見出し画像

ハッピーキャンパスライフ 7 【嵐山】


永遠の瞬間

朝、まだ夢を見ているような心地で起き上がる。
現実が夢の余韻みたいで、最近の私の浮かれ具合は凄まじい。1人のくせに朝から卵を焼いてレタスを切ってサンドウィッチ作って食べたりするくらいには重症だ。テレビで知ってる人の活躍が報じられるのを見ながら、トークルームを開いて夕方からの予定を確認した。

**

「君たちさては私のこと大好きだね?」

聞けば、副くんと佐補ちゃんは声を揃えて『そうでもないよ』と笑う。その悪戯に成功したみたいな笑顔、お兄ちゃんにそっくりだね…
どうやら近頃、2人の間では私にLINEを送りつけるのがブームとなっているようで。食べたものの写真を送ったり、道で出会った野良猫を見せびらかしたり、それはもう毎日楽しいやりとりを繰り返している。お兄ちゃんに対しては絶賛思春期モードの彼らが、私にこんな風に心を開いてくれているのは大変喜ばしいことだ。なので本日、お一人様一点までのトイレトペーパーの特売のため、招集に応じてドラッグストアに駆けつけた限界大学生、私。

「まぁいいよ。子供のうちは大人を存分に扱き使いなさい」
『大人ぶってるけどまだ大学生じゃん』
「世間では教習所に通ってる人は大人に分類されるの」
『行き始めたの先週からでしょ?』
「…2人とも、政治家になれるかもね」

口の減らない彼らに三門の未来を託したところで、店の中に入る。店内を歩き回って目当ての商品を捜索するのはお遣い部隊幹部である彼らに任せて、トイレトペーパー数稼ぎ部隊の私は無料の血圧計で血圧を測ることにした。
輪っかの中に腕を通してスタートボタンを押せば、たちまち内側が膨らんで、腕がぎゅううっと締め上げられる。血の巡りがここで止まるような感覚。なんとなく呼吸も止めて、空気が抜ける瞬間をじりじり待ち構えた。20秒もせずにピーという音が鳴り、結果の紙が横からにゅっと出てくる。最近は健康な生活を送っているためか、数値は至って正常だった。嵐山と関わるようになってから、確実に体の調子まで良くなっている。彼がお年寄りからも支持される理由、わかるな…

紙は記念に折り畳んでポケットの中に入れてから、頃合いを見て2人と合流する。トイレトペーパーを無事3袋確保して会計へ向かった。入店してから10分たらずで買い物を終わらせるとは、流石嵐山家のお遣い部隊幹部たち。よく訓練されている。
荷物持ちついでに彼らを家まで送ることにして、学校の話や最近バズってる動画の話をしながら嵐山家までの道のりを歩く。家の前で偶然嵐山のお母さんが植木に水やりをしていたから挨拶すると、丁度良かった、という顔で『おかず作りすぎたから呼ぼうかと思ってたの』と誘われ、そのまま夕飯をご馳走になる流れになった。

私と嵐山が恋人同士になったことがその日のうちにお互いの家族に知れ渡ったというあの伝説の1日から、もうすぐ1ヶ月が経とうとしている。嵐山家の皆さんや周りの人達が明るく迎え入れてくれるおかげで、私は前よりもこの家に来やすくなった。しかし、多忙な彼と過ごせる時間はやっぱりそんなには増えなくて。何なら彼より双子たちとの交流の方が遥かに多い気がする。今日の夕食時も嵐山は任務で不在。19時過ぎには帰ってくるだろうと聞いて、食後は双子たちとマリカをしながら彼の帰りを待った。ゲームをはじめてから30分ほど経った頃、ようやく玄関の扉が開く。

「ただいまー!」
『お邪魔しまぁす』

玄関から聞こえた彼の明るい声に続き、今日は知らない人の声までした。本当は出迎えるべきなんだろうけど、白熱してる勝負を途中で放棄するわけにもいかなくて、視線だけを扉の方に向ける。リビングに入ってきた彼は、真っ先に私を目で捉えた。

