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ハッピーキャンパスライフ 4 【嵐山】

6限の授業が被って、その後にお互いに予定が無い日。そういう日は決まって嵐山家に招かれて一緒に晩御飯を食べた。
あの家の固定電話のすぐ傍には私の携帯の番号が書かれた付箋が貼られている。それは嵐山准以外の家族の為にわざわざ掲示されているもので、電話がかかってきたことは今までに3度ある。兄に内緒で宿題を見てほしいという双子からの呼び出し。お土産をあげた日の夜にかかってきた嵐山母からのお礼の電話。嵐山家からの帰宅途中で忘れ物を知らせる連絡。そして4度目が今日。聞き覚えのない女の子の声で、『3人しかいないのに間違えてカレーを10人分作っちゃったから今から来なさい!』
まさに夕食を作っているタイミングでのお誘いで戸惑ったけど、電話口の声に緊迫したような色を感じたから、ぐつぐつ煮込んでいたトマトスープの火を止めて「はい」と返事をしたのだった。

**

自転車をゆっくり漕いで20分。私の家から近くも遠くもない距離にある嵐山家のインターホンを押して、真っ先に玄関から出てきたのはお初にお目にかかる女の子だった。直感だけど、きっとこの子が電話をかけてきた子だ。彼女は私を見て明るい表情を浮かべる。

『いらっしゃい!貴方が噂の子ね、あたしは准の従姉妹の小南桐絵!』

初対面の私にも人見知りすることなく、『まぁとりあえず入りなさい!』とお嬢様のような口調で丁寧な対応をする桐絵さん。彼女を取り巻くキラキラオーラから嵐山との確かな血の繋がりを確認。
玄関で彼女に向けて挨拶と簡単な自己紹介をしていると、リビングに繋がる部屋の戸が少し開いて佐補ちゃんと副くんが顔を出した。

『こんにちは』
『いらっしゃい!入って入って!』

今日もエネルギッシュな笑顔が眩しい双子は制服姿の桐絵さんとは違い、部屋着の上にエプロンを着用している。お料理中だろうか。手を振った私を確認すると、2人は戸を開けたまま中に引っ込んだ。忙しそうに動き回る足音と声が聞こえてくる。
すぐさま家に上がって副&佐補セラピーを補給したいところだけど、1人の大人として家に上がる前にまずやることがある。いつもあるはずの他の家族の靴がないことと、電話で聞いた“3人しかいない”という言葉をヒントにこの状況を整理してみよう。

「今日はどうして3人なの?」
『准の両親がおばあちゃんと温泉旅行に行ったの。准は1時間くらい前に突然任務が入って飛び出して行ったわ』

そこでこのあたしが2人のお守りを任されたってワケ!と、誇らしく胸を張る桐絵さん。なんだなんだ、いちいち愛らしいなこの子。

「なるほどね。でも大人がいない時に私が勝手に家上がるのまずくない?」
『勿論、先に准のお母さんの了承を得てから呼んだのよ。貴方なら大歓迎だって言ってたわ』
「そっか。お気遣いありがとう、桐絵さん。しっかりしてるんだね」
『まぁね!』

桐絵さんは褒め言葉を素直に受け取ってくれた。こういう真っ直ぐなところが嵐山兄妹と似ている。

「そうだ、フルーツゼリー買ってきたから後でみんなで食べよう」
『あんたも中々やるわね…!』

どうやら手土産がお気に召したようで、彼女は私の手からフルーツゼリーの入った袋を預かるとパタパタとスリッパで足音をたてて冷蔵庫まで駆けて行った。なかなかの機動力。

「お邪魔します」

後に続いてリビングに入ると、もう既に部屋の中には美味しいカレーの匂いが漂っていた。家全体がファミリーの一部って感じ。

『久しぶりだね!』
「ご無沙汰してま〜す。2人とも元気にしてた?」
『超元気!』

キッチンから元気に手を振ってくれた佐補ちゃんと、彼女の隣でペコリと会釈する副くんを微笑ましげに見ているとコロちゃんがフスフスと息を荒げて足元に寄ってきた。

「コロちゃんもお久〜〜オ〜よちよち、可愛いね〜〜」

コロちゃんの耳の裏や首のあたりをヨスヨス撫でたりしてしばしの間戯れる。臨時アニマルセラピー。飼い主に似て人懐っこくて愛らしいドッグだ。このまま永久モフモフをキメたいところだけど、いくら客とはいえ年下に全て準備させるわけにはいかない。コロちゃんに一旦別れを告げてとりあえずキッチン周辺をウロチョロしてみる。
キッチンには給食の大おかずくらいの大きさの鍋があり、中にカレーが溢れんばかり入っている。これをこの子達だけで作ったと思うと異様でちょっと笑いそうになった。

