この機会を利用して誘いは断らせて貰うことにする。否定も肯定もせずじっとしていると、周りで見守っていた1年生たちが自動的にザワザワと解釈を始める。

「ウワ!!あれ王子一彰先輩だろ」
「マジか、ヤバ」
「お前ちゃんと下調べしとけよな〜」
「マ〜ジで知らなかったんだって!もー!先輩!そういうの先に言ってよ〜!王子先輩!俺なんも知らなくて!ごめんなさい!」

 誤解しながらも、しっかり私のことは責めてくる後輩。まぁ私は悪くないですよ。私に関わった人の運が悪いだけで。誰に誘われても元から村人以外を拒む村の祭りじゃないと行く気は無いし。

「うん、まぁ仕方ないよね。もう帰っていいよ」
「はい!ほんとすみません!失礼しまーす!」

 私が断っても全然受け入れなかった後輩は、王子の登場により一瞬で引っ込んでいった。校舎裏に集まっていた1年生たちはバタバタと一斉に去っていく。このままじゃ私、彼氏がいるのに思わせぶりな態度を取るまぁまぁ最低な女として知れ渡ってしまったんじゃないだろうか…いや、今はとにかく、行きたくないイベントに行かなくて済んだことを喜ぶことにしよう。窓を閉めて王子に向き直る。

「ごめん王子、助かったよ」
「うん。お礼は…そうだな、あの後輩くんとの関係を詳しく教えてもらおうかな?」
「肩組むな」

 王子の腕を払い退けて教室に戻ると、タイミングよくチャイムが鳴った。お礼の件はこのまま忘れてもらおう。
 相変わらず教室の中は寒くて、しかもクーラーの風がガンガン当たる席だから余計に居心地が悪い。席に座り、腕を組んでなるべく縮こまっていると、またもや王子が後ろからのしかかってきた。この野郎、タダでは帰らないつもりか。

「王子、重いって」
「今日一緒に帰りたいな〜」
「わかったから」

 要求を通して満足気に笑うと、彼は私の肩に薄手のカーディガンをふわりとかけて自分の席に戻っていった。すごい。どこから出したんだろう。

**

 王子に告白されたのはつい先週のことだった。私が告白を断ったことを、彼は全く気にしていなかった。だから私も気にしてるような素振りが出来ない。お互いがその話題に触れないように過ごしていたけど、一緒にいても不思議と気まずさは感じなかった。

「へぇ、そんな奇妙な部活に入ってたんだ」
「私が作ったんだよ。雑草抜き部。部活強制だったから」
「先生も困っただろうね…同情するよ」
「…そういう王子は何部だったの」
「百人一首部」
「地味に変な嘘つくのやめなよ」

 ベシッとチョップすれば、ふふふ〜とご機嫌に笑って腕を組んでくる。図々しい奴だ。

「あ〜あんなところに良い感じの喫茶店があるよ。夏の作戦会議したいなぁ」
「いや、私は別に…」
「ぼくらって友達だよね?」
「この野郎…」
「2名で〜す」

 一瞬怯んだところを畳み掛けられ、有無を言わさず喫茶店に連れ込まれる。なんという鮮やかな手口。素人ではないな。あれよあれよという間に店内のボックス席に案内され、適当に注文を済ませると、彼は満足気に頬杖をついてこちらを見つめた。オレンジっぽい照明が、彼の頭上に柔らかい光の輪を作る。なんだか、ようやく落ち着いて顔を見た気がする。

「わがままに付き合ってくれてありがとう。夏休みに入る前に、ゆっくり話したいと思ってたんだよ」

王子から向けられる好意を、不思議と疑ったことはなかった。この人はそういう類の嘘はつけないタイプだというのは話していればなんとなくわかる。そして何より、彼の目は口よりも遥かに説得力を持っていた。ピッタリ3秒間目が合うと、王子はゆるやかに目尻を下げて微笑む。

「無理に連れてきてごめんね。暗くなる前には家に送るから」
「それはいいけど。夏の作戦会議って、具体的に何を話すの?」
「そうだね。とりあえず、何処に行くか、何をするかを決めよう。君は、挑戦したいこととかある?」

 やっぱり王子は他の人とは少しズレてる。普通は「あの映画、面白いらしいから観に行こう」とか「買い物しよう」って、もっと簡単に誘うのに。でも…ちょっと周りとズレてて変なところが王子の良いところだ。よし、どうせなら彼の誘いを利用して、私もお得に楽しんでしまおう。王子に負けず劣らず小賢しい私は、鞄から1冊のノートを取り出して机の上に置いた。