「おかえり。お邪魔してます…」

立ち上がって必死にコントローラーを握ってるところを見られて、ちょっと気まずい。嵐山は「ただいま」と綿菓子みたいに甘く微笑んで近寄ってきた。全部顔に出てる。弟妹に散々いじり倒されるわけだ。
しかし嵐山は私の元に辿り着くまでにコロちゃんに行く手を阻まれ、お母さんにも『まず手洗いうがい!』と注意され、しゅん…と眉を下げながら道中で諦めて洗面所へと向かっていた。そんな彼を笑っているうちに、私は副くんに1位の座を奪われてしまった。無念…でも今日は嵐山に会えたので気持ち的には私の優勝である。

『迅くんいらっしゃい。久しぶりね』
『お久しぶりです〜この前は差し入れありがとうございました。これ、葡萄持ってきたので良かったらみんなで食べてください』
『もー!気にしなくていいのに。ありがとうね』

嵐山と一緒に帰ってきたジンという青年は、嵐山のお母さんに貢ぎ物を渡して、随分打ち解けた感じで話していた。ゲームにひと段落ついた副くんと佐補ちゃんも彼の元に近寄って、葡萄の箱を受け取ってはしゃいでいる。きっと彼もよく来るのだろう。私みたいに入り浸ってるわけではなさそうだけど…
なんとなくソファーのところに取り残されたまま、外野として様子を眺めていると、視線に気付いたのかジンと目が合って、反射的に会釈をする。こちらの人見知り具合は多分バレバレで、彼は距離を保ったままその場でペコリと会釈を返してくれた。
出方を伺っているうちに、嵐山が洗面所から戻ってきた。彼はジンがくれた葡萄の大きさに感動している家族も、構ってくれと忙しなくうろつくコロちゃんも素通りして、真っ直ぐ私の元に来る。

「副と佐補に呼ばれた?」
「あー、まぁそんな感じ。流石にちょっと来すぎかな?」
「ううん、もう毎日来てくれ」
「そしたらここが私のアナザースカイになっちゃう」

大袈裟なことを言う彼に乗っかってふざけてみる。顔を合わせて笑う私たちは、何を隠そう仲良し2人組。

「今日のご飯何だった?」
「からあげ。美味しかったよ」

「そっか」と短く笑い、彼が私の手の上に自分の手を置いた。なんとなく黙ってもう一度しっかり目を合わせると、またもや2人して同じタイミングで笑う。バカップルかもしれない。

「俺の友達、紹介してもいいか?」
「うん」

嵐山に手を引かれてジンの元まで辿り着く。近付いてみるとジンは、何だか見るからに嵐山の友達って感じがした。

「こいつは迅。ボーダーの仲間で、俺の昔からの友達だ」
『初めまして〜俺が噂の嵐山の親友、迅悠一です』

噂なんてしてなかったけど。と心の中で突っ込んで、軽快に笑うジンに私も軽く自己紹介を返す。彼は腕を組んでうんうん頷きながら、私と嵐山を交互に見た。

『いや〜改めておめでとう、2人とも。丸く収まって本当に良かった。先月の嵐山にはとにかく手を焼いたからね』

バシバシと男友達の強さで嵐山の背中を叩きながら、ジンはからかうように笑った。嵐山が勘弁してくれという風に眉を下げて恥ずかしそうに笑う。
先月というのは、私と彼の関係が上手くいってなかった時のことを指すのだろう。きっと私を支えてくれた友人がいたように、彼にも彼を支えてくれた友人がいたんだ。それはなんだか、私にとっても素敵で有難いことのように思った。私たちに今があるのは、決して2人だけの努力が生んだ結果ではない。

「ジンくん、ありがとう」
『いえいえ、どういたしまして』
「良かったらまた今度、准くんがどんな感じになってたのかこっそり教えてね」

冗談半分、本気半分で申し出ると、嵐山は必死の形相で「絶対だめだ!」と言い、ジンはあははっと声をあげて笑った。そんな調子で少しだけ話をして、時計の針が20時ぴったりを指した頃。ジンがさりげなく会話に区切りをつけて、つま先を玄関の方に向ける。