『お腹空いてる?』
「もうペコペコ〜」
『あとちょっとでご飯炊けるから待っててね』

中学生にしてもうお母さんの台詞。私は大学生だけど恥を捨てて「は〜い」と小学生の返事をした。ご飯時にプライドはいらない。

「ていうか何を間違って10人分も作ったの?」
『桐絵が前に作った時の分量で作ったらこうなった』

聞けば副くんが呆れ顔で教えてくれた。桐絵さんは相撲部のマネージャーでもしてるのかな。どちらにせよおっちょこちょいなのだろう。普通の人は野菜切ってる時に気付く。

「まぁこういうのはたくさん作ったほうが美味しくなるって言うもんね」
『そ、そうよ!味は美味しいんだから!』

気の毒に思って助け舟を出せば、彼女は一目散に乗船した。きっと明日はカレーうどんなんだろうな…明後日はカレー蕎麦かもしれない。嵐山家のこの先3日分くらいの献立を予想しているうちにご飯が炊けた。

副くんが炊き立てのほかほかご飯をお皿に盛り付け、その横に桐絵さんがカレーを流し込む。野菜も必要だと主張する佐補ちゃんのおかげでミニサラダも用意された。私はコップとお茶の準備という地味作業を手伝って、全ての準備が整い次第初メン4人でいただきます、と手を合わせて食卓を囲む。

「美味しい!」
『うん、美味しいね』
『味は確かだ』
『でしょ!?』

桐絵さんの10人前カレーはフルーツの風味を感じる、どこか懐かしい感じの味がした。素直に感想を伝えると彼女はとても満足そうに笑ってくれて、その笑顔を見れただけで来た価値があったなぁと思う。
カレーを食べ終えると勢いに任せてフルーツゼリーも食べ、食事を終えた私達4人はキッチンで駄弁りながら皿洗いや片付けを行った。

『ねぇ、後で一緒にマリカしようよ』

食卓を元の綺麗な状態に戻した頃、時刻は19時半になろうとしていた。今日は金曜日だけど私は明日も授業があるし、何より両親が不在の時にあまり長居するものでもない。
でも、さっき桐絵さんが携帯を見て『准、今日は朝方まで帰って来れないそうよ』と2人に言ったことが心に引っかかって、すぐに「帰るよ」とは言えなかった。

「いいよ、やろうか」

私の返事を聞いて、双子の表情がパッと明るくなる。そんなあからさまな反応されたらこっちが照れるんですけど。

それから運転免許を持っていない4人で時を忘れてバイクや車をブンブン乗り回し、ぎゃあぎゃあ騒ぎながらレースで首位を競い合った。

「もう無理〜〜ちょっと休憩させて…」
『ちょっ!アンタ何弱気なこと言ってんのよ!』
「桐絵さん頼んだ〜」

2人ずつの交代制と言えど、1時間半ぶっ続けで画面に集中していたせいで目がおかしくなってきた。レース半ばで見切りをつけて休憩中の桐絵さんにコントローラーを渡すと、彼女は慌ててそれを受け取った。

ソファーの背もたれに身体を預けて休息をとる。若いってすごいな…私もつい最近まであっち側にいたはずなのに。可笑しいな、時の流れ…ほんのりと老いを感じていると、佐補ちゃんが冷蔵庫からジュースを持って戻ってきて、そのままストンと隣に腰を落ち着けた。

『ずっと思ってたんだけど…』

彼氏とかいないの?