「王子。交換日記してみない?」

 先生に課された1ヶ月分の日記。1日1ページのノルマなら、王子と交換日記にすれば私が書くページは自ずと半分になる。先生からの課題であることはあえて言わず、彼が乗ってくるだろうと予想して提案した。そして、やっぱり王子は二つ返事で…

「やってみたい」

 好奇心に満ち溢れたキラキラの目でこちらを見る彼にノートを渡すと、素早く手元で開いて中を見た。店員さんがアイスティーとフレンチトーストを持ってきても、視線はノートに落としたまま、彼は口だけで「ありがとうございます」を告げる。目を伏せると、睫毛の長さが際立つ。どうして神様はこんな虫も殺せなさそうな見た目の人を、好奇心旺盛の暴れん坊にしたのだろう。中身を入れ間違えたのか。

「まだ何も書いてないんだね」
「書くのは夏休みの間だけ。交換方法はお互いの家の郵便受けに入れるか、会う予定がある日は手渡しってことで、どう?」
「うん。毎朝早起きするよ」
「じゃあ決まり。お互いやりたいこととか行きたい場所があればここに書こう」
「わかった」

 会話がひと段落すると、王子はようやく目の前のフレンチトーストに気が付く。集中すると周りが見えなくなるタイプか。鼻で笑えば、彼はそんな私に気付いてニコリと笑った。怖い。
 アイスティーの中でストローを回せば、氷が位置を変えてカランと涼しげな音が鳴る。食べてる彼からわざと目を逸らしていても、ずっと視界の隅っこで目が合ってる気がした。

「美味しいよ。食べる?」
「いや、いいよ」
「食べてよ」

 まるで自分が作ったかのように勧めてくる王子に降参して口を開けると、ふわふわのあたたかいフレンチトーストが口の中に丁寧に突っ込まれる。メープルシロップが染み込んで、じゅわっと甘い。もうひと口食べたくなる美味しさ。私に食べさせると、彼は「どう?」とか感想も聞かずに、満足して残りを食べ始めた。

「王子」
「なに?」
「…もうひと口」

**

 1時間くらい喫茶店でうだうだ過ごして、店を出てもまだ空は明るいままだった。その後、単三電池買いたいとか言い出した王子に付き合って百均に寄ったり、馴染みの本屋で新刊コーナーを偵察して、外が薄暗くなってきた頃、ようやく帰路に着いた。相変わらず王子は「送るよ」とか言って当たり前のように着いてくる。

「王子って進路とか決めてるの?」
「今のところ、だいたいはね。君は?」
「今のところ、生き方しか決まってない」
「あはは、かっこいいなぁ」
「馬鹿にしてんじゃん」

 否定しない王子の脇腹を小突く。彼は楽しそうに笑って私の腕を掴み、自分の腕と組み直した。

「不安になる時間も大事だよ。ぼくも告白の返事ずっと焦らされてるし」

 なんか良いことを言ってる風だけど、まったく根拠がない。それに告白は断ったはずなんだけどな。

「逆に聞くけど、王子は私に恋愛とかできると思うの?」
「それは君次第じゃないかな。ぼくの意思は変わらない」
「あはは…中学の時に源氏物語って習わなかった?」
「さぁ。真面目に授業受けてなかったから」
「だろうね」

 王子の「好き」はかなり一方的なものだ。こちらに「はい」か「いいえ」の二択を迫るのではなく、「自分は一択だ」と宣言するようなその好意は、私の気持ちなんて本当はどうでもいいんじゃないのかと思わせる。王子は私を通して、何か別の夢を見てるのではないだろうか。期待されても応えられないから困る。顔を上げて彼を見れば、もっと困った風に笑われる。その表情は柔らかな優しさに満ちていたけど、根本には拭いきれない寂しさがあった。

「君と友達になりたいし、実は言うとその先も望んでる。でも、ぼくの勝手な思いだから負担に感じて欲しくはないんだ」

 吸い込まれるような瞳と、自分を全肯定してくれる言葉。王子の提案に乗ってしまえば、きっとこれからも不自由なく楽しくて、適度な刺激がある日々が続くのだろう。でも、安定した日々に心はドキドキしない。好きって言われたから好きになるなんてことは有り得ない。