『じゃあ、俺はそろそろ帰るね』
「あ、私も」

便乗して帰る準備を始めた私の手を嵐山がそっと追いかけた。どうしたの?と首を傾げると、送ります。の意なのかニコリと微笑んで手を握られる。いつものことながら所作が優しすぎる…

帰り道はジンとは別の方向で、私と嵐山は手を繋いだまま涼しい夜道をゆっくり歩いた。50m6秒で走れそうな彼がこんなに遅く歩くのが何だかいじらしく、愛おしかった。
歩きながら、私は副くんが送ってくれた空の写真が綺麗だったことや、佐補ちゃんが教えてくれた美味しいジュースのお店のことを彼に話した。今日、2人と一緒にドラッグストアに行ったことも教えると、「いつも2人のワガママ聞いてくれてありがとう」なんてお兄ちゃんらしくお礼を言われる。「ワガママ大好き」って私が笑うと、彼もニコニコで口元を緩ませた。

話が尽きたタイミングで少しの沈黙が訪れる。嵐山は繋いだ手に視線を落としていた。瞳の中の雰囲気がどこか物憂げに見えて、何を考えてるのか教えてほしかった。

「神様お願いです〜私に准くんの心の呟きが聞こえるようにして!」

天を仰いで少しふざけてみると、彼はふふっと面白そうに笑った。それから愛しげに目を細める。表情の柔らかい人だ。

「玄関に君の靴があると、疲れを忘れるなぁ〜って…准くんは言ってます」

ぽつり。彼が落とした言葉を、地面に着く前にすかさずキャッチする。そんな可愛いことを考えていたのか…!神様グッジョブ。

「すごいね。私の靴常に置いておこうかな」
「はは、本人がいないとガッカリすると思うよ」

それもそうだねと心の中だけで返事して、それきり口をぎゅっと結んだ。嬉しい。好き。感情が溢れて止まらない。浮かれて、馬鹿になっているとわかっていても、止められそうになかった。
私の方に少し体重を傾けて、嵐山はゆっくり息を吐くように、「いいなぁ…」と呟く。

「ん?」
「副と佐補。俺だって君と一緒に、色んなところに行きたいのに…」

こちらをじっと見つめる瞳はいつもと少し違って、拗ねてますよってアピールしてるみたいだった。

「もしかしてそれは…ヤキモチ?」
「うん、ヤキモチ」

そんなにすぐ肯定するものなんだ…さすが嵐山准、いつだって予想を飛び越えてくる男。ヤキモチなんて、彼が他の人の前では絶対に言わない言葉だった。彼からそれほどの感情を向けられているということが、足取りが軽くなるほど嬉しい。喜びのあまりくるくる回りだしてもおかしくなかった。恋をしたせいで私の頭の中はちょっとおかしくなっていた。

「行きたい場所全部に行こう。私は准くんと一緒なら何処にだって行くよ」
「…じゃあ俺が行きたいって言えば、今からレイトショー観に行ってくれる?」

彼は私の顔をじっと見つめながらお願いするように聞いた。驚いて、一瞬返事が遅れる。…いや、まさかまだ覚えてくれてたなんて思わなくて。

「そりゃあ、勿論」
「えー、本当か?」
「本当だよ。証明する。今すぐ行こう!行きたくなった!」

急いで回れ右して、自宅に向いてたつま先を駅の方角に向ける。彼は楽しそうに笑って真似をした。

「明日休み?」
「うん」
「俺も〜」

よし!と勢いだけで出発したものの、彼はすぐに「あ」と立ち止まる。それから携帯を取り出して、私の親にまず連絡を入れてくれた。こんな時、まったく照れたりしないのが流石嵐山准。いつの間に私の親と連絡先を交換したんだ嵐山准…
『必ず送り届けます』なんて大真面目な態度で言う彼にムードとか1ミリもなかったけど、繋いだままの手は世界で一番暖かいと思った。

上映スケジュールも調べないまま、駅前の映画館まで2人で歩いた。幸運なことに21時からの最終上映がまだ残っていて、上映開始時刻とほぼ同時にスクリーンに滑り込んだ。ポップコーンの匂いがする劇場内は、昼間とは違い人が少なくて、後ろの方の席に座っても同じ列には私と嵐山しかいなかった。もしかしたら、こんなに人がいないのは一度も聞いたことのない映画だったからかもしれない。
上映が始まると、私たちは映画の世界に自らの身体を落としこむように入り込んだ。一言も話さなかったし、目配せすらしなかった。繋いだままのお互いの手だけが、現実世界に戻ってくるための目印のようだった。