中学生の女の子が紙パックにストローを刺しながら聞いた何気ないことは、グサリと私の痛いところも突き刺した。
ハハハ、聞くまでもないでしょうよ。当方金曜の夜に誘ってもホイホイ出てくる女だからね…しかし、今日は苦笑いだけでは逃してくれないらしい。
佐補ちゃんは基本的に元気で可愛らしいけど、周りのことによく気が付くしっかり者だ。常にピンと伸びている背筋や、慣れた手つきでテーブルを拭く姿なんてまるで大人のようで、自分の中学時代と比べてみると育ちの違いに天と地ほどの差を感じる。彼女のような女の子はさぞおモテになるのだろう…少なくともさらっと恋愛の話題を振れるくらいには。

「いませんね…」

視界に入るだろうと思い大袈裟に肩を落としてみせる。これ以上聞いてくれるなというアピールだったのに、こちらに目を向けることもなくテレビ画面をじっと見つめながら次の質問を投げられる。

「いたことはある?」
「ん…まぁ」

誰か助けてくれ。尋問が始まる気配を感じながら柔弱な精神で返事をする。予想通り、いつ?どんな人?と立て続けに矢が飛んできた。神様どうかお許しを…

「一番最近は高2の時、同級生…ねぇ〜この話題広げるの?」
「広げるよ。何で付き合うことになったの?」

自分より若い子の圧と粘りに勝てるわけもなく、私は背筋を丸めてしぶしぶ答える。

「ほんとに波乱も何もないし普通だよ…友達の友達みたいなコミュニティでよく一緒に遊んでて、告られたから1年くらい付き合ってみたけど、何か違うかもねって別れた」
『何か違うって何よ?』

突然会話に参加してきたのはレース中の桐絵さん。現在1位独走中である程度気持ちの余裕があるのだろう。少し後ろで2〜4位と団子になって競っている副くんは前のめりの体制で真剣にコントローラーを握っている。

「お互いに友達と恋人の境界がイマイチ曖昧だったっていうのもあって…友達に戻った感じかな。今でも普通に仲良いし、マジでドラマみたいな泥沼展開とかではないよ」
『はぁ?何それ全然意味わかんない。元彼と友達とかちょっと変だよ』
「いやまぁ…大学生にはこれくらいよくある話なんですよ」

投げやりな返事をして逃げようとすると、佐補ちゃんは私の肩にぐいっともたれかかって近距離で呆れ顔を見せてくれた。自分の不甲斐なさを感じるあまり、カワイイネ……と心を無にしようとする私。

『でも、そういうのって気まずくないの?』
「まぁ多少はね…でも、もともと一緒にいて楽しい人だったし、仲良かったのに別れた瞬間嫌いになるのも薄情かなって。お互いライクとラブを履き違えてただけだから縁切るようなことでもないと思うんだよね」

展開した理論については肯定も否定もせず、彼女は少し考えるように間を開けてから次の質問に移った。

『じゃあ、兄ちゃんのことはどう思ってるの?』

突飛な転換。でも、きっとこれは彼女なりに覚悟を決めて聞いた質問なんだろう。彼が弟妹を大切にするように、彼女たちもお兄ちゃんを大切に思っているのは見ていればわかることで、本当はそこに私が入る隙なんてないのかもしれない。

「大切な友達だと思ってるよ」

こんな答えしか返せない自分がここにいるのが何だか無性に申し訳ないと感じる。でもそれを言えばこの子達はきっと悲しむんだろうなと思ったから、なるべく気持ちは顔に出さないよう配慮した。

『じゃあ、もし好きだって言われたら…』
『佐補』
『…なに』
『困らせてる』

ずっと画面しか見ていなかったはずの副くんに言われ、佐補ちゃんは確認するように私の顔を覗き込んだ。不安そうな瞳に大丈夫だよ、の意味を込めて微笑みを返すけど、あまりうまく出来なかったようだ。

『…ごめんなさい』
「気にしないで。私の方こそ、ごめんね」

副くんが止めていなければ、きっと彼女はこう続けたのだろう。『もし好きだって言われたら、兄ちゃんとも付き合ったりするの?』って。止めてくれて良かったという安心と同時に、その質問からいつまで逃げ続けるんだろうっていう自分への疑いの気持ちが湧いた。
正直、嵐山には好かれている方だと思う。でもその好きがライクなのかラブなのかはわからない。私も彼の良いところをたくさん知っているし、一緒にいて楽しいし、彼のことが好きだけど、ライクかラブかをはっきりさせたらもう一緒にいられないような気がするから…まだ自分の気持ちをハッキリさせていない。
もしかしたら、こんな方法で彼の傍に居るのはズルいのかもしれないって、たまに考えることがある。ただの友達なら家族で携帯番号を共有したりしないし、家に専用のお箸があるなんてこともないはずだ。きっとこちらから離れない限り拒まれることもないのだろう。それをわかった上でここにいる私は、この家の人たちの優しさに甘えすぎている。