「もうとっくに友達じゃん」

 それだけ言って腕を解いた。王子の前髪が風に揺れて乱れるけど、彼はわざわざ直さない。その下でこちらを見つめる瞳はゆるやかな弧を描く。

「何処までも真っ直ぐ、素直で、君は残酷だ」

 そんな感想を話半分に聞きながら、自由になった腕をぐっと後ろに伸ばして気まぐれにストレッチをする。私は私のためにしか生きられない。他の人の都合なんて知ったことか、と素で思ってる。他人のための嘘をつく人は、嘘つきよりもよっぽど嘘つきだ。綺麗な言葉の羅列を見ると虫唾が走る。だって、耳触りのいいことを言ってても、結局現実はみんな外見で判断する生き方が主流だ。黙ってたらいいようなことをSNSで簡単に言っちゃったり、実力よりも前に出る承認欲求のせいで色々勘違いしてる。そのわりに、出る杭は打たれて、擦り合わされ、擦り合わせて全員の個性が似てる時代。群れになって生きるくらいなら一人で自由になって死にたい。

「王子は面白いし、一緒にいて楽しい。でもお互いが譲り合ったり、合わせたりするのが“付き合う”ってことなら、私達の面白さが相殺してつまんないことになる気がする」

 後腐れのないようハッキリ思いを告げると、王子はふふっと小さく笑った。同意したのか、理解したのか、馬鹿にしてるのかはわからないけど、今の反応が彼の答えだと受け取っていい気がした。

**

「王子、日記返して」

 夏休み明け。登校して早速1ヶ月分のページが埋まった交換日記を取り立てに行けば、王子はノートをぎゅっと胸に抱いて引き渡しを拒んだ。

「え〜…これぼくに頂戴」
「駄目だよ、提出物だもん」
「え?」

 まさかの真実をさらっと聞かされ、一瞬怯んだ王子の手からサッと素早くノートを奪い取る。ヨタヨタ…と追いかけてきた手は、間も無く気力を失って机の上に墜落した。

「そんなの聞いてない…」
「言ったら書いてくれないかと思って」
「ひどい…二人だけの秘密だと思ってたのに…」
「あはは、そんなものないよ」

 明るく笑って受け流せば、王子は私の成績表のようにペタリと机に横たわった。ドクター、脈がありません。

「元気出して、返却されたら王子にあげるから」
「別に…全ページコピー取ってるし」

 す…拗ねてる。恐る恐る彼の前髪を捲って様子をうかがえば、下からご機嫌ナナメの視線が刺さる。

「王子」
「…なに」
「良い一日を」

 とりあえず一旦、この場から去ってみることにしよう。素早く身を翻して王子の元から離れると、ガタン!と背後で立ち上がる音。嫌な予感。

「王子、ストップ」
「君が止まれば?」

ジリ…と後退りする私と、前に進んで距離を詰める王子。私達の距離はプラマイゼロで、一定を保ったまま変化しない。このままでは埒があかないと思い、こちらから提案する。

「わかった。じゃあせーので止まろう」
「いいよ」
「はい、せーの!」

 と言って大人しく止まるわけは勿論無くて、合図と同時に私と王子はよーいドン!で走り出す。お互いに相手が裏切ることを信じていた。こんなことしたら絶対危ないのに、全速力で廊下を駆ける。今まで鬼ごっこする人たちを見て何が楽しいんだろうなんて思ってたけど、今日初めて校舎内を走ってみてわかった。廊下の端から端までは意外に短くて、学校は狭い。王子はめちゃくちゃ足が速い。

「つーかまえたっ」

 タイミングを見計らったように、人気の少ない階段の踊り場で後ろから捕まえられた。身長の高い彼に後ろからのしかかって体重をかけられると、もう動けない。

「ごめんって〜」
「なにが?」
「騙すようなことしたから…」
「君が言うことなら嘘でも信じるよ」
「めっちゃ拗ねてるじゃん!」
「ひどいな、本心なんだけど」

 耳元で話されてくすぐったい。勢いよくしゃがみ込んで王子の腕の中から巧みに脱け出す。少し距離をとって向き合ってみると…驚くべきことに、さっきまで私が手にしていた交換日記は王子の手の中にあった。マジシャンか!と思わず突っ込みたくなる。そして彼は当たり前みたいにニコリと笑ってこう言った。

「ぼくにも譲れないことはあるから。これは諦めてね」
「待ってよ、これのせいで私が留年したら王子どうする?」
「どうしよっか。一生背負って生きようか?」
「重い重い重い」

 結局、私は王子から交換日記を取り返すことは出来なかった。やっぱり宿題なんて真面目にやるもんじゃない。王子に関わるとろくなことにならない。思い通りにいかないことをこんなに目の前で教えて貰ったのは久しぶりだ。

 私のことを好きだとか言うわりに、彼はどんな時も自分を手放さない。そんなところが癪に触るし、面倒くさいし、手に余るけど…彼となら、超つまんないことでも「超つまんないね」って一緒に笑えるかもしれない。もしかしたらの話だけど。

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