エンドロールが最後まで流れきって、劇場内に明かりがつくとと、私と嵐山は顔を見合わせた。元から少なかったお客さんは全員エンドロールが終わるまでに出てしまって、私たち以外は誰もいなくなっていた。貸切の映画館なんて大富豪にならないと味わえないと思っていたのに、庶民にも可能性があるドリームだったとは…。

「ドキドキした」
「うん。私も」
「今もドキドキしてる」
「一緒だね」

2人で意味もなくけらけら笑ってたら、スタッフの人がちょっと申し訳なさそうに入ってきたのが見えて、スッと姿勢良く同時に立ち上がった。それで私たちはまたくすくす笑いながら、手を繋いで劇場を出た。

23時を過ぎた住宅街に人の気配はまったく無かった。こんな夜道を、私は1人で歩くことが多かった。世界と自分を切り離して、ただ無心に明けるのを待っていた夜。誰と一緒に過ごしても一人だった心に、今は彼がいる。できることならもうずっと、この手を離したくないなぁなんて思う。

「准くん」
「ん?」
「私のこと見つけてくれてありがとー」

気付いてあげられずに何処かへと流れてしまった彼の気持ちを、今からでも全部拾い集めたい。彼がいつも何を頑張っているのか詳しく知ることすらできないけど、応援したい。

嵐山は嬉しそうに笑う顔を片手で隠しながら、「…こちらこそ」っていつもより小さな声で言った。面白い反応だったから、同じポーズをとってからかう。
そんな風にいつまでもへらへら笑っている私を見て、彼は少し困ったように息をついた。

「俺が君をどれだけ好きか、わからせたいよ…」

その時合った視線がいつもより熱くて、血圧計に腕を突っ込んだ時みたいに、一瞬呼吸が止まった。

「…私も、わかってあげたい」

2秒くらい、黙ったまま見つめ合う。先に視線を流したのは彼の方だった。

「……あ"〜〜もう…俺どうして『必ず送り届けます』なんて言ったんだろう……」

項垂れて後悔する姿は全然頼もしくなくて、逆にちょっと可愛いと思う。

「あははっ、あの時の准くんは世界一かっこよかったなぁ〜」
「絶対からかって言ってるだろ……ちゃんとした彼氏だって思われたくて必死だよ俺は…」

嵐山准が拗ねるという貴重すぎる瞬間。出来ることならこの瞬間をジップロックに入れて保存したい。

「ありのままでもう世界一素敵なのに、さらにその上を目指してくれるんだね」
「もう…口説いてるのか?」
「本心だよ」
「う…嬉しい…」

正直すぎて可愛い。面白くて笑っていると、彼は電柱の手前で突然ピタリと足を止めた。
繋いでた手がふと離れて、彼の腕が私の肩にかかる。額が優しくぶつかり、睫毛が当たりそうなくらい近い距離になった。私も彼の腰のあたりにゆるく腕を回す。あとひとつ角を曲がれば家に着くというのに、離れたくない気持ちが強まる。耳元で名前を呼ばれて、私も心の中で彼を呼んだ。

「不思議だよな…一緒にいれば、なんだって出来る気がするんだ」

一人じゃなくて、一緒に、って思ってくれてることが嬉しかった。貴方のためならなんだってしてやろうと思う。私がアジフライを分けたり、手作りで餃子を作る日があるとしたら、それはきっと彼のため。

「俺のこと好きになってくれてありがとう」

とびきり幸せな声で、嵐山は囁く。こんな風に彼を好きになったのはいつからだろう。もうこの人以外考えられない。全てにおいて彼が優先順位のトップに君臨している。焼きたてのベビーカステラを食べることよりも上位。私食い意地張り過ぎ。