レースに決着がついた。怒涛の追い上げで副くんが1位でゴールして、桐絵さんは穴に落ちて9位になってしまった。悔しさを全身で表現する桐絵さんには目もくれず、コントローラーを机に置いた副くんはこちらに向き直った。決心するような感じで私の名前を呼ぶ。

『俺たちは、これからもウチに来て欲しいって思ってるんだよ』
「え?」
『また来るねって、いつも言ってくれないから』

まるで反対勢力に立ち向かうかのような面持ちでいる彼を見て、この兄妹が私に何を言いたいのかだいたい察しがついた。

「あぁ…そっか」

別に意識していたわけじゃないけど、知らず知らずのうちにブレーキをかけていたのだろう。無責任なことを言って彼らを待たせてしまわないように。

「私がここに来るのそろそろやめないとなって思ってること、気付いてたんだね」

私の肩に頭を預けている佐補ちゃんは瞼を閉じて何も言わない。その重みを暖かく感じるくらいにはもう、この家に馴染んでしまっている。

『うちに来るの嫌?』

副くんの探るような表情はどこか傷付いているようにも見えた。きっと今日は誤魔化さずに、本当のことを言わないといけない日だ。一呼吸置いて、できるだけ穏やかな調子で宥めるように答える。

「違うよ。ずっと居たくなるから、早くやめないと…って思うの」

ここにいる権利はもともと、嵐山准に与えてもらった。彼は何の条件も見返りも求めずにそれをタダで私に差し出してくれた。計算して人助けをするような人ではないから、良くも悪くも後先は考えてないのだろう。そこで誤算が生じないように、これが永久契約ではないことは私が常に心に留めておかないといけないことだ。

『ずっと居てもいいのに』

佐補ちゃんが小さく呟いた言葉は確かに聞こえた。出来れば聞こえないフリをしたかったけど、向けられる気持ちから逃げるのは良くないことだ。

「できないよ。私はこの家の子でも、親戚でもないし」

こう言えば黙るだろうとわかってて言った私は本当にズルい。どんなにしっかり者でも、やっぱりまだ中学生の2人は返す言葉を見つけられなかった。

『アンタ、言ってることとやってることが一致してないわよ』

悪い大人に黙らされた双子に代わって、反論したのは桐絵さんだった。彼女はきっと普段は言いたいことをハッキリ言う子なんだろうけど、さっきまでは無理に会話に入ろうとせずに聞いているだけだった。そんな自制の効く子がとうとう口を挟むくらい、私の言ってることは変に聞こえるのかな。

『全く面識ないあたしが電話しても無視せずちゃんと来たじゃない。それにご飯食べた後だって適当な理由つけて帰れたはずなのに、現にこうして遊んでるし。アンタもこの子達のこと好きなんでしょ?何で突き放したりするのよ』

双子が言葉に出来なかったことを彼女が全部言葉にして、私の痛いところに突き刺した。大人なら遠慮してくれるところをガンガン攻めてくるあたりに若々しさを感じる。
自分の矛盾してるところを指摘されるのは流石にちょっと辛かった。傷付けたいわけじゃなくて、私には私なりの経緯と考えがあるから言ってるんだ。だから、確かにそうだよねなんて簡単には言えない。
とにかく説明しないことには納得もしてもらえないのだろう。素直な心でぶつかってきた彼らには、誠意を持って自分の考えをしっかり話すべきだ。

「私がこの家に来るようになった理由って、お兄ちゃんから聞いてる?」

まずはそこから話そうと思って聞けば、2人は静かに首を横に振った。ある日突然、お兄ちゃんに連れられて家にやってきた私を見ても嫌な顔ひとつせずに、当たり前のように一緒に食卓を囲んでくれた。そのことに私がどれほど救われたか、きっとこの子達は何も知らないのだろう。

「私、ひとりっ子で両親も共働きだから、家でも1人の時が多くて。小さい時はそれがずっとコンプレックスだったの」

服の下に隠して首にかけていた鍵の冷たさ。聞かせる相手がいなかった音読の宿題。1人だけコンビニ弁当を食べた秋の遠足。いつでもおいでと言われたけど自分からは一度も行けなかったカウンセリングルーム。夜中の公園に響く近所迷惑な笑い声、爆竹の光。タバコ臭いカラオケルーム。
昔のことを話せば大変だったねなんて言われるのが大概のオチで、場が白けるから気軽には言えなかったけど、真剣に受け止めてくれる人と出会ってからは話してもいいんだって思えるようになった。

「ただいまって言ってもおかえりって返ってこない家に帰るのが嫌で、小学生の時は学校が終わると毎日そのまま友達の家に遊びに行ってた。でも、周りのお母さんたちに心配されたり同情される度に『あぁ、今自分の親が悪く思われてるんだろうな』って思っちゃって。結局、避難場所を上手く作れなかったの」

頑張って働いている両親に寂しいなんて言えなくて、1人でも平気でいなくちゃいけないと思い込むうち、いつしか寂しさを忙しさで上書きすることを覚えた。

「中学生になると、そういう境遇の人達と集まって夜でも外に出たり、高校の時も同じような感じで、とにかく誰かと一緒に過ごすことに執着してた。1人で家にいるより外で忙しくしてる方が楽だから、大学生になってからは夜中も日雇いとかバイト掛け持ちして法に触れるギリまで働いて…そんなことしてたらなんと、1年前期の単位めちゃくちゃ落としてこのままじゃ留年するぞって状況になってね」

笑い飛ばしてくれても良かったのに真面目な3人にとっては笑えない話だったのか、不安そうにこちらを見つめる。

「そんな危機的な状況の時に、君達のお兄ちゃんが私の話をちゃんと聞いて、自分のことみたいに親身になって協力してくれたの。おかげで今は夜のバイトもやめてなんとか勉強に集中できてるんだけどね」

聞けば、3人の表情にわかりやすく安堵の色が浮かぶ。

「お兄ちゃんは私がいつも1人で晩御飯食べてるの知ってるから、一緒に食べようって誘ってくれてるんだよ」

今まで出来ないことの手助けをしてくれた人は沢山いた。でもそんな沢山の中で彼だけが、“出来ない”の根底にある原因と向き合って、それをどうにかしようとしてくれた。
日常の中にありふれていて、いつか自分自身でさえ当たり前にして受け入れてしまった小さな絶望を当たり前だと言わずに掬い上げてくれた。
私はずっと欲しかったんだ。こんな自分でも、1人じゃないって思える場所が。

「同情だとしても嬉しかったの。この家の人達に私はすごく救われたなって感じてるし、感謝してる。だからいつまでも優しさにしがみつくわけにはいかなくて。折角仲良くしてくれてるのに、ごめん」

温泉にずっと浸かっていられないのと同じで、私もこの家にはずっと居られない。与えられたものをいつまでも使うんじゃなくて、自分のものはきちんと自分で見つけないと。きっと嵐山も同意するはず。ちょっとだけ、寂しいけど。

「2人のこと大切だから、その場繋ぎの無責任な言葉で期待させて傷付けたくないの。自分勝手でごめんね。でも、ずっとは無理なの。わかってほしい」

それきり副くんと佐補ちゃんは何かを堪えるように口をぎゅっと一文字に結んで、何も言わなくなってしまった。全く同じ行動をとる2人を見て兄妹だなぁと感じる。
しばらくの沈黙の後、桐絵さんがふぅと息を吐いて、腕を組みなおしてから言った。

「言い分はわからないこともないわ。でも、アンタたち2人はもっと話し合うべきよ。准もそう思うでしょ?」

「…あぁ」

空気がピンと張り詰めたリビング。少しの音もたてずに扉を開けて入ってきた嵐山准を見て、コロちゃんだけがワン!と明るい鳴き声をあげた。



**

嵐山家からの帰り道、自転車を引いて歩く私の隣に並ぶ彼は浮かない顔で、いつも伸びている背筋が今日は少しだけ曲がっていた。

「帰ってこないんじゃなかったの?」
「桐絵に君が来てるって聞いたから、家まで送ろうと思って休憩時間に抜けて来たんだ」

受け答えは普通にしてくれるけど、いつまでたっても目が合わない。もしかしたら、今日だけじゃなくて本当はいつも合ってなかったのかもしれない、なんて考えてしまって辛かった。たとえ目が合ってもお互いが同じものを見てるとは限らないんだ。