「大好きだよ」

間近で、熱い視線が絡む。あ、と思った時。唇が静かに触れ合った。それは彼の優しさが温度になって、身体に溶けていくみたいなキスだった。
彼は私の名前を大切そうに呼びながら、キスを繰り返す。路上でこんなことするなんて正気じゃないけど、私たちにとっては、この角を曲がって今日を終わらせてしまうことさえ寂しかった。自分から離れるなんて、出来るわけがない。

「…准くん、准くん」

名前を呼べば彼が私を一層強く抱き締めて、無言で返事をした。

「同じ気持ちだね」

私たち、身長も性格も何もかも違うけど、合同条件満たしてる。だって抱き締めたらぴったりくっついたんだ。
顔を上げて彼を覗き込むと、耐えるようにぎゅっと眉を寄せて口を結んでいた。あぁ、君って奴は本当に…全部顔に出ていて愛しい。

「…離れたくない」
「…ね。どうしようか。准くんも私の家に帰る?」
「…え?」
「どうせ今日、両親2人とも出張でいないし」
「いやいや、約束は守らないと…」
「『送り届けます』とは言ってたけど、『俺はその後大人しく帰ります』とは言ってなかった」

鋭い指摘を聞いて、なるほど…と瞬きをする准くん。でも意志が強い人だからすぐに我に返って首をブンブン横に振った。

「でも、やっぱり駄目。男の俺が勝手に泊まるなんて、きっと親御さんは不安に思うだろ」
「准くん、私のワガママ聞いてくれないの」
「煽らないで……俺、本当に帰れなくなる」
「帰らないで。私の部屋で一晩中神経衰弱しよう」
「はは、それはそれでキツそうだな…」

押しまくると手応えがあったから、もう少しだけ粘ってみたかった。一緒にいられるなら本当に、寝ずにトランプをしたって良いんだ。

「何かあっても私のせいにしていいから…お願い。少しでも長く一緒にいたい」

困らせるってわかってたけど、今は彼を困らせないことよりも、彼と一緒にいることの方が大事だった。

「…君のせいには、しない」

腕を解かれると、私の手は彼を追いかけることができずに落ちてしまう。あ…と視線まで落ちそうになった時、ふわりと身体ごと持ち上げられた。

「これは、我慢できなかった俺が全部悪いから…」

責任を全て負うよと言うように、彼は眉を下げて笑う。

「准くん〜!大好き!」

彼は私をお姫様抱っこしたまま、私の家に向かって歩き出す。あまりにも嬉しくて、首に手を回して抱き着いた。勢いづいてちょっと苦しくしてしまったかもしれないけど、彼は笑って許してくれた。あんなに怖かった曲がり角も、一緒なら簡単に曲がれるね。

家の前まで来て、降りやすいように手を解いた。でも彼はじっと見ているだけで、動かない。

「准くん、そろそろ降ろそうか」
「いや、離したくない…」

優しく諭してみても、頑なに私を抱きかかえたまま熱い視線を送ってくる。…なんか急に緊張して変な汗かいてきた。なんなんだこの人。

「でも、鍵開けないと」
「抱っこしたまま開けよう」
「馬鹿なのかな」

無茶な提案は受け入れず、ジタジタ暴れて半ば強引に降ろして貰った。仕方なさそうに私を地面へそっと着地させると、准くんはすぐさま後ろにぴったりくっついてお腹に手を回してくる。

「すごいね准くん…」
「ん?」

…いちいち突っ込んでいたらキリがないから、構わずに鍵を回して扉を開けた。まぁ…満更でもないというわけ。

真っ暗な玄関に、2人分の「ただいま」の声が響く。
いつも通り「おかえり」は返ってこなかったけど、しつこいくらいにひっついてくる彼のおかげで、もう全然怖くなかった。

支えてもらってばかりだと思っていた自分が、いつの間にかこんなにも彼の支えになっていたことに、今になってようやく気が付く。
嵐山准は皆を守る街のヒーローで、私はドラッグストアで血圧測ってるような暇な一般人。でも、私たち支え合って生きてる。

彼は大切なものを愛でるように私の名前を口にする。微笑んで、抱き寄せて、優しいキスをする。ヒーローが、こんなに幸せそうに笑える世界で本当に良かった。

長い1日、長い夜、その間に起こるほんの一瞬の出来事。でも、2人にとって永遠の瞬間。

これから私は彼のことをもっと大好きになっていくのだろう。隣にいることが当たり前になっても、何かの間違いで繋いだ手が離れてしまうことがあったとしても、こんな幸せな日々を重ねて生きてきたってことは、ずっと忘れず覚えていよう。




君の心に触れたい

胸がいっぱいになるほど、大好きな人がいる。

「おはよう」
「あ、嵐山だ。おはよ〜」

想っているだけで充分だという考えと、もっと仲良くなりたい気持ちとがぶつかって、谷の底に落ちる。その時、自分の身体まで落とさないように踏み留まると、言うべき言葉が見えなくなった。
二人になるとよく黙りこんでしまう俺に、彼女はいつもさりげない話題を持ちかけて、絡まった心の糸を丁寧に解いてくれる。春に出会ってから、夏にかけて気持ちが募った。俺たちはたまに大学で会って心地良く話す程度の仲で、近付いたり遠くなったりを延々と繰り返していた。
そんな彼女から「大学をやめることになるかもしれない」と聞いたのは、秋の初めのことだった。

「…なんていうか…ほんとに、ごめん」
「謝らなくていい」

夕方のドン・キホーテの裏で、植え込みの縁に腰掛けて話した。彼女は俯いて目を合わせない。いつも緊張を優しく解いてくれたあの微笑みは今はもう消えて、カフェオレの缶に添えられた指先が小さく震えていた。
これまで彼女が自身をすり減らしてまで周りの人に配った気遣いや笑顔で、俺は何も気付かずに喜んでいたことを思い知る。
きっと彼女の夜は、他人の想像が及ばないほど深い谷の底にある。申し訳なさそうに謝る姿を見て、胸が潰れそうに痛んだ。

「晩御飯、一緒に食べよう」

俺の痛みと彼女の痛みは同じではないから、かけるべき正しい言葉なんて見つかるわけがない。ただ、このまま解散すればもう二度と会えなくなるような気がして、返事も待たずに手を引いた。

---

1人でも平気だと自分に言い聞かせながら、夕焼け空が暗くなっていくのを見ていた。楽しげな笑い声がするテレビのバラエティー番組も、発展途上国の子供達へ寄付を募るCMも、仲間外れにされてるような気がして嫌いだった。
参観の親子レクリエーションはいつも先生とペアだし、運動会の日も1人だけコンビニのおにぎりを食べていて惨めになる。涙の代わりに地面に落ちた冷たい米粒を誰かが上履きで踏んづける。そこにある心とは他人のふりをして、気持ちを遠くに追いやるしか、平気で立ち続ける方法が無かった。もし運良く居場所を見つけたとしてもそれは所詮自由席で、指定席ではない。ずっと、本当の居場所が何処にもないような気がしていた。

一年前期の単位をほとんど落として、粘って留年するくらいならいっそのこと辞めてしまおうかと考えていた頃。いつのまにか仲良くなっていた同級生の男の子と街で偶然会って、気まぐれに自分のことを話した。悲しい顔、苦しい顔、心を痛めた顔。経験があるからどんな顔されても平気でいられる自信があった。同情される方が返って冷静でいられたのかもしれない。でも、彼は最後まで少しも表情を崩さずに、ただ黙って話を聞くだけだった。私の内面を見つめようとするみたいに真面目な顔で。聞こえのいい言葉を選んで話しても、返ってくる相槌は重く、真剣なものだった。
誰かが私に対して、こんな風に本気になってくれたことは今まであっただろうか。人と深く付き合うことが得意じゃない私は、結局いつも目の前にいる人を鏡のように使い、反射する自分のことだけを見ていた。そうやって自分を客観視して感情的にならないことが自己防衛の策でもあった。
しかし、無防備に真っ直ぐ見つめてくれる彼に比べると、こんな臆病なことをしてる自分が愚かに感じる。途端に彼を巻き込んでしまうことが怖いとも感じて、拒否反応で突然溢れ出た感情の扱い方に戸惑った。私は生きることに対してつくづく不器用だ。