「そっか…わざわざごめんね」
「ううん。でも、これが良い機会だったのかもしれないな」

ハンドルを握る手に自然と力が籠る。
“良い機会” その言葉の意味を訳せないほど鈍感ではなかった。
同じ大学生でも学校の外に出たら、嵐山准は皆を守る街のヒーローで、私はアルバイトするかサブスクで映画とか見てる一般人。彼も私も、そこに溝があることを知らないわけではない。

「いつか俺が君に、ちゃんと言わないといけないって…本当はわかってたんだ」

ただ一緒にいるために気付かないふりをしてきただけで。

「俺たちは…ずっと一緒には居られないから」

力なく笑う彼の視線は地面に落ちていた。わかってたはずなのに頭が真っ白になる。私が思ってるだけのことより、彼が言葉にすることの方が何百倍もの威力も、現実味もあった。

知ってる、言われたらもう身を引くしかないってこと。差し伸べられた手にいつまでもしがみついてはいけないこと。欲張りになってはいけないこと。これ以上迷惑はかけられないのに。どうしても、そうだねって簡単に引き下がれない自分がいる。でもそんな理性よりももっと強い気持ちを、本当は私、持ってるんだよ。

「嵐山のこと好きだよ。だから、もっと一緒にいたいって言っても駄目?」

奥の方にしまっていた感情が突然声になって飛び出た。自分の声で初めて聞いた言葉、響いた音が空気に馴染んで、身体がだんだんと熱を帯びていく。驚いたように顔を上げた嵐山と一瞬だけ、視線がピタリと合った。その一瞬はスローモーションのように感じたけど、実際はすぐに彼が視線を落としてしまう。

「……ごめん。君と俺では、好きの意味が違うような気がする」

私を優しく振り解いて、彼は苦しそうに顔を顰めた。
そんなに辛そうな顔するってわかってたら、絶対言わなかったのに。

「そう、だね」

喉から血を出すような思いで声を発した。
この人のこと好きだって認めるのが怖かったから、気付かないフリをして自分を騙していた。でも彼にはもう気付かれていたのだろう。そのことについては触れず、ただここに居ることを許してくれていたのに…私って奴は。
自分のことをこんなに恥ずかしく思ったことはない。きっと、優しい同情心に甘えて傍にいようとしたツケが回ってきたんだ。もっと何か言わなくちゃな。でも、言葉が…

「ごめん、これ以上傷付けてしまうのが本当に怖い」

だんだんと曇っていく彼の声色に、そっと言葉を封じられる。夜風の冷たさで頬がチリチリと痛んだ。嵐山は額に手を当て、何かに耐えるように目を伏せていた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。

「こっちこそ変なこと言って…ごめん」

たとえば、ここで泣いたりして彼を困らせたらまだ爪痕の1つでも残せただろうか。残念ながらそんな愛想は持ち合わせていなくて、言ってしまった言葉も過ぎた時間も等しく返ってこないことだけをただ知っていて。やけに冷静な頭で彼と過ごした時間を出来るだけ大切な思い出にしようなんて考えていた。

美味しいアジフライを分けてくれようとした優しいところ、私をからかう時のちょっと意地悪で悪戯っぽい笑顔、たくさん褒めると照れて俯いてしまう癖も。彼が普通に生きている瞬間ひとつひとつ、シャッターを切るように大切に記憶していたい。しかし、いくらそう思っていても時が進めば記憶はフィルムのように巻き取られて、新しいデータの下敷きになって埋もれて、やがて思い出せなくなってゆくのだろう。
中学生の頃、何かと気にかけてくれた体育の先生の顔はもうぼんやりとしか覚えていないし、身を寄せ合って夜を明かしたあの子達も、誰1人としてフルネームを思い出せない。それと同じように、彼だって例外なく昔の人になっていく。私は薄情だから、1ヶ月後にはもう別の友達と笑えてるんだろうな。1年後にはすっかり立ち直って、テレビの報道番組で彼の活躍をぼんやり眺めてるんだろう。
今まで普通にやってきたことをやるだけのはずなのに、ワガママな心は悲鳴を上げる代わりにジクジク痛んだ。

そこからは何も言葉が出なかった。どうやって歩いたのかもハッキリと覚えていない。
その日私たちは初めて、次に会う約束をしないまま別れた。来た道を振り返らずに歩く彼の背中をしばらく眺めて、もう振り返ってくれることはないんだと察して、鉛のように重い玄関の扉を開ける。

「ただいま」

真っ暗な玄関に小さな声が響いた。返ってくるのはただ重たいだけの沈黙だった。

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