「本当に、行ってもいいの」
「俺に任せて」
「…うん」

頷いたけど、不安しか無かった。
断ることもできないままに上がり込んだ家の玄関で、おかえりという声に迎えられる。それが自分に向けられたものではないとわかっていたから、私は顔を上げることさえ出来ないまま、力の抜けたお邪魔しますの一言。
本当は今すぐここから居なくなりたかった。けれど、嵐山が私の背中に手を添えて、優しい声で「顔上げて」って促すのだ。恐れを中和するような温もりに動かされて、ゆっくりと顔を上げる。
目が合うと、彼の家族は『いらっしゃい』と柔らかく微笑んだ。部屋の中は知ってるようで感じたことのない、オレンジ色の正体不明の光のようなものに満ちていた。

誰かの家に行って、惨めな気持ちにならなかったのは初めてだった。

私みたいな女が突然家の敷居を跨いでも、この家の人たちは嫌な顔を一切せず、当たり前のように暖かいご飯をお茶碗によそってくれる。 

たったそれだけのことだけど、私にとってそれは、かぼちゃの馬車やマッチの明かりの中に見る光景よりも欲しいものだった。いつしか期待することすら諦めて、夢にしてしまった話。とうの昔に捨ててしまった心を彼が拾って、渡してくれたような気がした。



きらきらハッピーデー

午後5時。金色のシャワーが降り注ぐ街を、自転車に乗って走り抜ける。水溜まりが鏡みたいに夕焼けの空を反射して煌めく。まるで地球全体が私の恋人の誕生日を祝福しているような景色だった。
予約してた4号のケーキを受け取って家に戻ると、10分前に受信した彼からの退勤メッセージに気が付く。誕生日だからと言って休みが貰えるわけもなく、今日も彼は朝から忙しい一日を送っていた。もしかしたら、誕生日特典でいつもより忙しかったかもしれない。でもきっとたくさんの人から祝福されただろう。彼が帰ったらそんな今日の話を、気が遠くなるまで聞きたい。
20分程経過して、インターホンが鳴った。鍵を出すのが億劫になるほど、両手に抱えきれない量のプレゼントを貰ってきたと見受けられる。モニターに映る彼を一応確認してから玄関の扉を開けた。やっぱり大きな紙袋を両手に4つも引っ提げて、嵐山准は私が暮らす家に帰ってきた。

「おかえり」

陽の光が一緒に入ってきて、眩しくなって目を細める。彼が持ち手を離すと、紙袋は形を保ったまま地面に落ちてドサリと重たそうな音がした。

「ただいま」

後ろで扉が閉まると、鍵を閉めるよりも先に彼が私を抱き寄せる。私たちはそのままお互いの隙間を埋めるように力いっぱい抱き締め合った。いつまでもバカップルだ。

それから2人で美味しく楽しく愉快にご馳走とケーキを食べて、彼に今日の話を聞いて、お風呂にも入って、今はもう毛布の中。まだ眠くないから顔を寄せ合って、ぐだぐだと話をしていた。

「来月ね、2人と一緒にフリーマーケット行こうって…楽しみにしてるの」
「うん、行っておいで。きっと喜ぶよ。副と佐補は君が大好きだから」
「ふふ、照れ〜」

嬉しくなって抱き着くと、一層強い力でぎゅうっと抱き締められた。世界一幸せな圧迫。

「でも…君のこと一番好きなのは、俺だよ」

耳元で彼が囁く。て、照れ〜〜〜!弟妹にジェラってる准くんめっかわすぎる…語彙力を枯らしていると、彼はちょっと身体を離して私の顔を覗き込んだ。

「わかってる…?」
「もちろん」
「笑ってる?」
「その通りだよ」
「…可愛いなぁもう〜〜」

拗ねるかと思ったけど、何かが彼のツボを刺激してしまい頬や瞼、顔中にキスが降ってくる。くすぐったくて逃げようとすれば、輪郭に手を添えて巧みに阻止された。

「ふふ、捕まえた」

つ、捕まった……





目を覚ましても、なかなか夢から抜け出せない時がある。さっきまで隣にいたはずの彼は、今はベッドサイドにしゃがみこみ、私の手を大事そうに撫でている。わざわざベッドから抜け出して、何してるんだろうこの人…

「准くん…?」

仰向きからくるりと横向きになり、怪しい行動をとる准くんをじっと見つめる。すると彼はより一層愛しそうに目を細め、私の頬に手を添えた。

「今から、ちょっと話そう?」

顔を下から覗き込んで首を傾げる私の恋人。その表情がひたすらに甘くて優しいものだから、応えるために重い身体をゆっくり起こした。彼は素早く立ち上がり、背中を支えながら後ろにクッションを置いてくれる。私は彼のこういう行動をスーパー介護と名付けている。…勿論呼んでいるのは心の中でだけだ。
朝日がカーテンの隙間から差し込んで、ベッドシーツを照らしていた。彼は知らずにそれを遮ってベッドに腰掛けたから、光を顔に浴びて眩しそうに目を細める。可愛いな…といちいち感想を抱きながら、話が始まるのを待った。
毛布の下から丁寧に私の両手を取り出し、彼は自分の手でそっと包む。彼はいつも、不安な時に手を取ってくれた。もしかしたらそれは私のためだけじゃなかったのかもしれないって、そんなことにも気付くようになってきた。

「…恋人になれたこと、今でもたまに、夢みたいだなって思うんだ」

たまに超人になる彼が、一般人に戻る瞬間。君も私と同じで、優しすぎる現実のことを夢みたいって思っちゃうタイプなんだね。

「幸せなことでも長く続けば、だんだん当たり前になっていくのが普通だろう?…だけど俺はその度に、自分はいつまで君の傍にいられるんだろうって、考えてた」

どんなに離れたくないと思っても、時間は止められない。私たちは同じ人間にはなれなくて、せっかく大切にしてたものでも急に無くしてしまったりする。どんなに頑張っても、最後は全部失ってしまう。ここが、夢の中じゃなくて現実だから。

「一人で、不安にならないで」

死とか孤独とか、今はまだ目を背けているだけで、嘘じゃないことを知ってる。だから、大丈夫だよなんて口先だけで慰め合っても本当は全然大丈夫なんかじゃないんだ。ただ、傍にいて証明するしかなかった。温もりが伝わるように指を絡めると、彼も同じようにする。

「…一瞬でも長く傍にいたい。お互いまだ学生だし、世間的には早いって思われるかもしれないけど…俺は今すぐにでも、って思ってる」

これから言われそうなことをちょっと察してしまい、火がついたように熱くなる。顔を隠したくて、繋いだ手を離そうとするけど、それは彼が許さなかった。

「それって…えっと……あの…もしかして、」

「うん。…俺と、結婚して」

…きっと、今の准くんは世界で一番素敵な顔をしてる。でも、涙でぼやけて見えなかった。
頭の中の辞書が燃えてしまったかのように何も言葉が出なくなって、代わりに何度も必死に頷く。

どこにも居場所を作れなくて、臆病で、諦めてばかりだったこんな私に…生まれてきて良かったんだと、そう心から思わせてくれたのは、彼だった。彼だけだった。

「する……!…したいっ!」

涙でぐちゃぐちゃの私を彼が抱きとめる。もう絶対に離さないつもりで繋いだ手に力をこめた。

「准くん愛してる…」
「あ、俺から言おうとしてたのに」
「言ってもいいよ」
「愛してる」
「ふふ…」
「今のは言わされた感あったけど、違うからな。本当に愛してるよ」
「どうしよう、幸せでにやけちゃう…心臓うるさいし」
「…俺も、起きてから心の準備に2時間かかった」
「爆睡しちゃってごめんなさい」
「いや…むしろ寝顔に癒されました。ありがとう」

2人で幸せを噛み締める。…こんなハッピーな朝があるなら毎日早起きする。
彼と迎えた朝は夏休み初日のような、果てしない希望の光に満ち溢れていた。本当に、2人なら何だって出来る気がしたんだ。
体温が同じになっていくのを感じながら目を閉じる。これは長い夜を越えてでも、抱き締めたかった温もり。互いを想い合いながら積み重ねた、気持ちと時間の話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?